蓮華遊子 – 04
翌朝、ヴァヴァロは三人に予定の変更を提案した。
昨日の打合せでは、周囲を軽く確認した後、同じペアで昨夜とは逆のルートを巡回しながら街に戻る予定だったが、テンメイが感じた”気配”がどうしても気にかかる。手応えを得られない学士街ばかり巡回するよりも、少しでも異変のありそうな場所を念入りに確認したほうが良いだろう。
「……というわけで、予定を変更して、今日はあたしとテンメイさん、アルテュールとバドマさんの二手に分かれようと思います」
小岩の上に立ち、しばらくクイックスピル・デルタを見渡していたヴァヴァロは、三人を振り返った。日が差し始めたあたり一帯に、亡霊騎士らしき魔物の姿は依然として見当たらない。それでも肩を落とす気にはならなかった。今は魔法の心得がある味方もいるのだ。ペアの変更を提案する程度に気がはやりこそすれ、今までのように気落ちすることはなかった。
「あたしとテンメイさんは哲人街も含めてこの辺りを念入りに、二人は図書館方面の確認をお願いします。昼下がりを目安にここで落ち合って街に戻りましょう。もうしばらくで仲間とも合流できるはずだから、テンメイさんにはそこで交代してもらって、その後はチームを再編して捜索に挑みましょう」
今日の巡回で亡霊騎士の居場所を押さえられれば、仲間と合流して討伐に。発見できなくとも、テンメイの感じ取った気配を頼りに、仲間と手分けして捜索に繰り出すことができる。さっぱり手応えのなかった日々を思い返すと、状況の進展を感じ、ヴァヴァロは俄然、活力が湧き出るのを感じていた。
三人の顔を見渡し、各自から首肯を返されると、ヴァヴァロはよし、と一歩踏み出し──そのまま湿った小岩を勢いよく滑り落ちた。
「お、おい、ヴァヴァロ!」
あまりにも見事な滑りぶりを披露され、アルテュールは慌ててヴァヴァロに駆け寄った。
「いったぁ……」
硬い岩の表面を思い切り尻で滑ってしまい、おまけにごつんと後頭部をぶつけ、突然の痛みにヴァヴァロは軽くうずくまった。岩の表面を叩いた弾みに擦りむいたのか、手袋から剥き出しになっていた肌がヒリッと痛んだ。
「なにやってんだよ」
「えへへ、足が滑っちゃった……」
アルテュールに助け起こされながら、ヴァヴァロは照れ隠しに笑うしかない。
「怪我はないか?」
「だ、大丈夫です、大丈夫! ちょっとコツンってぶつけただけ」
テンメイまでも心配そうに手を貸してくるので、ヴァヴァロはなおさら恥ずかしくなってしまう。──ああ、もう。どうして自分はこうドジなのだろうかと。
「ったく、あいかわらずドジだな」
「ちょっと転んだだけだってばー!」
べっ、と舌をつきだして強がるヴァヴァロである。
アルテュールたちと別れると、ヴァヴァロはテンメイと二人、クイックスピル・デルタ周辺を念入りに調べてまわった。相変わらず亡霊騎士の姿は見えなかったが、テンメイは依然としてなにかしらの気配を感じるらしく、ときおり角をそばだてては険しい表情をしていた。
──まるで微睡んでいるようだ、とテンメイは言う。
気配は波のように寄せては返し、あるいは強まったかと思えば弱まり、それがまるでうとうとと微睡む様子に似ているらしい。
ヴァヴァロにはやはり気配を感じ取ることはできなかったが──たまに耳のあたりがぞわぞわとしたが──、別種の違和感には気がついていた。あまりにも静かなのだ。
哲人街の崖下に広がる洞窟内を確認しながら、ヴァヴァロは周囲が静まり返っていることに気がついていた。気配──亡霊騎士の気配ではなく、生き物の気配がしないのだ。まるで何もかもが身を潜めているようだ、とヴァヴァロは思う。息を潜め、気配を殺し、何かから隠れようとしているような。
昨日の出来事を思い出し、ヴァヴァロは警戒心に体を緊張させた。いつ亡霊騎士と遭遇しても臨戦できるよう弓を手にし、テンメイを背後に守るように、慎重に洞窟内を進んでいく。
「うーん、いないなぁ」
ひとまず洞窟内の捜索を終え、哲人街まで登ってきたものの、あたりには廃れた街並みと青空が広がっているばかり。高台に築かれた哲人街一帯からは低地ドラヴァニアの大地を見下ろすことができる。亡霊騎士らしき魔物の姿はやはり見当たらず、哲人街一帯も生き物の気配は希薄だったが、それでも囀る小鳥や活動する野生動物は皆無ではなく、ヴァヴァロはつい、ほっとしてしまう。薄暗い洞窟内を来た後だからか、青空にはなおのことほっとさせられた。
「少し休憩していきますか?」
