荒野の娘たち(後編)

 その日は実姉と三人で狩りに出ていた。
 異変には直に気がついた。近隣のキャンプから煙が上がるのを見てノギヤと姉は狩りを中断し現場へと急行した。キャンプを襲撃していたのはアマルジャ族でも、食い詰めた野盗や獣人の類でも、そして口が吐き出した異形でもない。──ガレマール帝国軍だ。
 ノギヤたちは帝国軍と衝突する不滅隊に加勢したが、戦況は敵に有利だった。敵の数は多くないというのに、耳障りな音で大地を跋扈する魔導兵器に動きを撹乱され帝国兵を押し返すことができない。
「ノギヤ、あんたはこのまま離脱して」
「姉さん!」
 姉の足には矢が突き刺さっている。辛うじて姉を物陰に連れ込んだノギヤは応急処置を施そうとしていた手を止め、なにを馬鹿なことを、と声を荒げた。
「ウェリの言っていたとおりだ。──あれだけの力で攻め込まれたら、アタシたちの集落なんてひとたまりもない」
「だからって置いていけない。痛いよ、堪えて」
 姉の言葉を跳ね除け、ノギヤは矢柄を根元の近くで折った。残った矢柄が動かぬよう持ち合わせの布で姉の足を縛り上げる。姉は歯を食いしばって呻き声を抑えた。
「きっとヌンたちがすぐに駆けつけてくれる。それまで──」
 共に狩りに出ていたもう一人の姉は獲物を追い込むために別行動をしていた。異変に気がついたその姉が、きっと集落に駆け戻り救援を呼んできてくれるはずだ。
 いや──、とノギヤは口を噤んだ。
 来ないほうがいい。姉の、ウェリの言うとおりだ。ガレマール帝国軍の戦力は脅威だった。
 これで小規模な襲撃だというのなら、集落を標的にされたらノギヤたちは霧散を余儀なくされるだろう。
「それでも、勝手なことはさせない……」
 ノギヤは拳を握りこんだ。
 ──ノギヤたちは大地の娘だ。この荒野に生まれ落ち、炎天下を馳せて生きてきた。彼らが縄張りを脅かすというのなら、ノギヤたちは生存をかけて戦うだけだ。ましてやそれが長姉の命を奪った輩ならば引くわけにはいかない。
 ノギヤは顔を上げる。
「姉さん、すっかり弱気だね。もう戦えない?」
 ノギヤに笑われ、姉もまた笑った。腰に提げた短刀の柄に手をかける。
「いや。うっかり弱気になっちゃったよ。──大丈夫。まだ戦える。自分の身ぐらいは守れる」
 満足に動けないとしても、その意志はある。瞳に力強さを取り戻した姉に頷き、ノギヤは槍を手に立ち上がった。
「できれば、ヌンたちには来て欲しくないけど……」
「まったくね。帝国の奴ら、おっかないったらないや。でもきっと来るよ。あの子の姿がいつまでも見えないってことは、そういうことでしょ」
「それまでに少しでも数を減らさないと。少なくともあのデカブツだけは」
 いまも魔導兵器の駆動音が戦場に響いている。どういう理屈で動いているのかは不明だが、あの兵器は自律しているようだ。全身の産毛がよだつようなドリルの一撃を喰らえばひとたまりもないだろう。あれだけはなんとしてでも破壊したい。
「死なないでよ。ラヤンが悲しむ」
「あったりまえ」
 短く言葉を交わし、ノギヤは戦場へと飛び出していった。
 一人の帝国兵がノギヤに気がつき慌てて呪具を向けてきた。それを槍で払うと帝国兵は体勢を崩す。倒れかけたところに槍を突き立てた。
 地に伏した帝国兵を乗り越え、ノギヤは素早く戦場を目を走らせた。一人はうまく不意をつけた。次は。
 別の帝国兵が猟犬をけしかけてくる。鋭い牙を剥き出して跳躍してくる猟犬を躱し、翻った勢いそのまま猟犬を槍で仕留めた。ノギヤに突進しようと武器を構えた帝国兵は脇から不滅隊に討ち取られた。
 魔導兵器に向けて進路を取り直そうとしたノギヤは、不滅隊の伝令の声に気を取られて刹那に足を止める。遠くに見えるのは──帝国軍の増援だ。
「クソ、冗談じゃないっての……っ」
 背筋に冷たいものが走る。その隙を周囲の敵は見逃してはくれなかった。
 背後から斬りかかられ、ノギヤは間一髪でこれを避けたが均衡を崩した。横転し、追撃を無我夢中に転がって避ける。立ち上がり様を雷撃に襲われ手から槍が転げ落ちた。
 視界が失われた。息もできずに地に倒れ込む自分を感じ、ノギヤの思考は空白に染まる。
 「ひゅっ」と息を呑む音がし、何者かが倒れこむ衝撃を感じた。身体の自由を取り戻そうと必死にもがくノギヤのそばを鬨の声が駆け抜けていった。その声にハッとする。
「ノギヤ、立てるか」
 倒れ伏す自分を助け起こそうとする手があった。その腕になんとか縋り、ノギヤはふらつきながら立ち上がる。──ヌンだ。ノギヤが相対していた帝国兵は背から射抜かれていた。
「来て、くれたんだ、ヌン」
 舌に痺れを残す娘の背をヌンは力強く叩いた。
「よく持ち堪えてくれた。遅くなってすまない」
「姉さんが怪我をしてるんだ。すぐに治療をしないと」
「既に下がらせた。心配するな」
 その言葉にノギヤは大きく安堵する。
 振り返ればノギヤの母が帝国兵と切り結んでいた。バックラーで敵を叩き伏せるとその背に刃を振り下ろす。娘の無事を確かめた母はちらりと勇ましい笑みをみせ、金の髪をなびかせながら戦場の只中へ飛び込んでいった。見渡せば、馳せ着けた姉たちが次々と不滅隊に加勢していた。
「ノギヤ、お前も下がれ」
「まだ戦える」
 ヌンの言葉にノギヤは頭を振る。迂闊にも手放してしまった槍を拾い上げた。幸いにも槍は無事だ。
「それよりもヌン、帝国兵の増援が」
 ヌンは忌々しげに頷いた。
「どこかに本隊が控えているのかもしれん。この騒ぎだ、不滅隊も増援を寄越すだろう。それまで耐えるしかない」
 言いながら、ヌンはこちらを狙う猟犬に跳躍する暇を与えずに射抜く。ノギヤも槍を構えた。体が動くのを確かめると再び戦いへと突撃する。
「あのデカブツが邪魔なんだ。あれのせいで不滅隊も動きを撹乱されてる」
「我々もあちらへ」
 不滅隊の呪術士たちが魔導兵器──ヴァンガードという代物らしい──を止めようと次々に技を繰り出している。ヌンとノギヤは頷き合い、呪術士たちの戦列に加わるべく道を切り開いた。ノギヤは戦場を駆けながら転がり落ちていた弓を拾い上げ、呪術士たちに合流すると間髪を入れず魔導ヴァンガードに射かけた。
 装甲が損傷し動きが鈍り始めた魔導ヴァンガードの影から新手の魔導兵器が現れた。これには操縦者がいることを視認し即座に狙いを定める。だが、狙い定めているのはあちらも同じだった。呪術士の一団──それに加わるノギヤたちに砲口が向けられている。避ける暇はない。ヌンとノギヤの矢が放たれるのと同時に砲撃が放たれた。矢は装甲に弾かれ、砲撃は呪術士たちが咄嗟に張った魔法障壁により防がれた。だが──。
「あ──」
 砲撃を退けた矢先を半壊状態のヴァンガードが狙っていた。振り上げられたドリルにノギヤは凍りついた。
 ここまでか、と独白する間はなかった。突き飛ばされる衝撃に声も出せず地を転がり、必死に体勢を立て直したノギヤは今度こそ凍りついた。
「──ヌン‼︎
 ヴァンガードの一撃はヌンの肩を裂いていた。散った血潮がヌンの白い髪を赤くまだらに染めている。
 しかし、そこまでだった。ヌンが腰に帯びていた剣はヴァンガードの胸部装甲を突き刺している。ヴァンガードは大地を突いたまま静止していた。
「ノギヤ! 気を散じるな!」
 ヌンの声にノギヤは息を呑んで振り返る。剣を振りかぶる帝国兵が背後に迫っていた。槍を構えようとするが、相手のほうが早い。目前に迫る白刃に死を覚悟した。
 冷気が走った。不意に相手が均衡を崩し、見る間に両の脚が凍てついていく。
 ノギヤは咄嗟に相手の斬撃を掻い潜ると槍を繰り出し敵を沈黙させた。降って湧いた幸運に動揺して周囲を見渡し、見つけた姿に驚愕して目を見開いた。
「──ラヤン‼︎
 見れば、肩で息をするラヤンが呪具を構えたまま立ち尽くしていた。ノギヤの姿を認めたラヤンは我に返って駆け寄ってくる。
「ラヤン、どうしてここに」
「ノギヤが危ないって聞いて、居ても立ってもいられなくて……」
 二人は手を握り合う。ラヤンは今にも気を失いそうな顔色をしていた。
 だが、悠長に言葉を交わす暇はない。二人はヌンのもとへ走り寄った。周囲の呪術士たちに助け起こされたヌンは末娘の姿に目を丸くしたが、すぐにその細い腕を大きく叩いた。
「ラヤン、よくノギヤを助けてくれた」
「ヌン、それよりも怪我が」
「心配するな。そう深い傷じゃない」
 ノギヤは急いでヌンの傷を検分した。魔導ヴァンガードの最期の一撃は幸いにも狙いを大きく外したようだった。致命傷に至らなかったのは確かだが、これ以上は戦えないだろう。
「ヌン、ヌン……どうしてアタシなんかを……」
 ノギヤは声を震わせた。この傷は自分を庇ったからだ。これでヌンが床に伏すようなことになれば、集落の皆にどう顔向けすればいい。唇を噛み締め、込み上げそうになったものを拳を握りしめて堪えた。
「ヌンはラヤンと一緒に下がって。アタシは不滅隊と一緒に」
 毅然と顔を上げた娘にヌンは首を振った。
「──いや、もう大丈夫だ」
「え?」
 指し示された背後を振り向き、そして目を見張った。
 戦況は瞬く間に一変していた。帝国軍は波のように押し寄せる新手の勢力の攻勢を受け、一気に劣勢へと追い込まれていた。その、まとまりのない武具や防具を纏った種々雑多な人々。──冒険者たちだ。
 救援の存在に鼓舞され不滅隊も勢いと連携を取り戻していく。帝国軍は兵を立て直す間もなく霧散していった。
 疾風の如く現れた希望の光に、ノギヤは天を仰ぎ感謝した。

