荒野の娘たち(中編)

「おばあ、どうしたの。外にいたら冷えるよ」
ある晩、ノギヤは住家の前でまじまじと夜空を見上げる祖母に首を傾げた。
夜空には満天の星と月が輝いている。なかなか寝床にやってこない祖母の様子を見にきたノギヤは、その隣で同じように夜空を見上げた。いつの間にかノギヤよりも小さくなった祖母は、孫に一瞥もくれず月を指し示した。
「月がどうかした?」
祖母の意図が分からずノギヤは困惑する。
日頃は陽気な祖母の横顔に笑みはなかった。微動だにもせず夜空を睨める祖母にどう声をかけたものか迷い、ノギヤもしばし月を眺める。
「──あれ、小月ダラガブってあんなだったっけ?」
月の衛星。月神メネフィナの番犬。地上に月影を射し降ろす大月に対し、随伴するそれは小月と呼ばれ、二つを合わせて双月と呼ぶ。
ノギヤは腰に手を当て首を捻る。ダラガブの輝きが奇妙に思えたのだ。時節によりその輝きに強弱はあれど、あれほど赤く輝いていただろうか。
「おばあ?」
 月ではなく、小月に違和感を覚えてこれほど食い入るように夜空を見上げていたのだろうか。ノギヤに顔を覗き込まれ、祖母はようやく詰めていた息を吐いた。軽く頭を振り、老いた顔にえくぼを浮かべた。
「さあ、中に入ろう。今夜も冷えるねえ」
 祖母を伴い住家に戻ると、熟睡する弟の背をラヤンが優しく叩いていた。
「カヤ、寝ちゃった?」
「さっき……。おばあを待つって言い張ってたんだけど」
 声を低めて言葉を交わす。
 大抵は実母の住家で眠るが、幼い弟も集落の他の姉たちに違わず、祖母の小噺を聞きながら眠るのが好きだった。祖母を待つ間に遊んでいたのか、カヤの枕辺には年季の入った木彫りの玩具──かつてヌンが彫った物だ──が転がっている。
「そりゃあ悪いことをしてしまったね」
 言って笑い、祖母はカヤの頭を軽く撫でた。身じろぎをしたカヤは、しかし起きる気配もなくそのまま寝返りを打った。その安らかな寝顔を目を細めて眺めながら祖母は口ずさむ。
「……炎天の貴婦人よ。どうか我が子らをお護りください……」

 

「ラヤン、どこいくの」
 ダラガブが奇妙な輝きを放っていたことなど記憶から薄れた頃。
 狩った獲物を捌いていたノギヤは、そっと集落を離れようとしていたラヤンに呼びかけた。ラヤンは驚いたように足を止め、自分を追ってきたノギヤにぎこちない笑みを向ける。
「もう戻ってきてたの? ちょっと生命の樹のところまでね。樹皮をもらいにいこうと思って」
「アタシも行くよ。ちょうど捌き終わったところなんだ」
 ちょっと待ってて、とラヤンの返事も聞かずに踵を返す。せっせと片付けを始めたノギヤにラヤンはなぜか慌てた様子だった。
「一人でいいよ。ちょっと行ってくるだけだから」
「いーじゃん。気分転換したいのー」
 手早く支度を終え、ノギヤは弓を携える。近頃はわずかな距離でも武器の携帯を欠かさなかった。獣人たちは相変わらず荒野の治安を乱している。そこにガレマール帝国軍の不穏な動向も重なり、とにかく武器を手放さないようにしていた。
「すぐ終わるのに……」
 いつもなら同行を喜ぶはずのラヤンがやけに渋るので、ノギヤは首を捻った。
「なんかむくれてる?」
「むくれてませーん。もう、早く行こっ」
 唇を尖らせながら、ラヤンは手に持ったかごでノギヤをつついた。「はあい」と笑い、ノギヤはラヤンと並んで馴染みの道を行く。
「お、今日もウルダハがよく見えますねえ」
 ノギヤは樹まで来ると決まってその天辺まで登った。
 この日もずんぐりとした樹を器用に登ると、梢から身を乗り出し、荒野の彼方に変わらず在り続ける砂の都を望む。
 かつては遠い存在だったウルダハも、隊商の護衛に加わるようになったノギヤにとって、もはや無縁の場所ではなかった。遠目にも巨大な山のようなウルダハは、事実、ノギヤの想像を絶する大都市だった。初めてウルダハを訪れた時は建物の高さと人の多さに目を回してしまったものだ。
 幾度か足を運ぶうちに都会というものにも慣れ、なるほど物資や情報を仕入れるのにこれほど最適な場所はないだろう、と思えるようになったが、たとえ荒野の只中での暮らしがいかに厳しいものであろうと、生まれ育った集落がどこよりも安堵できるとつくづく思うノギヤである。
 とはいえ、やはり集落にはない珍しい品を欲するなら、近くの市か街まで出向く必要がある。ノギヤにはいま、どうしても入手したいものがあった。
 ──直にノギヤとラヤンが十七歳を迎える日がやってくる。その日のために狩りに精を出し金銭を貯めてきた。店にも目星をつけてある。後はもう、実際に品を手にいれるだけだ。
 そろそろ売り物にする品物も溜まってきた頃合いだ。近くヌンから市へ出向くとの指示が出るだろう。それがウルダハか、近くの市になるかは不明だが、ノギヤはその指示が下るのを今か今かと待っていた。
「あれ」
 実際に品物を手にする日を思うとついつい口元が緩んでしまう。いまもウルダハを遠目に我知らず笑みを浮かべていたノギヤの耳に、ラヤンのつぶやき声が届いた。ノギヤは梢から顔を覗かせる。
「どうかしたー?」
 樹皮を剥ごうとしたナイフを手にしたまま、ラヤンは困惑した表情をノギヤに向ける。
「皮が戻ってない……」
 ノギヤは首を傾げた。
「他の人も採ったんじゃない?」
「ううん、前に樹皮を剥いだ時、ちょうどこのあたりだったの。いつもならもう戻ってる頃なのに」
 生命の樹の樹皮は再生が早かった。樹を痛めぬよう採る量には注意し、再生すればまたありがたく恵みをいただきながらノギヤたちは暮らしている。
 ラヤンは迷った末に何も採らずナイフを収めた。
「採らないの?」
 ラヤンは残念そうに笑った。
「今日はやめておく。樹が枯れるようなことがあったら困るし」
「そっか。じゃあ──」
 帰ろっか、と梢から降りようとしたノギヤは、耳をピクリとさせた。
 梢から荒野に向かって耳目を凝らす。
「どうしたの?」
 ラヤンが不安そうに声を上げた。
 その声には応えず、ノギヤはアラグ陽動に目を走らせる。なにか聞こえた。穏やかではない音だ。耳をピンと張り、そして緊張の発生源を見つけた。ノギヤはラヤンに向かって叫ぶ。
「アマルジャ族の連中だ! 隊商が襲われてる!」
 ウルダハへ向かう隊商だろう。確かに狩りの最中、遠目に小さな隊商を見かけた。護衛がいるようだが、どうやら戦況はアマルジャ族に有利なようだ。
「ラヤンはヌンに知らせて! アタシは隊商に加勢してくる!」
「わ、わかった!」
 ノギヤは梢から飛び降りると弓を構えた。ラヤンを集落の方へと押し出しながら、自身は戦場へと走り出す。
 多少の時間を稼げれば集落からの増援も間に合う距離だ。騒ぎを察知した近隣のキャンプが動いてくれれば話は早い。決してアマルジャ族に太刀打ちできない状況ではなかった。
 ノギヤは怒りで血が沸き立つのを感じた。近頃のアマルジャ族の好戦ぶりには辟易する。街道沿いの安全が確保できなくなれば荷の流通が滞ってしまう。それは即ち、ノギヤたちの暮らしにも影響するのだ。決して見過ごすことはできない。

