蜜月(04)

 ──二人で夜を過ごすなんていつものことだし。
 この間だって二人でイシュガルドに泊まったし。
 そのときも同じベッドでくっついて寝たし。
 だから今夜だけ特別なわけじゃないし。

 そこまで考え、ヴァヴァロはぶくぶくと鼻先まで湯船に沈んだ。
 先ほどから一向に心が落ち着かない。ぐるぐると同じことばかり考えてしまって、せっかくたっぷりと湯を張った風呂に浸かっているのに、少しもその贅沢を満喫できない。
(ま、まあべつに? 特別な夜でもいいけど? 私、色仕掛けだってしたことある……し……)
 もはや葬り去りたい過去でしかない色仕掛けを自ら思い出してしまい、羞恥の唸り声を漏らす。
 あの時は女性として意識されるのに必死で、無茶苦茶な理屈で迫ってしまったけれど。ヤケクソになって迫ったわりには、これっぽっちも靡いてもらえなかったけれど。靡いてもらえなかったどころか、諭されて終わってしまったけれど。
(……アルテュールはいつも通り……だよね)
 最近の溺愛ぶりはともかくとして。
 そもそもアルテュールは、自分に女性としての魅力を感じているだろうか。彼がそんな素振りを見せたことは、少なくともヴァヴァロの記憶の中にはない。機会さえあれば共に寝ているにも関わらずだ。
(べ、べつに意識してほしくて一緒に寝てたわけじゃないけど? くっついてると安心するだけで……眠くなるまでお喋りだってしたいし……)
 そう、本当にそれだけ。少しでも一緒にいたくて、いそいそと寝床に潜り込んでいたに過ぎない。それ以上のことなんて──奇行に等しい色仕掛けを過去には決行してしまったが──、頭に浮かんだことすらなかった。
(ででででもでも、恋人同士なんだから、いつかはそんなこともあるよね? だって付き合ってるんだし。普通だったら、きっとそのうち……ううう)
 ヴァヴァロは真っ赤な顔を湯船に打ちつけた。
 考えはまるで纏まらない。心構えなんてこれっぽっちも出来ていない。期待しているのか、怖いのか、自分の心すら分からない。
 分かっているのは、どう足掻いても今夜はやはり〝特別〟だということだけ。
 だって今夜は正真正銘の、二人きりの夜なのだから。