 

 血濡れ姿で戻ったヌンに集落を守っていた妻と娘たちは悲鳴を上げて駆け寄った。
 長の怪我を治療しようと詰めかける家族をなだめ、ヌンは傷の痛みに顔を顰めながらも手早く指示を下していった。ノギヤも早急に身体の傷を検めるよう言いつけられ、ラヤンに付き添われながら住み慣れた住家へと戻っていった。
 姉たちに代わる代わる労いと称賛の言葉を投げかけられたが、ノギヤは自身の力不足を痛感するばかりだ。密かに振り返ると、方々に人が散り始めた広場でヌンは天を睨みあげていた。

 

 キャンプ襲撃の翌日、ノギヤは集落の外れで空を眺めるヌンの姿に気がついた。その背に声をかけようとし、口を噤んだ。かける言葉が浮かんでこない。立ち去るか否かぐずぐずしてしているとヌンが耳がぴくりと動いた。
「ノギヤだな。どうした、そんなところに立って」
 ヌンは振り返らずに言う。ノギヤは黙ってヌンの横に並び、同じように空を見上げた。禍々しいダラガブが居直る空を。天の気が乱れた空には幕が張り、常ならざる景色が広がっていた。
「傷の具合はどうだ」
「アタシは大丈夫。ヌンこそ安静にしていたほうが……」
 幾度もしたたかに身体を打ちつけたせいであちこちが痛んだが、幸いにも大きな怪我を負わずに済んだ。
 娘の言葉にヌンは笑う。
「なに、この程度の傷、どうということはないさ。ラヤンはどうしてる」
「まだ横になってる。熱が下がらなくて」
「そうか……」
 集落に戻りノギヤの傷の手当てを終えたラヤンは、緊張の糸が切れたのかそのまま崩れるように高熱を出し、いまも横になったままだった。
「……ごめんなさい……」
 こぼれ落ちるような声にヌンは目を丸くした。
「なぜ謝る? お前もラヤンもよくやってくれた。勇敢だったぞ」
 ノギヤは首を振った。もっと自分に力があれば。敵に対する知識があれば。備えがあれば。後悔は尽きない。
 自分が戦いの中に没することよりも、ヌンを失うことが恐ろしい。──いまにも天に押し潰されそうなこの時代に。圧倒的な力で縄張りを脅かす存在を目前に長を失ってしまえばどうなる。寄る辺をなくした家族は、ノギヤの大切なものは、きっと瞬く間に失われてしまう。ノギヤは手首に巻いた鮮やかな組み紐を握りしめる。
「……帝国軍があんなに強いなんて、思ってなかった」
 歯噛みする娘にヌンは苦笑した。
「そうだな。理解はしていたつもりだが、いざやり合うと現実を突きつけられる」
 武装も兵力も、辺境の一集落で立ち向かえる規模ではない。それをまざまざと見せつけられた。
「大戦が始まるんだよね」
 キャンプに駆けつけた冒険者たちの言だった。不滅隊は多くを語ろうとしなかったが、ガレマール帝国軍とエオルゼア同盟軍が全面衝突するのも時間の問題なのだという。彼ら冒険者の中にはこれから決戦の地へ向かうのだと気炎を上げる者もいた。
「だ、そうだな」
 ヌンは静かに頷いた。
「ウェリもいまごろ、カルテノー平原とかいう場所に向かってるのかな」
「仲間の連中について軍に同行すると言っていたからな」
「開戦が近いのに帝国がキャンプを襲撃するのは、ウルダハに侵攻する支度?」
 戦力を戦地に結集させているのはエオルゼア同盟軍もガレマール帝国軍も同じはずなのに、彼らにはキャンプを襲撃するだけの余力が残存している。ウルダハとて当然、都の守りを手薄にするような真似はしないだろう。にもかかわらず、だ。
「ウルダハに攻め入るための足掛かりか、あるいは同盟軍の動きを撹乱でもしたいのか。いずれにせよ、我々にとっては頭の痛い話だ」
 ノギヤは悔しさに身体を震わせながら頷いた。
 娘の肩を軽く抱いて叩くと、ヌンは再び空を仰ぎ見た。
「ノギヤにはあれが何に見える」
 ヌンの問いにノギヤもまたダラガブを仰いだ。
「……わからない」
 鬱々とした気持ちで答えた。
「ヌンはダラガブが本当に落ちてきてるんだと思う?」
「さて……」
 ヌンは呟く。
「実際のところはわからん。ただ、俺にはどうも、近頃のきな臭い情勢とアレが無関係には思えなくてな」
「どういう意味?」
 ノギヤは首を傾げた。少し考え込み、まさか、と声を上げる。
「帝国とダラガブの異変が関係してるってこと?」
「……わからん。だが、いまとなってはダラガブが星月のそれと同じとは思えない。あれは決して、天のものではない……」
 いつの頃からか、ダラガブに無数の突起があると視認できるようになっていた。そうと分かるほどダラガブは大地に接近していた。その悍ましく、醜い天の異物。
「ダラガブの異変と近頃の状況を思うと、どうにも勘繰ってしまってな……」
 ヌンは大きく息をついた。
「時に抗いようのない災厄が降りかかることがある。そういう時は、粘り強く災厄が過ぎ去るのを耐え忍ぶしかない。……生き延びるために何を選び、何を捨てるかだ」
「……戦って勝ち取るんじゃなくて?」
 その言葉はノギヤにとって衝撃だった。言外にヌンが現状を諦めているように聞こえたからだ。
 ヌンが険しい顔で頷くので、ノギヤは堪らず俯いた。
 面を伏せてしまった娘に気がつき、ヌンは微笑むと集落を振り返った。
「──昔ここはな、何もない荒野だったんだ」
 ノギヤは力なく顔を上げ、ヌンの視線の先を追った。ヌンは懐かしそうに目を細めている。
「見渡す限り禿げた土地ばかりで、昼は暑くて夜は寒い。おまけに水にも恵まれないときて、なんて厳しい土地柄なんだと思ったもんさ」
「うん……?」
 目を瞬かせる娘にヌンは笑う。
「若い頃の話さ。こんなところで人が生きていけるのかと、初めて訪れた時にはうんざりしたもんさ。なのにそのうち妙に気に入っちまった。干からびそうなくらい熱烈な日神の抱擁も悪くない。夜は冷えて堪らないが、かわりに星空は飲み込まれそうなほど美しい……」
 それでだ、とヌンは照れ臭そうに頭を掻いた。
「魔物退治の褒美に頼むから土地を分けてくれって、地元の連中を散々、拝み倒してな。土地なんていくらでも余ってるんだから、隅に住ませてくれるくらい構わないだろうって。それで得た縄張りがここだ」
 ノギヤは静かに笑った。
「……なあんだ」
 不思議と肩の力が抜けるのを感じる。
「その話、本当だったんだ」
「うん?」
「ヌンが頭下げまくって縄張りを獲得したって話」
 そうとも、とヌンも声を立てて笑う。笑いながらもその瞳には決然とした色が宿っていた。
「我ながら若かったな。よく地元の連中は首を縦に振ってくれたもんだと今では思うよ。──それからレンガを干して、家を建てて、井戸を引いて……。一から築くのは骨が折れたが、どうだ、いまじゃそれなりのもんだろう」
「……ここは、アタシたちの故郷だよ」
 紛れもない本心だった。ヌンの意を悟り、ノギヤは噛みしめるように言う。
「そうだな……」
 ヌンは耳を澄ませた。ノギヤもそれに倣う。いまも遠くの空から飛空戦艦の無粋な音が響いてきていた。
 ヌンは娘の肩を叩いた。
「ノギヤ、皆を集めてくれ。起きられそうなら、ラヤンもだ」

 