 

「いやはや、おかげで命拾いしました。ウルダハに辿り着けないまま骨になるかと」
「近頃はどうにも物盗りや粗暴な獣人が多くてね。災難だったな」
戦場の外からアマルジャ族を撹乱して回ったノギヤは、集落からヌンたちが駆けつけるのに充分な時間を稼いだ。形勢が逆転し敗走を始めたアマルジャ族を残らず地に叩き伏せると、ノギヤたちは隊商を伴い集落へ──隊商にとっては来た道を引き返す形で──戻った。

 集落の広場は隊商の怪我人と積荷、チョコボたちに埋め尽くされ、その隙間を母や娘たちが忙しそうに駆け回っていた。集落に留まりノギヤたちの帰りを待っていたラヤンも、幼い弟を連れ慌ただしく怪我人の手当てをして回っている。カヤも幼いなりに場の雰囲気を感じ取っているのだろう、大真面目な顔つきで姉の手伝いをしていたが、その瞳はミコッテ族の集落では珍しい大勢の男性やチョコボたちへの好奇心に輝いていた。
「ハイウィンド社の飛空艇が襲撃されて以来、どうも風向きが悪い。蛮族どもにも腹が立つが、近頃はガレマール帝国の連中もキナ臭いときている。辺境で小競り合いを起こしてばかりじゃない。蛮族どもと繋がっているという噂もあるじゃないか」
 隊商の長は忌々しげに首を振った。ヌンは眉を顰める。
「黒衣森に築いた壁を超えてくるようになったのか。知っていることがあれば詳しく教えてはくれまいか」
 もちろんだとも、と快く応えた隊長を連れ、ヌンはその場を妻と娘たちに任せ住家に戻っていった。
 遠巻きにヌンと隊長のやりとりを見守っていたノギヤは、その姿が住家に消えるのを見届けると隊商の救護へと戻った。母たちの指示に従って隊商の人々の怪我と治療の具合を見てまわり、必要な物資があれば許す限りの量を提供して回る。ラヤンとは何度もすれ違ったが、ゆっくり言葉を交わす暇もない。
 ノギヤが治療を請け負った商人の中にミコッテ族の商人がいた。
 少しばかりふくよかなその中年の男性は、軽傷ではあったが一連の騒動に疲弊しているようだった。それでもノギヤが声をかけると気丈な笑みをみせ、いかにも人の良さそうな人物だった。
「君たちはイ氏族の人々なのだね。私の知るイ氏族はラノシア地方にも集落を築いていたが、あちらの方々とは遠縁かね?」
 思わぬ話題にノギヤはへえ、と笑った。両親や祖母以外から海向こうのミコッテ族の話を聞くのは初めてだった。
「ヌンの故郷は海の向こうらしいんだけど、交流とかは全然なくてさ。アタシもザナラーンから離れたことがないんだ。おじさんのいう集落の人たちが親戚かは分かんないけど、もしかしたらそうかもね。おじさんは? どこの人?」
「私はワ氏族の者でね。私も元々はラノシアの海辺にある村で暮らしていたんだが、街に出て商売を始めてもうずいぶん長い。いやはや、懐かしいものだよ。こうしていると若い頃を思い出すね。私も昔は、ヌンや姉たちに狩りや漁を習ったもんだ」
 もっとも、体が弱くて狩人にも漁師にも向かなかったのだけれど、と商人は笑った。 疲労の色濃い顔をしていたが、同族の集落の雰囲気に緊張がほぐれたのか、目元を和ませて周囲を見渡している。家族以外のミコッテ族の男性──おそらくヌンと同年代の独立した──と話す機会は滅多にないから、集落を気に入ったらしい商人にノギヤも悪い気はしなかった。
「ところで、あのおさげのお嬢さんはなんというお名前だい?」
 商人に尋ねられ、ノギヤは首を傾げた。商人の目線の先にはラヤンがいる。
「ラヤンのこと?」
「ラヤンさんというのかい。素敵なお嬢さんじゃあないか。随分と働き者なのだね。それにたいそう気立てが良さそうだ」
「はあ、どうも」
 商人の意図が分からず、ノギヤは目を瞬かせた。
「ラヤンさんには、どこかのヌンとの縁談があったりするのかね?」
「はい?」
「いや、一目見てピンときてしまってね。私には年頃の息子がいるのだが、ラヤンさんのような素敵なお嬢さんがうちに嫁いできてくれたらと思ってね。こちらのヌンが気を悪くしないのなら、ラヤンさんと息子を一度見合わせてもらえないかと思うのだが、イ氏族ではどう婚姻を取り決めているのかね?」
 商人は最前と変わらず、にこにこと朗らかな笑みを浮かべている。
 思わずぽかんとしてしまったノギヤは、我に返ると口をぱくぱくさせ、
「──ヌ、ヌンに勝てない男は認められないと思います!」
 ようやく口を突いて出た言葉で商人に面食らわせるのだった。
「そ、そうか。さすが、荒野の民は厳しいね」