太陽は徐々に天辺へと近づいていた。そろそろ残りの巡回場所を潰して戻らないと、約束の頃合いに間に合わない。
その前に少し休憩を、とヴァヴァロはテンメイを振り返った。テンメイが頷いて荷物を降ろしたので、ヴァヴァロも背負っていた荷を降ろす。緊張していた体をうんと伸ばすと気持ちが良かった。
「手を」
不意に手を差し出され、ヴァヴァロはきょとんとした。
「怪我をしたろう」
手招きするようにされ、ヴァヴァロはようやく、テンメイの意図を察する。慌てて手を振った。
「ほんとに大丈夫なんですよ。ちょっと擦りむいただけで」
怪我をした──といっても本当に少し擦りむいただけなのだが──ことは誰にも言っていなかったのに。
「手を。……化膿するといけない」
ヴァヴァロは少し躊躇いながらテンメイのそばに座った。手袋を外し患部を見せると、テンメイはヴァヴァロの小さな手を取った。大柄で寡黙な男の手は、意外なほど温かかった。
傷の具合は検分したテンメイは、荷物の中から小さな容器を取り出すと、独特の芳香を放つ軟膏を擦り傷に軽く塗り込むようにした。
「テンメイさんは、お医者さんなんですよね?」
大人しく手当を受けながら、ヴァヴァロはそっと尋ねた。
「まだ未熟だが」
「バドマさんが、テンメイさんは腕が良いって言ってました」
「師には遠く及ばない」
少ない口数ながら、テンメイはわずかに目尻を和ませた。こうして間近にするとなかなかの強面だが、柔和な表情を目の当たりにすると、初めて出会った時のような冷ややかさは感じなかった。
傷口を清潔な布で押さえ、その上から包帯を巻くと、治療はそれで完了のようだった。ヴァヴァロは綺麗に手当された手を矯めつ眇めつする。
「ありがとうございます」
ちょっと大げさな気もするけれど、テンメイの心遣いは素直に嬉しかった。礼を言うと、テンメイはまたわずかに表情を優しくする。
「礼には及ばない。……頭部や臀部もぶつけていたようだが……」
「も、もう大丈夫ですっ」
本気で心配そうな目を向けてくるので、ヴァヴァロは慌てて立ち上がった。ぴょんぴょんと跳んでみせると、テンメイは頷いて荷を片付け始めた。
「バドマが……」
テンメイが言い淀んだ。手袋をはめ直し、同じように支度をしていたヴァヴァロは首を傾げて言葉の続きを待つ。
「二人の手を焼かせているのではないかと……」
なにやら申し訳なさそうに言われ、ヴァヴァロは目をぱちくりさせた。
「バドマさん、本当に強くてすごいなあって思います。その、最初はちょっと、びっくりしましたけど。すごーくはっきり物を言うから」
出会った当初はその気位の高い口調と押しの強さにまごついてしまったが、よくよく話してみれば、彼女のさっぱりした気性はヴァヴァロにとって心地よかった。弓の腕も頼もしく、羨望の眼差しを向けずにはいられない。それでもやはり、悪漢を一刀両断せんばかりの昨日の様子は、今振り返っても驚きだが。
最後は尻すぼみになったヴァヴァロにテンメイは苦笑した。
「テンメイさんは──」
──どうしてバドマさんと結婚したんですか?
「バドマさんのどんなところが好きなんですか?」
思ったままの言葉を口にしそうになり、慌てて呑み込んだ代わりに口をついて出たのは、なにやらむず痒い言葉だった。
──あんなに激しい口調で責め立ててくる相手と夫婦生活を送るのは、やっぱりちょっと大変なのではないかと、ついつい思ってしまうのだが。それをそのまま尋ねてはさすがに失礼だろうと、代わりに飛び出た言葉がこれ。これではまるで恋愛話をするようだ、とヴァヴァロは一人で赤くなった。
ヴァヴァロの問いにテンメイは軽く目を見開き、すぐにいつもの平静な表情に戻った。
「一人にしておくのが心配だった」
短く答えられ、ヴァヴァロは目を瞬かせる。
「それだけですか?」
「……彼女は強い。狩人としての腕は間違いないのだろうが……少し、跳ねっ返りで向こう見ずなところがある」
「バトマさんの面倒を見るために一緒になったってことですか?」
返答があったことに驚き、次いで理由に驚き、テンメイが肯定するように頷いたのでさらに驚いた。
「そうなんだぁ……」
風習の異なる二人が夫婦になったのだ。日々喧嘩をしながらも二人だけの愛を育んできたのかしら、と密かに想像を膨らませていたヴァヴァロは、すっかり拍子抜けしてしまった。テンメイの口ぶりではまるで、娘を心配する母のようだ。名目上は夫婦でも、実はもっとあっさりした、旅の連れ合いとして契約しただけの間柄なのかもしれない。