 ヌンの住家に集まった娘たちは、皆一様に緊張した面持ちをしていた。
 何事かと長の沙汰を待つ者たちの顔を見渡し、ヌンは重く口を開く。
「皆も知ってのとおり、昨日、ガレマール帝国軍によるキャンプ襲撃があった」
 娘たちは顔を見合わせた。なかには悔しげに唇を噛む者もいる。昨日の戦闘で程度の差はあれ負傷した者は多い。
「エオルゼア同盟軍とガレマール帝国の衝突が近いという噂もある。おそらくこれは事実だろう。これまでも我々の暮らしを脅かす世情はあった。幸いにも、我々は街道を行く者やキャンプの者、広く世を歩いてきたウェリのおかげでそれなりに真新しい情報を入手できてきたと言っていいだろう。現状は全て予見されたことだ。危機に備えて手回しもしてきた。それでもなお、状況は悪い。──皆、よく聞きなさい」
 ヌンは静かな面持ちで皆に告げる。
「もし、真に命の危機が迫る時がくれば、この集落にこだわる必要はない」
 娘たちはぽかんとした。長の意を測りかね、困惑したように視線を交わし合った。
「それは……敵を前にして尻尾巻いて逃げろってこと⁉︎
 声を荒げて立ち上がる娘がいた。足を負傷したノギヤの実姉だった。唐突に起立したせいで大きくふらつき、周りの姉妹が慌てて支えた。
「ヌン、バカなことを言わないで。ここはアタシたちの生まれ故郷だ。縄張りを侵す者がいるならアタシは戦う。決して敵を前に逃げ出したりしない!」
 実姉は無傷な片足に渾身の力を込めて屹立し、己の胸を、心臓を強く叩く。
「ましてや──ましてや、姉さんの命を奪った奴らに屈するなんて!」
 実姉の戦慄きにノギヤは目を伏せた。彼女の言に拳を握りしめる者がいて、啜り泣く者がいた。彼女の胸中が痛いほど分かるから、娘たちは同調の声を上げはしても、止める言葉を持たない。
「気持ちは分かる。落ち着きなさい」
「まさかヌン、怖気づいたの。ウェリの話を聞いて」
「おやめ。ヌンの話をお聞き」
 実姉をぴしゃりと叱る声があった。祈祷で老いた身体を酷使した祖母は、やつれた顔ながらもしゃんとした様子をみせていた。
「母さん‼︎
 納得のいかない実姉は母たちの見解を求めて前のめりになる。
「ヌンの指示に従う」
 ノギヤの母が明瞭に言い放った。他の母たちも同じ心なのだろう。だれも異を唱えようとはしなかった。
「落ち着いて聞くんだ。危機は何もガレマール帝国だけではない。皆も日々、あの禍々しいダラガブに怯えているだろう。ダラガブが大地に接近するほどに獣は荒ぶり、地の恵みは痩せ細るばかりだ。尋常ではない事態が起きている。それは誰もが理解しているな。もし抗うべきものがガレマール帝国ただひとつならば、我々にも対抗のしようがあるかもしれない。しかしダラガブは」
 ヌンは苦悶するように眉をきつく寄せた。
「あれは不吉なものだ」
 住家にしんと沈黙が降りた。ダラガブがもたらす切迫感は皆を無条件に不安にさせた。
 俯く家族を前にヌンはふと目元を和ませた。住家に集った子どもたちの顔を一人、一人と眺めやる。老婆から幼児まで、全てを足しても二十に満たない小さな集落に生まれ育った、その子たちを。
「皆、勇敢な子に育ってくれたことを俺は誇りに思う。──だが、どうかもう、誰も欠けないでくれ」
 慈しむ瞳を前に、実姉は反駁の言葉を失くしたようだった。しおれるように座り込み、肩を支えてくれる姉妹にぐったりともたれかかった。
「でもヌン、ここを失くしたら、アタシたちどこへ行けばいいの?」
 戸惑いながら声を上げる姉がいた。
「西だ」
 きっぱりとした声が住家に響く。
「西へ。東の黒衣森は鬱蒼としていて、迷い込めばかえって厄介なことになるだろう。なによりあの森はよそ者を嫌う」
「ウルダハも帝国と戦おうって時に西を目指したら、危険じゃない?」
 別の娘の言葉にヌンは頷く。
「そうだろうな。そうと分かっていても、我々が身を寄せるとすればウルダハしかないだろう。──無論、縄張りをそう簡単に明け渡す気など毛頭ないが」
 ヌンは太く笑う。その獰猛な笑みに娘たちは気力を取り戻した。
 頷き合う娘たち、そして母の膝に縋る幼い息子の顔を今一度、目に焼き付けるように見渡し、ヌンは膝を叩いた。
「皆、忘れるな。命あっての物種なのだということを。生きてさえいればいくらでも再興の道はある。縄張りにこだわって無謀な戦いをする必要はない。いざ退けようのない危機に見舞われたら、その時は近くの者と手を取り合って逃げるんだ」

 