 

「へーえ、ラヤンがねえ」
 姉たちはすっかり雑然とした広場を片付けながら、末の妹に突如として舞い降りた縁談に沸いていた。
「あたしたちよりも先に縁談かあ」
「ラヤンは別嬪さんだからねー」
 姉たちが好き勝手に盛り上がる横で、ノギヤは会話に加わらず黙々と手を動かしていた。
 ラヤンがヌンに呼ばれてしばらく経つ。先ほどの商人がヌンを訪ねた後のことだ。わざわざラヤンだけが呼ばれたのだから、話の内容は当然、救助の礼だけではないだろう。
「なーに怖い顔してるのさ、ノギヤ」
「べつに……」
 姉の一人がにやにやと顔を覗き込んでくる。
「相棒がとられそうで悔しいんでしょー?」
「ちーがーう! でもさ、ラヤンは体が丈夫なほうじゃないんだよ? どんな男が相手か知らないけど、ラヤンの分も逞しくないとアタシは納得できないねっ」
 腕を組んでそっぽを向く妹に、姉たちは顔を見合わせてくすくす笑う。
「そうかなー? 街で暮らすなら、腕っ節ばっかり強くてもしかたないんじゃない?」
「ねえ? 優しそうな人だったし、ティアも似たような男ならさー、おっとりしてるラヤンとは相性いいかもよ」
「姉さんっ」
 ラヤンが良い伴侶に恵まれるのなら、それは当然、喜ばしい。妹の人柄と器量を見初められたとあれば誇らしさもある。──だが、あまりにも急ではないだろうか。ラヤンはいまごろ、どんな顔でヌンの話を聞いているのだろう。驚いているだろうか。それとも喜んでいるだろうか。
 一番上の姉は男に惚れ込んで集落を旅立っていった。その時は長年恋心を隠していた姉に驚きつつも祝福して見送れたというのに。言葉にできない複雑な胸中にノギヤは我知らず仏頂面になっていた。
「あ、ラヤン!」
 姉の一人が声を上げた。ノギヤもすぐさま顔を上げる。
 ヌンの住家から出てきたラヤンは、姉たちを見つけるなり真っ赤な顔をして縋るように走り寄ってきた。
「ねえねえ、どうだったの? よさそうな縁談だった?」
「ヌンはなんて? 乗り気だったの?」
「も、もう! からかわないで! 断ったに決まってるでしょっ」
 寄ってたかって末妹を質問攻めにしようとした姉たちは一斉に驚愕の声を上げた。
「なんでさ? けっこう裕福そうな商人だったじゃない」
「そうよラヤン。あんた昔からおしゃれが好きじゃない。商人の家に嫁いだら贅沢させてもらえるかもしれないのに」
「なんでって……。だってそんな、急に言われても、心の準備が……」
 泣きそうな顔で俯く末妹に姉たちは顔を見合わせた。
「それなら断らないで、なんどか話し合いの席を設けてもらったらいいじゃない?」
「ねえ? まだ本人にも会ってないんだし。会ってみたら一目惚れしちゃうかもよ?」
「この話はもう終わり! やることはいっぱいあるでしょっ。姉さんたちも仕事に戻ってよ。行こ、ノギヤっ」
 ラヤンはノギヤの手を取ると、残念そうな声を上げる姉たちを振り切って広場を離れた。ノギヤはラヤンの横顔を遠慮がちに覗きこんだ。
「……断ってよかったの?」
「もう、ノギヤまで!」
 ──その晩は集落と隊商の間で盛んに情報が交わされ、物資が取り交わされた。都から遠く離れたこの辺境の地で、街道を行く者は貴重な情報源だ。
 ガレマール帝国軍の飛空戦艦がエオルゼアの空を侵略しているだけでなく、辺境のキャンプを散発的に襲撃しているという。これまでガレマール帝国軍の侵攻をどこか遠く異郷の話と感じていたノギヤも、さすがに背筋が寒くなるのを感じ、唇を引き結んだ。