そう思うとちょっとがっかりするような、複雑な気持ちになる。こういう時、大人ってよく分からないな、と思うヴァヴァロであった。
「そろそろ出発を?」
「そうですね、行きましょうか」
頷いたテンメイは立ち上がりざま、眉間に皺を寄せた。
「……なにか感じますか?」
また不穏な気配を察知したのだろう。意識を研ぎ澄ませているテンメイにそっと尋ねた。ヴァヴァロ自身も妙に落ち着かない心地を刹那に感じて、なんとなく耳を押さえる。
「……近くに潜んでいるのだとは思う。少しずつだが、間隔が短くなっているように感じる……」
「あたしも今日はやけに耳がちりちりする気がして……。これって、テンメイさんが感じているのと同じものなのかな」
おそらくは、と頷かれ、ヴァヴァロの体に緊張が走る。微睡んでいるようだ、という彼の言葉を思い出した。そしてそれは、おそらく事実なのだろう。確たる証拠はない。しかし事実なのだろうと直感していた。
ペイルライダーは間違いなく顕現している。そしてこの土地のどこかで今は眠りについており、徐々に目覚めようとしている──。
「──行きましょう」
──頷き合い、出発した二人にアルテュールから通信が入ったタイミングと、残った巡回場所で異変を発見したのは、同じタイミングだった。
『こりゃあ出てるな、奴さん。普通の死に方じゃねーぜ』
リンクシェル越しの渋い声を聞きながら、ヴァヴァロは背筋を寒くした。
──なんだろう、これは。
目の前には複数の魔物の死体が転がっていた。それだけならば然して驚くことではない。しかし、これは。
死体はどれも枯れ果てていた。──枯れていた、としか表現のしようがない。
食糧にありつけず餓死した、というようには見えない。かと言って、魔物同士で争った痕跡も、人の手で狩られた痕跡もない。
病み衰え、生気を──エーテルを吸い尽くされているとでも言うべきか。苦悶に満ちた形相で朽ち果てている死屍の数々に、ヴァヴァロは言葉を失う。
「なんと惨い……」
テンメイが小さく呟く。ヴァヴァロも無言で頷いた。尋常な相手ではないと予想していたけれども。
『とにかく一旦、合流しよう。このあたりにいるってんなら、少人数で行動するのは危険だ』
約束の場所で落ち合った四人はすぐに情報を集約した。
ヴァヴァロが感じた違和感はアルテュールたちも感じたらしく、発見した変死体の様子も相違ないことから、四人の意見は一致した。
亡霊騎士はこの近辺に身を潜め──手段はともかく──、覚醒の時に向けて力を蓄えている。おそらくは周囲の生物の生気を刈り取り、吸い上げながら。
「やっぱりこのあたりいるんだ。もっとよく探さないとっ」
「待て待て、落ち着け。今はこれ以上、深追いしてもあぶねーだけだろ。居場所の検討がつけば、今回は充分だ」
転がる勢いでクイックスピル・デルタに駆け下りていこうとしたヴァヴァロの襟首をアルテュールが掴む。
「だ、だって、こんな危ない奴を放っておいたら、街が危ないよ!」
ただの獣とはわけが違うのだ。あの病み衰えたような魔物の形相。どんな手段によるものかは分からない。分からないが、もしペイルライダーが真に覚醒し、隠伏したまま街に忍びこんでくることがあれば。イディルシャイアの人々が、あの魔物の死屍のように朽ち果てる惨状は回避せねばならない。
猫のように襟首を掴まれたままジタバタするヴァヴァロに、バドマは苦笑した。
「一人や二人で挑んで太刀打ちできる相手ではないのであろう? ここは戻って体勢を立て直すべきではないかの」
諭すように言われ、ヴァヴァロははっとする。
「そ、そう……そうですね……。自分でそう言ったんでした」
出会った当初、バドマにそう言ったのは他でもない自分だ。それを思い出し、ヴァヴァロは少し赤くなった。
「よし、じゃーとっとと戻ろうぜ。ヴァヴァロ、モブハンターの連中に連絡頼む。俺は自警団に連絡いれっから」
「……うん!」
アルテュールにがしがしと頭を撫でられ、ヴァヴァロも気を取り直す。
四人揃って街へと歩き出しながら、リンクシェルで連絡を取ろうとしたヴァヴァロは、不意に襲ってきた突き刺すような冷気にぞくりとして振り返った。
「──」
一瞬で全身が粟立つような、強烈な冷気──否、視線。
睨まれた。何者かに。──なにかがいる。それはどこからともなく自分たちを睨んでいる。
ヴァヴァロは咄嗟にテンメイを見上げた。テンメイもまた振り返り、ヴァヴァロと同じ方角を険しい表情で見つめていた。
視線に気がついたテンメイと頷き合うと、ヴァヴァロは背後の気配を断ち切るように前を向き、重い足取りで先を急いだ。