 ノギヤは物見櫓の上で夜番をしていた。既に青空すら失われているから、おそらく夜だろう、という感覚的なものに過ぎなかったが。
 荒野は不気味なほど静まりかえっていた。生き物は懸命に息を殺し、草木は力なく立ち尽くしている。先日のキャンプ襲撃が嘘のような静けさだった。
 ──どうか家族をお護りください。
 ノギヤは日に何度目かの祈りを日神アーゼマに捧げた。太陽の輝きはダラガブの光に塗りつぶされている。それでも陽光がわずかに災厄の光を圧し返しその存在を誇示する時があると、ノギヤは日神の加護を感じ、心強く思うのだった。
「ノギヤ」
 櫓の下から声をかけられ、ノギヤは手摺から声のほうを覗き込んだ。見ればラヤンが小さく手を振っている。
「上がっていい?」
 いいよ、と招くとラヤンは慎重な足取りで登ってきた。
「もう起きてて平気?」
 座るように促すとラヤンは大人しく腰を下ろした。ノギヤもその横に座る。
「うん、大丈夫。ノギヤや姉さんたちのほうがひどい怪我なのに、あたしだけ寝てるわけにもいかないしね」
 口調は気丈だが、顔色は優れない。ノギヤはラヤンのほっそりとした手に自身の手を重ねた。
「……気にすることないのに。ラヤンが来てくれなかったら、アタシはたぶん、帰ってこられなかったから」
 ラヤンは頭を振る。ノギヤの肩に頭を凭せかけ、ぼんやりと耳を澄ませる。
「……静かだね」
「帝国の飛空戦艦もどこかに行っちゃったみたい」
 唸るような飛空戦艦の飛行音はふと気がつくと鳴りを潜めていた。
 耳にこびりつくほど聞かされた音が止んだからか、荒野の静けさが肌にまで刺さるようだ。
「ラヤンさ、後悔してない?」
 しばらく無言で荒野に目を通していたノギヤは、迷いながら口を開いた。
「うん?」
「前に縁談があったでしょ。本当に断ってよかったの?」
 きょとんとするラヤンに気まずそうに言う。
「もう終わった話じゃない。どうしたの、いまになって」
 ノギヤは視線を西へ移した。
「……あの商人、街の人だったでしょ。いざ事になったら、やっぱり街のほうが守りは厚いだろうし、安全なんじゃないかなって」
 目を合わせられないノギヤをちらりと横目で見やり、ラヤンは少しだけ鼻を高くした。
「本当はね、悪い気しなかったんだよ。あたしのこと、気立が良くて別嬪さんでとっても素敵なお嬢さんだって、すごーく褒めてくれたの。穏やかな人だったし、ティアもきっと優しい人柄なんだろうなって思えて」
 茶目っ気を含ませた瞳のラヤンにノギヤは慌てて向き直った。
「じゃあ、いまからでもヌンに取り持ってもらおうよ。アタシからもヌンに」
「だめだめ、あの時はっきり断っちゃったんだから。いまさらもう一回、なんて都合よくお願いできないよ。それに」
 ノギヤの言葉を遮り、ラヤンは膝を抱えた。
「……あたしね、怖いの。みんなと離れるのが。良くない噂がたくさんあって、ヌンやおばあが難しい顔をすることが増えて……。一度みんなと離れたら、もう会えないような気がして怖いの」
 怯えを押し隠した声に、ノギヤは返す言葉が浮かばなかった。そっと寄り添い、黙ってその肩を抱く。
「これからどうなっちゃうのかな……」
「……きっと良くないことがこれからもたくさん起こる。ひとつひとつ対処していくしかないよ」
 そうだね、とラヤンは呟いた。空を見上げ、ダラガブから視線を逸らすようにすぐに俯いてしまう。
「ノギヤはヌンの話にもっと腹を立てると思ってた」
「そう? ……ラヤンはショックだった?」
「……少しだけ。ヌンが縄張りを捨ててもいいと思ってるなんて、考えもしなかったから」
「ヌンは」
 ノギヤの脳裏に浮かんだのは目を細めて集落を眺めるヌンちちおやの横顔だった。
 もしヌンと言葉を交わしていなければ、実姉の代わりに声を荒げていたのは自分だったかもしれない。
「ヌンは、アタシたちを大事に思ってくれているんだよ。……ほかの、なによりも」
 ラヤンはノギヤの顔を見上げ、そして目を伏せた。
「うん……そうだね」
 二人は口を噤んで肩を寄せ合った。荒野の静けさに身を委ね、互いにぼんやりと物思いに耽る。
 ノギヤはふと思い出して顔を上げた。
「ねえ、ラヤン知ってた? ヌンが周りの人を拝み倒して縄張りを獲得した話。あれ、本当だったんだって」
 さも重大な発見のように言うノギヤに「なあに」とラヤンは呆れたように笑った。
「ノギヤってば、ずっと自分の考えを信じてたの? あたしは最初から、お母さんたちの話が正しいって思ってたよ?」
「ちぇ。なーんだ。アタシだけかー」
 ノギヤもあっけらかんと笑う。くすくすと笑い合ってから、ノギヤは立ち上がりうんと伸びをした。
「でもね。正直言うとちょっとほっとしたんだ。ヌンにも若い頃があったんだなって」
「なあに、それ」
 首を傾げるラヤンにノギヤは照れ臭そうに頭を掻いた。
「ヌンにもそんな時期があったんならさ。アタシもいつかヌンに追いついて、立派な狩人になれるかなーって」
 ラヤンは眩しそうに目を細めた。
「……なれるよ、ノギヤなら」
 うん、とノギヤははにかんだ。
「そのためにも、まずは怪我を治さないと」
 戦いの痛みはまだ引いていない。焦れる気持ちは強いが、辛抱の時なのだという自覚はある。
「それでうんと強くなって、あたしを守ってくれるんでしょ?」
 ラヤンが膝を抱えたまま悪戯っぽい瞳で覗き込んでくる。幼い日に交わした約束を思い出し、ノギヤはにっかり笑って胸を叩いた。
「もっちろん。このノギヤ様に任せなさい」
 ラヤンも莞爾として笑う。
「明日はノギヤの好きなものを夕餉に作るよ。なにがいい?」
「お、やったね。それじゃ──」