 

「ノギヤ姉ちゃんもウルダハに行くの⁉︎
 明けて翌日、隊商は荒野の娘を二名、護衛に加えて出発することになった。内一人はノギヤだ。近々市に赴きたいと考えていたノギヤにとって、護衛を増やしたいという隊商の願い出は好都合だった。いの一番に名乗りを上げると、この日のために貯めていた金銭を荷に忍ばせ、意気揚々と支度を終えた。
「そうだよー。お土産にお菓子でも買ってきてあげるから、楽しみにしてなー?」
「僕も行く! ウルダハに行ってみたい!」
「んー、途中でゴブリン族とかキキルン族に襲われちゃうかもよー?」
「こ、怖くないよ! 僕も戦うもん!」
 足にしがみついて離れない弟の頭にノギヤは優しく手を置いた。
「勇敢で結構、結構。でも今回はラヤン姉ちゃんと留守番してて。アタシがいない分、ラヤン姉ちゃんを守ってあげてよ。頼りにしてるからさ、カヤのこと」
 姉にウインクされ、カヤはしばらく口を噤み、わかった、と頷いた。
「ノギヤ姉ちゃんはラヤン姉ちゃんがいなくて大丈夫? 忘れ物とかしてない?」
 今度は心配そうに顔を覗き込まれ、ノギヤは苦笑する。
「してませーん。弓よし、小刀よし、水よし、財布よーし」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「いい子で待っててね」
 しゃがみこんで視線を同じくし、弟の頭をぽんぽんと叩く。ぐずったせいで乱れてしまった見事な刺繍の衣服を整えてやる。ラヤンが溺愛する実弟のために拵えた衣服や身の回りの品には、健やかな成長や厄除けを願う柄、水牛の柄が欠かさず施してあった。
「気をつけてね、ノギヤ。行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
 見送りにやってきたラヤンとも挨拶を交わし、ノギヤは隊商の殿に控えて一路ウルダハの途についた。
 もともと隊商の護衛を担っていた傭兵たちはいかにも気の良い連中だったが、荒野の旅には慣れていなかったらしく、商人たちに冷たい目で見られすっかり小さくなってしまっていた。よく聞けば傭兵ではなく冒険者なのだそうだが、ノギヤには昔から両者の違いが判然としなかった。武器を手にし戦を生業にするのなら、それは傭兵という呼び名が冒険者に塗り変わっただけなのでは、と。
(──ああ、もう月が出てる)
 襲撃を受けた影響か警戒心を強めてしまったチョコボは思うように歩みを進めなかったが、一行はその後、災難に見舞われることなくウルダハに到着した。隊商と別れ一息つき、ふと見上げた空には既に月の姿があった。
「──?」
 ノギヤは眉を顰めた。言葉にできない違和感に胸がざわついた。
 月のそばで小月がちらちらと輝いている。──赤く、やけに禍々しく。

 

「──ノギヤ!」
 住家の掃除をしていたラヤンは扉の音に振り返り、すぐに笑みを浮かべた。
「おかえり。今度は無事にウルダハまで行けた?」
 ほうきを置き、ウルダハから戻ったばかりの片割れに駆け寄ると心配そうにその手を取った。
「アタシたちがいなくても問題なかったんじゃないかってくらい何にもなかったよ。チョコボが休み休みしか歩いてくれなくて参ったけどね。──ただいま」
 ノギヤもラヤンの手を力強く握り返した。
「あのさ、ラヤンに渡したいものがあるんだ。これ」
 ノギヤはラヤンの手を軽く叩いて離すと、その場で荷を解き始めた。
 ウルダハで手に入れてきたそれをきょとんとしているラヤンに手渡すと、気恥ずかしそうに頬を掻いた。──手鏡だ。
「ずっと欲しがってたじゃない。お土産に買ってきたんだ。それにほら、もうすぐ十七になるでしょ。ちょっと早いけど、お祝いにと思ってさ。毎日使うものだから早めに渡したほうが喜ぶかなーって」
 幼い頃から欲しがっていた手鏡をラヤンが手にする機会はこれまでにも幾度かあったが、彼女が自身のことを常に後回しにしていることをノギヤは知っていた。小さな弟の衣服を拵えるために少しでも良い布や色糸を。体の弱い母や足腰の弱ってきた祖母のために生薬を。ヌンに自身をもっと労うよう勧められても「好きでやっていることだから」と、家族のために働くことを厭わないラヤンを、ノギヤはいつも隣から見ていた。
 ラヤンは手鏡を手にぽかんとしている。
「ほんとはもっと飾りがついた綺麗なやつを買いたかったんだけど、こんな質素なのしか買えなかったよ。ごめんね」
 真鍮のフレームに嵌められた鏡面はガラス製、持ち手は美しく細工され、鏡面の裏には繊細な花模様が彫り込まれている。
「ラヤン?」
 あまりにラヤンが喋らないので、ノギヤは次第に肩を竦めていく。
 気に入らなかっただろうかと不安に思いラヤンの顔を覗き込むと、ラヤンは慌てたように目元を──見る間に潤み始めた目元を拭った。
「もう、どうして謝るの? ──ありがとう。大切にする」
 ようやく顔を上げ、手鏡を胸に抱きしめると、鼻の頭が赤くなった顔で笑う。ノギヤもほっと胸を撫で、安堵した笑みで頷き返した。
「あたしもノギヤに渡すものがあるの。ちょっと待ってて」
 ラヤンは住家の奥に姿を消し、すぐに戻ってくる。
「腕を出して」
 言われ、ノギヤは首を傾げながらも右腕を差し出した。ラヤンはその手首に組み紐を結ぶ。
「ラヤンが編んでくれたの?」
 組み紐が結ばれた腕を掲げ、ノギヤは矯めつ眇めつする。赤と黄と白と。力強い色どりをした組み紐だった。
「最近、物騒なことが多いから……。どうかノギヤをお護りくださいって、アーゼマ様への祈りを生命の樹の皮紐に一本一本、込めながら編んだの。それに──十七歳のお祝いに。ちょっと早いけどね? ノギヤが先取りするだもん。だったら、あたしも」
 ラヤンに悪戯っぽく笑われ、ノギヤは目を細めた。
「ありがとう。綺麗な色だな。素敵だよ」
「そう? よかった」
 少女たちはしばし見つめ合い、すぐにくすくすと笑いあった。
 住家に少女たちの笑い声が満ちていく。穏やかで愛おしい時間が過ぎていく。