 空がぱっと輝いたのはその時だった。
「──なに?」
 ノギヤは咄嗟に空を仰いだ。一瞬だけ光ったように思えた空は、すぐに沈黙してしまう。
「いまなにか」
 見間違いとは思えない。ノギヤは耳をピンと張り、異変を察知しようと空と荒野に目を走らせた。ラヤンも不安そうに立ち上がり、櫓の手摺り越しに周囲の様子を探る。
「まただ! 光った!」
 ノギヤは空を指さした。ラヤンが駆け寄ってくる。隣に並ぶとラヤンは指し示された空を食い入るように見上げた。
 光が雲を照らしている。──否、火球が。ダラガブから火球が放たれ星のように流れていく。
「ダラガブから……火が……」
 ノギヤとラヤンは呆然とした。
 初めはひとつだった火球が二つ、三つ──無数に増えていく。
 ビリビリと耳を刺激する気配にノギヤはハッと正気に返る。櫓の警鐘に取りつき、そして遠く東の大地に砂塵を見咎め全身の産毛をよだたせた。
「なに、あれ──」
 ラヤンの震え声にノギヤは反応できなかった。
 ──魔物の群れだ。まっすぐにこちらを目指している。否、彼らはノギヤたちの集落を狙っているわけではない。恐慌状態に陥り、生命の危機から逃れるようとする本能に従い、前へ前へと突進しているにすぎない。ただその進路にこの集落が存在するだけのこと。
 だめだ、という声が胸中に響いた。ノギヤは力の限り鐘を鳴らす。暴走する魔物の群れを前に為す術などない。一刻も早く退避しなければ。
 ヌンが住家から飛び出してきたのは鐘の音と同時だった。
「何事だ!」
「魔物の群れが! 東から来る!」
 物見櫓に駆けつけたヌンは片腕で梯子を半ばまで登ると東を望み息を呑んだ。
 ヌンに遅れて姉たちが得物を手に次々と広場に駆け出してくる。祖母や母たちの姿もあった。
 誰もが即座に異変を察知した。姿は見えずとも彼女たちの耳には既に魔物たちの行進が聞こえていた。姉の幾人かが手近な高所に登り悲鳴じみた声を上げた。それだけではない。空からは火球が流星雨のように降り注いでいる。空を見上げた者たちは言葉を失くして立ち竦んだ。
 未曾有の事態にカヤがはち切れたように泣き始めた。
「──西へ‼︎
 ヌンの大声が集落に響いた。
 滑るように梯子を降りたヌンに続きノギヤも櫓を降りる。慌てて続こうとしたラヤンをその半ばで抱え下ろした。
「全員だ! 走れ!」
 ヌンは娘たちの肩を次々と押し出していく。姉たちは後退りすると、我に返って身近な者と手を取り合い、身を翻して走り出した。
 ノギヤは集落を見渡した。ヌンが泣き叫ぶカヤを抱き上げるのが見えた。母が祖母に手を貸している。怪我を負った者はそうでない者に肩を貸されている。
「……──っ!」
 皆が誰かと共にいるのを確かめ、ノギヤはラヤンの手を掴んだ。
「ラヤン、アタシたちも!」
 呆然と立ち尽くすラヤンの手を強く引く。
「カ、カヤが」
「ヌンと一緒だから!」
 幼い弟に向かって手を伸ばそうとしたラヤンを無理矢理に引いて走り出した。
 痛む身体を懸命に動かす。遠くの山に火球が落着するのが見えた。遅れて耳に届いたのは火球が爆ぜる音か。ノギヤたちが目指す西の空も赤く点滅を続けている。それでも止まるわけにはいかなかった。東からは魔物が津波のように押し寄せてきている。このまま安全が確保できる場所まで逃走するしかない。周囲にいるはずの姉たちの様子を確かめる暇もなかった。
 今度は近くに火球が落着するのが分かった。足元が幾度も揺れ、熱風が吹きつける。それでも振り返る余裕はない。
 ノギヤは唐突に足を止めた。ラヤンがその背に激突する。
「ダラガブが──」
 ノギヤは愕然と呟いた。息を乱しながら空を仰いだラヤンが引き攣った悲鳴を上げる。
 ──ダラガブが割れた。まるで殻を割るように。
 弾け飛んだ殻は宙を滑り落ちていく。殻の欠片が飛来してくるのが分かったが、ノギヤとラヤンの目は殻から現れたなにか・・・に囚われた。
 放心したように空を見上げる二人は大地を揺るがす衝撃に身体を跳ね上げられた。ノギヤは咄嗟にラヤンを抱きしめる。砂塵に飲み込まれた。地面を転がり、訳も分からぬまま身体を起こす。考えるよりも先に体が動いた。ラヤンの身体を引きずるように起こし、地面を掻くように蹴る。
(──あれは不吉なものだ)
 ヌンの言葉が木霊する。殻から現れたなにか・・・に本能が生命の危機を訴えかけている。ノギヤはまろびながら走った。ただひたすらにラヤンの手を引いて。
空を切り裂くような咆哮が響いた。黒い影が空を舞い狂いながら閃光を撒き散らす。再び衝撃に襲われ二人は倒れ込んだ。辛うじて立ち上がり、そして二人は目前に広がる光景に呆然とした。
 聞く者の心を切り裂く咆哮をあげながら炎を放つ影は龍だ。黒龍が大地を蹂躙している。西も東も、天も地もなく黒龍の怒りが世界を火炎に包んでいる。ノギヤの知る荒野の全てが焼き尽くされていく。
 ──まるで炎獄のようだ、とノギヤは思う。この、世界の終わりのような光景は。
 ラヤンがずるずるとくずおれた。
「あ、ああ……アーゼマ様……アーゼマ様……」
 ラヤンの頬を涙が伝い落ちた。身体を折り、地に伏して日神に祈りを捧げる。
「アーゼマ様……アーゼマ様……アーゼマ様……どうか、どうか、お護りください……お護りください……」
 震える声で繰り返すラヤンの横で、ノギヤは動くことができない。
(──ああ)
 ノギヤは虚しく天を仰いだ。仰ぎ、祈った。祈ることしかできなかった。抗いようのない災厄を前に、自分一人の存在などなんと無力で無様なことか。
 日神アーゼマよ、どうか我らをお護りください──。
 黒龍の放つ閃光は爆煙を巻き起こし、やがて二人は砂塵に飲み込まれた。

 

 目を覚ますと、眼前には青空が広がっていた。
 ノギヤはゆっくりと瞬きをする。やけに背中の感触が硬いのは、土の上で寝ているからだろうか。なぜ野外で眠っているのかを思い出せず、ノギヤはとりあえず手足の先を動かしてみた。寝返りもせず眠っていたのか、体は硬直したように重たかった。
 そろりと身体を起こし、不思議に思って周囲を見渡す。ザナラーンには違いないようだが、随分と集落からは離れているようだ。周囲の景色に見覚えがなかった。
 すぐ隣にラヤンの気配を感じ、無残に汚れたその姿にノギヤは跳び上がった。
「──ラヤン、しっかり、ラヤン‼︎
 なぜ野外で気を失っていたか思い出し、血相を変えてラヤンの身体を揺さぶる。
 重たげに瞼を開けたラヤンは、目を覚ますなり悲鳴を上げてノギヤに抱きついた。怯え震えているその身体を強く抱き返す。
 身体を起こしてやると、ラヤンは顔を歪ませて滂沱した。
「なんなの……なにが起こったの⁉︎
 目の前に広がる見慣れぬ荒野。今もそこかしこが燻っている。
 ここは間違いなくザナラーンのはずだ。見覚えがないように感じるのは──蹂躙された荒野がその姿形を変えてしまったからだ。
 ノギヤはふらふらと立ち上がる。ダラガブが砕け散ったのも夢ではないようだった。空のどこを探しても、最早ダラガブは見当たらなかった。
 青空を随分と懐かしく感じる。太陽は煌々と照っていた。嬉しく感じてもよさそうなのに、喜ぶ気力は湧いてこない。
 ラヤンはノギヤの脚にしがみつく。
「カヤは⁉︎ 姉さんたちは⁉︎ ヌンは、お母さんたちやおばあはどうしたの⁉︎
 ラヤンはひどく取り乱していた。ノギヤは痛みで軋む身体を屈め、涙で顔をぐちゃぐちゃにするラヤンの背を撫でた。
「落ち着いて……きっとはぐれただけだから……」
 それは願望に近かった。ノギヤの目の届く範囲に人の姿はない。生き物の気配も感じられなかった。この世に二人だけ取り残されたようで心細さが込み上げてくる。それでも泣きじゃくるラヤンを前になんとか冷静さを保ち、弱気な心を押し込めた。
 ノギヤは深く息を吸い、吐いた。手首に巻かれた組み紐に触れる。──なにが起こったのかは杳として知れないが、漠然と生き延びたことだけは理解できた。
 膝を抱えてうずくまるラヤンの隣に座り込み、その細い肩を抱いた。気がつけば二人ともひどい有様だった。衣服は破れ、ところどころ出血している。顔に痒みを覚えて指で掻くと、指先に乾いた血が着いた。どうやら切れていたらしい。携えていた弓は真っ二つに折れてしまっていた。無事な得物は腰から提げた短刀だけのようだ。
「落ち着いた?」
 しばらくラヤンの肩を撫で続けていたノギヤは、啜り泣く声が小さくなるとそっと尋ねた。
「うん……。ごめん、取り乱したりして」
 ラヤンは涙を拭う。
「なにが起きたんだと思う……?」
 座り込んだまま、ノギヤは恋しかったはずの青空を見上げた。
「幻でも見ていたみたい……。でも……」
 二人は東の空を見やった。遠く青空を背に天高くクリスタルの結晶が伸びている。幾重にも枝を広げたような琥珀色のそれを二人はいままで見たことがなかった。あんなものは、この荒野には存在してはいなかった。
 混迷極まる逃亡だったせいか、前後の記憶が曖昧だった。二人は確かに黒龍が荒野を焼き尽くす様を目の当たりにしたが、目に焼きついた終末の光景を思うと、目前に広がる景色はあの状況と乖離しているように思えた。
 ノギヤは立ち上がる。いつまでもここで項垂れているわけにはいかない。だが、ひどく迷った。このまま西に進みウルダハを目指すべきか。それとも東に戻り皆を探すべきか。
 皆とはすっかりはぐれてしまったようだった。周囲を気に掛けることもできずひた走ったから、進路が大きくずれてしまったのかも知れない。あるいは、他の皆が方角を見失ってしまったのかも。
 できれば皆を探したいが、二人にはまず水と食料と、身体を休める場所が必要だった。
「歩ける?」
 ノギヤが手を差し出すとラヤンはその手に掴まり、ふらつきながら立ち上がった。
「うん。皆を探さないと」
 泣き腫らした顔で、必死な様子で言うラヤンにノギヤは言葉を詰まらせた。
 逡巡し、やがてノギヤは頷いた。

 

「そっちはどう?」
「だめ、見当たらない」
 二人は用心しながら少しずつ東へと戻っていった。互いを見失わない範囲で手分けをして周囲を捜索した。
 幾度も同じやりとりを交わし、ラヤンは目に涙を溜めて俯く。
「……どうしよう。もしカヤやみんなに何かあったら」
 ノギヤも唇を噛み締めた。人の骸を発見するたび肝が縮む思いで駆け寄り、集落の者ではないことに安堵し、そして居た堪れずに祈りを捧げた。そんなことを何度も繰り返した。
「おばあは速く走れないし、ヌンだって大怪我を……」
 ノギヤは続く言葉を飲み込んだ。口にすると不吉な想像が現実になりそうで恐ろしかった。