 

 ──日々を心安く過ごせなくなったのはいつ頃からだろうか。
 ちらちらと赤く禍々しい輝きを帯びたように見えていた小月は、日を追うごとにその姿を膨れさせていった。
 何かの思い違いだろう、単に時節によるものだろうという楽観は、膨張を続ける小月を前に次第に消えていった。古より月に寄り添い続けてきた小月の異変はいかにも不気味で、凶兆に思えてならなかった。
 祖母が日神アーゼマに熱心な祈祷を捧げるようになった。日に幾度も祈りを捧げるその後ろ姿に、ノギヤはいつかの夜に祖母と見上げた小月を思い出した。異変は、振り返ればもう随分と前から起こっていたのだ。
 それでも荒野の娘たちは気丈に日々を過ごしていた。眉間の皺が深くなるヌンの表情や祈祷を重ねる祖母の姿に不安を煽られないわけではなかったが、少しでもこれまでの暮らしを維持すべく、弓や槍を手に荒野を馳せた。ヌンの言葉に従い食糧と物資の備蓄を増やし、獣人たちの動向にもいっそう注意を払った。小競り合いは変わらず起こったが、誰一人、欠けることなくこれを押し返し続けた。

 

 ──ダラガブは膨張しているのではなく、大地に接近しているのだという噂が街道伝いに集落まで届くようになった。
 集落に立ち寄った商人の話を、ノギヤはまさか、と笑って聞き逃すことができなかった。事実、ダラガブはその姿を膨らますだけでなく、月から離れたように思えていたからだ。いまやダラガブは昼夜を問わず空に張り付いていた。
 ノギヤはその異様な輝きをどう表現してよいのか分からなかった。天にあるべきものとして異質な──まるでそれだけが異物のような。美しい原野が無粋な人間によって踏み荒らされた様を目の当たりにしたような不快感。
 集落の者たちは次第に俯きながら暮らすようになった。あの不吉なものを、誰も目に入れたくはなかったのだ。ノギヤとラヤンも例外ではなかった。ただヌンひとりが空を仰ぎ見ることが増えた。

 