 ラヤンが咳き込んだ。ノギヤは慌ててその背をさする。ノギヤはもとより、ラヤンも先日の戦闘で体調を崩しているのだ。激しく体力も消耗している。これ以上の無理は禁物だろう。
 ノギヤは青空に翳りを感じて顔を上げた。見れば、遠くの空から重苦しい雨雲が迫ってきていた。
「──ラヤン、ウルダハに行こう。雨が来る。みんなだってこれだけ探して見当たらないなら、アタシたちより先に進んでるかもしれない」
「ま、待って。もう少しだけ探してみようよ。怪我をして動けないのかもしれないじゃない。もしかしたらどこかで気を失っているかも」
 ラヤンはノギヤに縋りついた。青ざめた顔で頼み込まれ、やはりノギヤは決断できない。
 脳裏に家族の顔が浮かぶ。もしラヤンの言うように怪我をして動けないのだとしたら。炎天下に晒され、そのうえ豪雨に身体を冷やされてしまったら。
「……そう、だね。もう少しだけ探そう」
 二人は疲れ果てた身体に鞭を打って再び東へと移動を始めた。
 刻々と迫る雨雲を注視しつつ進む二人の前に忽然と崖が現れた。東西を分断する崖に二人は呆然とする。こんな崖は断じて存在していなかった。
 ラヤンは泣き崩れた。改めて災厄の爪痕を思い知らされ声を上げて泣いた。
 ノギヤは最前から嫌な予感がしてならない。胃が重く冷たくなっていくのを感じる。これほど歩いているのに、集落の姿がまるで見えない。瓦礫ひとつも見当たらないのは一体どういうことなのだろう。崖の淵から慎重に下を覗き込んだ。崖の底はまるで見通せなかった。
 冷えた塊を胃の底に飲み込んだまま、二人は崖を超えられる道を探し南下した。だが行けども行けども、崖は東西を断絶しているばかりだった。
 ついに雨雲がノギヤたちの頭上に到達し、冷たい雨が降り出した。身体を冷やしたラヤンがひどく咳き込む。顔色は病的なほど白かった。唇は青ざめ、呼吸にひゅうひゅうと喘鳴が混ざっている。
 それでもラヤンは荒野を離れたがらなかった。もう少し、もう少しと這い回るように家族の痕跡を探すラヤンを前に、ノギヤは震える拳を握りしめた。
 ──何を選び、何を捨てるか。
 ノギヤはラヤンの手首を掴んだ。驚くラヤンに構わず西を指し示す。
「ラヤン、もう進もう。これ以上は体に障るよ。せめて雨宿りできるところを探さないと」
「待って、もう少し、もう少しだけ──」
「だめ、もう行くから」
 ノギヤは強引に一歩踏み出す。
「ノギヤ、どうして? みんなのことが心配じゃないの⁉︎
 ラヤンは驚愕したように手を振り払った。その目には軽蔑の色が浮かんでいる。
 ノギヤはラヤンの肩を強く掴む。
「心配に決まってるでしょ! でもこのままじゃラヤンの身体だって危ない! こんなに冷やして、せっかく助かったのに病気になったんじゃ元も子もないじゃない!」
 ラヤンは言葉に詰まった。
「水も食料もないんだ。弓だって壊れて丸腰みたいなものなのに、休む場所さえまだ見つけてないんだよ。お願いだから、自分の身体も労ってよ……」
 ラヤンは項垂れた。涙は拭う間もなく雨と混ざって流れ落ちていく。
「ごめん……。分かってはいるの。でも確かめないと不安で」
 ノギヤはラヤンを抱きしめた。
「……行こう。こんなに探していないんだ。きっとみんな無事だから。アタシたちがびしょ濡れで追ってきて、みんな大笑いするかもよ」
「そう……だよね。きっとヌンがみんなを連れて先に進んでるよね」
「そうとも」
 ノギヤが笑うと、ラヤンもようやく弱々しいながらに笑顔をみせた。
 豪雨と風のせいで視界が悪い。足元はひどくぬかるんだ。二人はしっかり手を繋ぎ、うっかり転げ落ちぬよう崖から離れ、西を目指して歩き出す。
 ラヤンは後ろ髪を引かれるように東を振り返り、そして大きく目を見開いた。
「──ノギヤ、見て! ほら、誰か手を振ってる!」
 ラヤンの上擦った声にノギヤも息を呑んだ。
 豪雨のなかで必死に目を凝らすと、誰かが懸命に手を振る姿が見えた。あの衣服の形、そして辛うじて見て取れる水牛の刺繍は。
 ラヤンは繋いでいた手を離し、喜色満面で走り出した。大きく手を振りながら崖際に近づいていく。ノギヤはその後ろ姿にひやりとした。
「ラヤン──ラヤン、戻って! 危ないよ!」
 手を振りながら走っていたラヤンは、やがて立ち止まると呆然と腕を下げた。
 懸命に手を振っていた人物は──衣は風に攫われ宙を翻り、そのまま嵐の中に姿を消していった。後にはただ枯れた低木があるだけだった。
 泣きそうな顔で振り返ったラヤンの体が傾いた。泣き顔は驚愕に変わり、そして恐怖に染まった。足を滑らせたラヤンの体がぱっくりと口を開けた崖へと倒れ込んでいく。踏ん張ることもできず、悲鳴を上げることもできず、美しく青い瞳を凍てつかせたまま。
「──ラヤン‼︎
 ノギヤはラヤンに向かって跳んだ。手近な低木を片手で掴み、ちぎれそうなほど伸ばしたもう一方の指の先にラヤンの華奢な指が触れる。
 だが、その指が繋がることはなかった。