 姉たちと狩りを終え集落に戻ったノギヤは獲物を捌く手を休め、我が物顔で空に居座るダラガブを睨み上げた。ダラガブが膨張するほど──接近するほど、体中の産毛がざわつく。いまやダラガブの存在は獣人やガレマール帝国軍の動向よりもノギヤを苛立たせた。
 そして──とノギヤは手元に視線を落とした。──荒野も苛立っている。
 近頃は荒野の生き物すべてが苛立っているように感じられた。獣たちは攻撃的になり、荒野全体の空気がぴりぴりと張り詰めているようだ。
 仮に接近説が真実だとして、どうなるというのだろう。空を占拠し、大地と睨み合っていくのだろうか。それとも大地に衝突するまで接近しつづけるとでもいうのか。──大地と衝突すればどうなってしまうのか。
「ノギヤ、帰ってたの。おかえり」
 暗い気分で獲物の処理するノギヤに声をかける者があった。振り返るとかごを抱えたラヤンとカヤが立っていた。
「ただいま。お、カヤはラヤン姉ちゃんの手伝いかなー? えらい、えらい」
 弟は俯いたまま小さく「うん」と言っただけだった。
「……どうしたの?」
 あどけない笑みも、弾むような声もない弟にノギヤはそっと尋ねた。
 カヤは少しだけ空を見上げ、すぐに視線を地面に落とした。
「ねえ、ダラガブは落っこちてくるの?」
 泣きそうな声で問われ、ノギヤはぎくりとした。
「どうかなあ。それは姉ちゃんたちにも分からないよ。でも大丈夫。なにがあってもヌンがアタシたちを守ってくれるし、アタシもラヤン姉ちゃんもいるでしょ?」
 ノギヤは努めて明るい声を出した。──実際、ダラガブがどうなってしまうかなど、ノギヤにとて分かるはずがない。
 そうよ、とラヤンは膝を折って幼い弟の肩に腕をまわした。
「あたしたちだけじゃない。炎天におわすアーゼマ様がいつもあたしたちのことを見守っていてくださるから」
「アーゼマ様はお怒りになっているんじゃないの?」
「え?」
 カヤは怯えの滲む瞳でラヤンを見上げた。
「僕たちがフシンジンだからアーゼマ様がお怒りになって、それでおばあが毎日毎日、たくさんお祈りしているんじゃないの? どうかサイヤクからお守りくださいって。あんなにお祈りしないといけないくらい、アーゼマ様はお怒りなんじゃないの?」
 ラヤンは弟の背中を何度もさすった。
「カヤもお姉ちゃんやおばあと一緒に毎日お祈りを捧げているでしょう? それなのに不信心だなんて。そんなにふうに不安そうな顔をしなくていいんだよ。最近は物騒なことも多いから、おばあはその分、熱心にお祈りしているだけ。大丈夫。……大丈夫だから」
 ノギヤもにっかりとした笑みを作る。
「そーそー。カヤは心配性だなあ。カヤはいつかこの縄張りを巡ってヌンと争うティアなんだよ? 将来のヌン候補として、いつ何時もどんと構えてないと」
「……うん」
 姉たちの気丈な励ましを受けてなお、カヤの声には張りがなかった。ノギヤとラヤンは困ったように目線を交わした。
「そうだ、これをカヤにあげる」
 ラヤンは肌身離さず身に着けている紫水晶の首飾りを外し、そのまま弟の首に提げてやる。
「これ、ラヤン姉ちゃんが大事にしてるやつ……」
「うん。でもカヤにあげる。その首飾りにはね、魔除けのまじないがかけてあるの。なにか悪いことがあっても、きっとカヤを守ってくれるから。だから忘れずに身につけていてね?」
「僕がもらっていいの? おまじないがかかってるのに」
「いいの。これからはカヤがすくすく大きくなるようにってまじないもこめないとね」
 ラヤンに優しく頭を撫でられ、ようやくカヤの表情が和らいだ。弟の顔に笑顔が戻り、ノギヤも笑う。
「懐かしいな、この紫水晶。カヤはウェリ兄さんのこと覚えてる?」
「僕と同じティアのお兄さんだよね?」
 カヤは困ったように口をもごもごさせた。
「そうそう。さすがに覚えてないか。まだ赤ん坊の頃だもんね、ウェリが旅に出ちゃったのって」
「ウェリ兄さんがどうかしたの?」
 カヤに首を傾げられ、ノギヤはなんでもない、と首を振った。ラヤンはああ、と笑って弟の首にかけた首飾りに触れた。
「この紫水晶はね、昔ウェリ兄さんがあたしにくれたものなの。街道に落ちていたのを見つけて拾ってきたんだって。それをあたしが首飾りにしたんだよ」
「へえ」
 目を丸くする弟にノギヤは頷く。
「つまり、その首飾りにはカヤの兄さんと姉ちゃん、二人の想いが込められているのです。なーんて」
「そうよ。だからあまり不安そうな顔をしないで。ね?」
 指を立てて聞こえの良いことを言うノギヤに乗り、ラヤンは両手で弟の頬を撫でた。
「うんっ」
 元気な笑顔を見せた弟に安堵したのも刹那、騒々しい足音が和みかけた空気を割った。
「──大変、大変だ!」
 姉の一人が慌てふためいた様子で広場に駆け込んできた。ノギヤとラヤンはさっと顔色を変えて立ち上がる。獣人が集落の近くまでやってきたのか。それともガレマール帝国兵の姿でも見えたのか。
 姉はノギヤたちのそばまで駆け寄ると、上擦った声で背後を指差した。
「──ウェリだ! ウェリが帰ってきた!」

 