 

 ノギヤは崖を下れる場所がないか狂乱状態で探し回った。南下と北上を繰り返し、足掛かりになりそうな場所を探索する。それでもただの一箇所として足場を発見することはできなかった。真っ二つに割れた大地は今もその腹に雨を飲み下していく。無理矢理にでも降りようと足をかけたわずかな出っ張りは、爪先が触れただけで崩れ落ちた。
 やがてどこにも道がないと結論づけるしかなくなったノギヤは崖の縁にくずおれた。雨に打たれた身体は氷のように冷え切り、幽鬼のようにふらりふらりと揺れている。
 ノギヤの耳に轟音が届いた。ぼんやりと音の方角に目をやると、崖際にしがみついていた生命の樹が力尽きたように谷間へと呑み込まれていった。
 ノギヤはぐらぐらと揺れながら崖の底を覗き込んだ。皆はこの底で自分を待っているだろうか。それとも堕ちる先は炎獄か。
 大きく頭を揺らした。手足をずるずると動かして身を投げようとしたノギヤの目に、泥にまみれた組み紐が飛び込んできた。
 祈りを込めながら編んだのだ、と笑う妹の顔が浮かぶ。
(──どうかノギヤをお護りくださいって)
 瞳に茶目っ気を含ませて笑う、片割れの顔。
「……──」
 ノギヤはよろめきながら立ち上がった。崖の縁から数歩下がる。遠く空に雨雲の切れ間が見えた。
 さらに数歩下がった。やがてノギヤは崖に背を向けると、凍える身体を前へと押し出した。幾度かそれを繰り返し、ぎこちない歩きは走りへと変わる。
 一度走り出すと止まらなかった。ノギヤは力を振り絞って荒野を駆けた。
 ──西へ。──西へ。──西へ。
 駆けて駆けて、全てを振り払うように駆けて。
 多くの人と獣の骸を越えた。酸鼻を極めた光景が幾重にも広がっていた。その何もかもを振り切ってノギヤは駆けていく。
 ウルダハへと至る道もまた様相を一変させていたが、山のように聳える砂都は空を切り取る影として健在だった。その影をただひたすらに目指した。
 やがてナル門が見え始め、ノギヤはようやく走る足を緩める。ウルダハとて当然、無傷とはいかなかったのだろう。そこかしこで黒煙が昇っていた。
 悄然とナル門へ向かう。街の外へ瓦礫でも運び出しているのか、門の内外で兵が忙しなく立ち働くのが見えた。
 なかには武装していない者の姿もあるようだ。街の者だろうかとぼんやり考えながらノギヤは周囲を見渡した。ノギヤのように近隣から避難してきた者たちだろう、街の者とも思えない格好の人々がちらほらといた。しかし、その中に家族の姿を見出すことはできなかった。
 虚脱したように立ち尽くすノギヤに気がつき歩み寄る者があった。兵に混じって働いていたララフェル族の街娘は、ノギヤの傍まで来ると美しい紫水晶の瞳で見上げてくる。赤銅色の髪をきつく結い上げ、上等そうな服を纏っていたが、随分と煤で汚していた。
「あなたも避難してきたの?」
 静かに尋ねられ、ノギヤは頷く。
「そう」
「一人?」
「……うん」
 ノギヤは天を仰いだ。高く高く、雨雲が押し流されて晴れ渡る、暮れ始めの空を仰いだ。
「アタシ、生き延びたみたい」
 娘はノギヤの手を引いた。なめらかそうな肌をしているのに、指先の感触は硬かった。
「無事でなによりだわ。少しだけど、水と食べ物があるの。傷の手当てもしないと。おいで」
 ノギヤは力なく頷き、引かれるまま歩き出す。その手からぷつりと組み紐が切れ落ちた。
 娘は泥まみれの紐を拾い上げると、棒を飲んだようなノギヤに無言で差し出した。
 ノギヤは我知らず落涙した。切れた組み紐を受け取ると、涙は堰を切ったように溢れ出した。
 地面に崩れ落ち慟哭するノギヤの背を、娘は優しく、優しく撫で続けた。

 

 

荒野の娘たち(完)


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