「里帰りぃ?」
ヌンの住家、その居室。

 緊張した面持ちのヌンや姉妹たちは数年ぶりに帰還したティアの──ウェリの言葉にどっと脱力した。
「なあんだ。てっきりヌンに勝負を挑みにきたんだと思ったじゃない」
「ねえ? あー、緊張して損したあ」
「里帰りとか言ってぇ、実はウェリ、ヌンを前にしたら怖じ気づいちゃったんじゃないのぉ?」
「俺は縄張りを持ってヌンになるなんて御免だね。姉さんたちみたいなのに囲まれて暮らすなんて、姦しくて堪ったもんじゃない」
 好き勝手に言い放つ姉たちにウェリはつっけんどんに返す。
「へぇ、ウェリも生意気言うようになったじゃーん」
「失礼しちゃう、こんな素敵な姉さんたちに恵まれてるっていうのに」
「ほんとほんと」
 寄ってたかって弟を囃し立てる娘たちを苦笑しながら宥め、ヌンは改めて息子に向き直った。
「それで、ここを出てからはどうしていたんだ。随分と立派な鎧じゃないか。傭兵稼業でもして身を立てているのか」
 ウェリが身につけている革鎧はいかにも上等そうな代物だった。得物の槍は新調したばかりなのか、まだ真新しさが残っている。
「旅先で出会った奴らと組んで、冒険者稼業で食い繋いでるよ。まあ実際、傭兵と大差ないけど」
「そうか。で、そのお仲間さんとは一緒じゃないのか」
 ウェリは肩を竦めた。
「あいつらも里帰り中。みんな故郷に顔を出してくるってんで、まあ、俺もたまには他種族の連中に倣ってみるかと思って」
「そんなこと言って、ウェリが里心ついただけだったりしてー?」
 横槍を入れてからかう姉をウェリはじろりと睨む。睨まれた姉は「怖い、怖い」と周囲の姉妹と忍び笑った。
「──モードゥナにガレマール帝国軍の要塞ができた話は?」
「いや」
 ウェリに切り出され、ヌンを眉を顰めた。
「モードゥナってどこ?」
 聞き慣れない地名に姉の一人が首を傾げた。
「ザナラーンの北のほう。ちょうど小大陸の真ん中あたりの地域」
 姉たちは顔を見合わせた。
「なーんだ、ずいぶん遠くじゃん」
「分かってないな。帝国軍がどれだけの短期間でその要塞を建てたと思う? あちらには瞬く間にそれを可能にする圧倒的な物量と技術力があるんだ。それがどれだけ脅威か。それに飛空艇が……」
「帝国の飛空艇が黒衣森の壁を超えてくるようになったそうだな。やはり事実なのか」
 ウェリは顔をしかめて頷いた。
「随分と低く飛んでこちらを威嚇しているように思う。実際、飛空艇からの降下部隊と交戦したこともある。このあたりには?」
「いまのところは、来てないな」
「守りを固めたほうがいい」
 きっぱりとした声に緊張が走った。住家に集った者たちは困惑し、あるいはわずかに動揺して互いに視線を交し合った。それまでヌンとウェリの会話に黙って耳を傾けていたノギヤもぎくりと体を強張らせた。密かに隣のラヤンを見やると、妹は怯えたように俯き、両の手の指を握りこんでいる。
「帝国軍があちこちの辺境で騒動を起こしてる。ひとつひとつの規模は小さいようだけど、あれを繰り返されたら、辺境の戦力や住民なんて見る間に疲弊してしまう。……はっきり言わせてもらうと、この集落程度の規模じゃ、帝国軍の襲撃にあったらひとたまりもない」
 姉の一人が腰を浮かし反駁の声を上げようとしたが、ヌンが手を上げこれを留めた。
「忌憚なき意見、感謝する。守りを厚くするよう心掛けよう」
 ウェリは頷いた。
「近頃じゃ各国が冒険者の力も兵力に組み込もうと街頭で熱心に募兵もしてる。帝国と本格的に衝突するのも時間の問題だと思う」
 言葉を切りひとつ息をつくと、ウェリはまっすぐとヌンを見つめ返した。
「俺の仲間も軍に参加する気でいる。帝国のやり口に業を煮やしているから」
「お前も参加するのか、軍に」
 ヌンは意外そうに目を丸くした。ウェリは肩を竦める。
「俺は組織に属すなんてまっぴら御免だ。けど行くよ、あいつらと」
「……そうか」
 ヌンはわずかに目を細めた。
「ところで、ダラガブについて何か知っていることはないか」
 ウェリは俯いた。
「……わからない。俺たちも気味が悪いとは思ってる」
 そうか、とヌンは小さく唸った。
「ダラガブって、やっぱり大きくなってるんじゃなくて、空から近づいてきてるの?」
 不安そうに声を上げる姉がいた。
「最近だと、接近してるって説のほうがよく聞くのは確かだ。でも、それ以上のことは……」
 住家に重い沈黙が落ちた。姉たちは不安を隠しきれずに視線を交わし合う。
 その空気を破るようにヌンが膝を叩いた。
「なにはともあれだ。せっかく久々に帰ってきたんだ。お前の母さんに顔を見せてこい。妹や弟とも、積もる話があるだろう」
 ヌンの住家を離れ、姉たちが散っていくのを見送ると、ウェリは小さな弟の前で膝をついた。
「カヤ、ずいぶん大きくなったな」
「……ウェリ、兄さん?」
 カヤはおずおずと実兄を見上げる。ラヤンも弟の横で膝をつくと、その細い肩を抱いた。
「そう、ウェリ兄さんよ。カヤがもっともっと小さかった頃は、ウェリ兄さんもよくカヤと遊んでくれていたんだよ」
 なおも戸惑っているカヤの胸元に紫水晶の首飾りを見つけ、ウェリは懐かしそうに手を触れた。
「ああ、これ……」
「ラヤン姉ちゃんがくれたの。魔除けのお守りだって。この石はウェリ兄さんがくれたんだよね」
「懐かしいな。大事にしろよ。ほら、こっちは旅の土産」
 ウェリはカヤの頭をぽんぽんと撫でると、鞄から取り出した木彫りの玩具を小さな手に握らせてやる。カヤはぱっと顔を輝かせた。
「ありがとう!」
 立ち所に解消された人見知りに、ノギヤもラヤンも笑みを禁じ得ない。
「これはラヤンに」
 ウェリに包みを差し出され、ラヤンは目を丸くしながら受け取った。
「口紅だよ。昔から好きだろ、めかすの」
「気を使わなくてよかったのに。……ううん、ありがとう。嬉しい」
 ラヤンは気恥ずかしそうに微笑んだ。
「さっすが実兄、妹が喜ぶ物をよーく分かってますねえ」
「ノギヤにはないぞ。なにか欲しかったらヌンにねだれよな」
 感心した顔でうんうん頷くノギヤにウェリはじとりとした目を向けた。
「なんか欲しいなんて一言もいってないでしょー⁉︎
 どこか懐かしいやりとりにラヤンが吹き出した。それにつられてウェリもノギヤも笑い出したので、幼いカヤは一人できょとんとするのだった。
「それで、どんなとこを旅してきたの」
 母たちの住家へと向う短い道すがら、ノギヤは興味津々でウェリの顔を覗き込む。
「まあ、あちこち。黒衣森を抜けてクルザス方面へも行ってみたし、海を渡ってラノシアの方にも行ってみたよ。黒衣森を抜けるのには参ったな。道は複雑だし、日はあまり射し込まないし」
「へえ。ヌンの故郷には行ってみた?」
「いや。正確な場所も分からないしな。行ったところで知り合いがいるわけじゃなし」
「えー、もったいなーい。探してみたらよかったのに」
 盛り上がるノギヤの横から、カヤがウェリの手を引いた。
「ねえ、海ってどんなふう?」
 期待を込めた目で見上げられ、ウェリは言葉を探すように首を捻った。
「そうだな……。空と重なるぐらい遠くまでずっと水が広がっていて圧倒されるよ。朝日が昇ったり夕日が沈む頃の海は綺麗だったな。陽射しが水面に煌いていて……。潮風がベタつくのはいただけないけどな」
「おばあが言ってるみたいに、青くって、広い?」
「そう、青くて広い」
 ウェリは笑った。やっぱり、とカヤが大人ぶった口調で呟くので、兄妹たちはくすくすと笑いあった。
 母たちの住家に着くと、ノギヤは遠慮してその場を外した。久方ぶりの対面なのだ。血の繋がった親子同士、水入らずのほうが良いだろう。
「兄さん、これ。旅のお守り」
 翌朝早く、すっかり旅支度を終えたウェリにラヤンは水牛の刺繍の入った腕飾りを差し出した。
「ラヤンの刺繍の腕は街の職人にも負けないな。……大事にするよ。ありがとう」
 見事な刺繍に目を丸くしながらも、ウェリは素直に腕飾りを受け取り手首に巻く。
「……本当にもう行っちゃうの? 何日かゆっくりしていったらいいのに」
「里帰りなんて柄じゃないからな、もともと」
 寂しそうな妹に対して素気無い態度を取る息子に苦笑しながらも、ヌンは力強くその肩を叩いた。
「お仲間と集落に立ち寄ることがあったら、いつでも歓迎しよう。息災でな」
 ウェリが再び旅立ってしばらく、兄に贈られた口紅を塗っては手鏡を覗き込むラヤンを目撃することが増えた。「きれい、きれい」と弟が喜ぶので、沈みがちだったラヤンの顔にも華やいだ表情が戻るようになった。
 嬉しそうに頬を上気させるラヤンの姿はノギヤを不思議と安堵させた。ダラガブは相変わらず当たり前の顔をして空に太々しく居座っている。帝国軍の侵攻はもはや他人事ではない。それでも、もっとも身近な者が一時でも不安を忘れ朗らかに過ごしている姿を見ることはノギヤの安らぎだった。

 

 ──だが、平穏はすぐに打ち破られることになった。
 帝国の飛空戦艦がいよいよザナラーンの空を侵すようになった。
 ガレマール帝国の威容を見せつけるかのように轟音とともに空を蹂躙する飛空戦艦を、ノギヤは苛立ちとともに睨み上げるほかなかった。

 

 荒野を覆う苛立ちは次第に殺気へと変わっていった。痛いほど張り詰めた空気は荒野の生物を凶暴にした。
じきに天の気が乱れ始め、大地の気が乱れ始めた。恵みをもらいに生命の樹へと向かっていたノギヤはラヤンの悲鳴に俯かせていた顔を上げ、愕然とした。生命の樹はわずか数日のうちに枯れ果てていた。
 一番上の姉を娶った商人が憔悴しきった姿で集落に現れた。姉は帝国軍の奇襲に巻き込まれ命を落としていた。集落の者たちは悲嘆に暮れた。姉の──妻の死を告げに来た商人は、ヌンが引き止めるのも聞かず、そのままふらふらと荒野を去っていった。
 見たこともない魔物や妖異が荒野を跋扈するようになった。魔を口から吐き出す異形が忽然と現れては姿を消すという噂だったが、真偽は定かではない。
 祖母が倒れた。昼夜を問わず、いっそ狂信的といえるほどアーゼマ神に祈りを捧げていた祖母は老体を酷使しすぎたのだ。祖母には当分の安静が必要だった。
 ダラガブはもはや手を伸ばせば届くのではないかと思えるほど巨大だった。

 

 事態は加速度的に悪化しているように感じられてならなかった。ダラガブの異変は第七霊災の前兆なのだというまことしやかな噂が囁かれるようになった。なにもかもがままならない現実を前に、ノギヤは身慄いを無視できないことが増えた。
 そのうちノギヤたちの集落にも「神への祈り」を奨励する声が届き始めた。祖母の代わりに祈祷を捧げる母たちに加わり、ノギヤもまた、熱心に祈りを捧げるようになった。
 アーゼマ様、アーゼマ様。どうか災厄から集落の皆をお護りください、と。

 

 ──近隣のキャンプが帝国軍の襲撃を受けたのは、それから間もなくのことだった。

 


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