 ***

「お、お風呂お先。お湯、張り直してあるよ」
 自分の肌から石鹸の華やいだ香りがする、そんなことにまで狼狽えながらも、ヴァヴァロは意を決して浴室を出た。
 ソファで静かに爪を研いでいたアルテュールは、妙にそわそわとしている恋人に一つ笑み、やおら立ち上がる。
「ありがとう。俺も入ってくるよ」
「う、うん」
 優しく頭を撫でられ、ヴァヴァロは小さく俯く。いつもと同じように撫でられたはずなのに、髪は掌の感触をひどく敏感に受け取った。
 アルテュールが浴室に消えるのを見届けると、ヴァヴァロはすうっと息を吸い──、
(わああああああああ!!)
 叫び声を上げた。辛うじて、心の中で。
(どどどどうしよどうしよ!? アアアル、ある、アルテュールは普段通りだったよね!?)
 床を転げ回りたい衝動を必死に抑え、ヴァヴァロは部屋の中を右往左往する。
(おおお落ち着け落ち着け。私が勝手に身構えてるだけかもしれないしっ。ととととりあえず寝る支度でもももも)
 自分を宥めようとしたところで意味はなく。落ち着くどころか脳内は騒がしくなる一方だ。
 部屋を横断。縦断。周回。新品の部屋履きを早くも酷使する。戸棚の前で止まる。買ってきた蒸留酒の存在を思い出す。グラスと酒のつまみを準備しようとする。とても酒を飲む気分ではないのでやっぱりやめる。ソファのクッションを無闇矢鱈に整え直す。そのまま座面に突っ伏してジタバタする。冷静になろうとスクワットをする。汗をかきそうなのでやっぱりやめる。ベッドサイドの鏡台にランプを運ぶ。途端にベッド周辺が艶かしい雰囲気になったのでやっぱり──。
「あれ、ヴァヴァロ? ああ、そこか」
「ひゃいっ!?」
 背後から声をかけられ、ヴァヴァロはその場で跳び上がった。危うく転がしそうになったランプを慌てて鏡台に置き直し、平静を装って振り返ると、いつの間にか湯上がり姿のアルテュールが立っていた。
「は、は、早かったね。さっぱりした?」
 した、とアルテュールはタオルで髪を拭きながら笑う。ざっと髪の水気を切ると、タオルを鼻先に寄せ、移った香りに目を細めた。
「あの石鹸、買って正解だったな。いい匂いだ」
「う、うん。あれにしてよかったね。そそそそうだ、さっき買ってきたお酒飲む? それとも何か軽くつまむ?」
 ヴァヴァロは目も合わせられないまま、もつれる足でアルテュールの横を通り過ぎる。戸棚に縋りつくと、先ほども取り出そうとしたグラスと酒瓶を盆の上に並べていった。
「ヴァヴァロ」
「夕ご飯早めだったから小腹空いちゃったかも。ナッツとかどうかな。あ、チーズも出そっか。アルテュールはどう? お腹空いてるならソーセージも焼いちゃおうかな。待ってね、いま準備するから。何本食べたい? 私は三本にしよっかなー」
「ヴァヴァロ」
 重ねて名を呼ばれ、一人喋り続けていたヴァヴァロはようやく口を噤む。戸棚を漁る手を止めると、居た堪れない心地で赤い顔を俯かせた。
「……ひゃい……」
 首を竦めたまま、ようやくアルテュールと向き合う。が、やはり目を合わせることはできなかった。やり場に困った手をそわそわと胸の前で握り、きょろきょろと床ばかりに視線をやる。
 アルテュールは膝を折ると、すっかり縮こまってしまった恋人の額に口づけた。
 優しい感触にヴァヴァロはおずおずと視線を上げる。見上げたその瞳は、柔和なものだった。
「あちこち行って疲れたろ。今日はもう休もう」
「そ、そう? ひゃっ」
 たくましい腕に抱き上げられ、ヴァヴァロは思わず上擦った声を漏らす。
 アルテュールはベッドまでヴァヴァロを運ぶと、肌触りの良い掛け布団の上に下ろした。その隣に自身も腰を下ろすと、そっと恋人の肩を抱く。
「明日は何をしようか」
「ふえ? え、ええと、広場のプールで泳いでみたいかも? あ、でも、水着がないや」
 帷が下りた時の空気を思い出し、口から心臓が飛び出そうになっていたヴァヴァロは、アルテュールの静かな声に瞬いた。
「じゃあ明日は水着を買いに行こう。もう何着か服を探してみるのもいいし、そうだな、せっかくだからアクセサリーを見に行くのもいいな。七日もあるんだ、二人でいろんなことをしよう」
「う、うん、楽しみ……?」
 こんなに密着していたら、爆発しそうな胸の鼓動が伝わってしまうのではないか。
 一瞬前まではそんな心配をしていたのに、ただの日常会話が始まって、ヴァヴァロは戸惑いを隠せない。
 アルテュールは恋人の愛らしい頬を撫でると、もう一度だけ額に唇を寄せる。普段よりほんのわずかに長い口づけに、肌はちりちりと熱を帯びたように疼いた。
「それじゃ、明かり消すよ。おやすみ」
「え、え?」
 何事もなく身体を離し、当たり前のように消灯しようとするアルテュールに何故か焦るものを感じ、ヴァヴァロは激しく目をぱちくりさせる。
「ア、アルテュール待って」
「ん?」
 ランプに伸ばされた灰色の腕を咄嗟に掴んだ。考えるよりも先に口が動く。
「セ◯◯◯、しなくていいの?」
 アルテュールは虚脱してベッドに倒れ込んだ。両手で顔を覆い、嘆くように天を仰ぐ。
「あのさあ〜〜〜〜〜」
「ええっ!? わ、私そんなに変なこと言った!?」
 だって特別な夜なのに。いやべつに期待していたわけではないけれど。でも特別だし。いやべつに。とはいえ。やっぱり。それにしたって。
 自分で口走っておきながら混乱で目を回しそうになっているヴァヴァロを、アルテュールは掌をずらして恨みがましく見上げる。
「はーっ、言ったね。めちゃくちゃ言ったよ。せっかく人がなんでもないフリしてたのにさあ。ほんっとにヴァヴァロは、平気でそういうこと言うんだもんな。なんなのもう」
「だだだだって、完全に二人きりってこれが初めてでしょ!? だからもしかしたら、今夜はそんな雰囲気なのかなって思ったんだもんっ!!」
 アルテュールはやっとの思いで上体を起こすと、真っ赤な顔で反発するヴァヴァロに呆れ顔を向けた。
「だいたいセ◯◯◯ってなんだセ◯◯◯って。もっとこう、他にも言い方があるだろっ」
 ヴァヴァロは真剣な表情で考え込んだ。
「……こ、交尾……とか?」
「悪化してるだろうが!!」
「そ、そんなこと言われても! アルテュールみたいに言葉たくさん知らないもん!!」
 容赦のないダメ出しに膨れっ面になりかけ、ヴァヴァロはぴたりと口を噤む。彼はさきほど、なんと言った──?
「え、あれ? もしかしてアルテュールも意識してたの? わ、私てっきり……」
 なんでもないフリ、と。そう言っただろうか。
 心底意外そうに見上げられ、アルテュールはぐっと言葉に詰まった。ばつが悪そうに目を逸らすと、長々と沈黙した末、恋人の視線に折れて白状する。
「……やっと二人っきりになれたんだ。俺だって少しくらい意識するし、あんなふうに甘えられたら、堪らない気分にだってなる」
 ヴァヴァロは目を見開いた。
「そ、そうなの? き、今日の私、なんかセクシーだった!?」
 アルテュールは盛大に吹き出した。
「はは、あはは! セ、セクシーって、あはははは!」
「ち、ちょっとお!! なんで笑うのお!?」
 今度は突っ伏して笑い出してしまったアルテュールをヴァヴァロはゆさゆさと揺さぶる。なにがそんなに可笑しいのか、そもそも〝あんなふう〟とは何のことか。まったくわけが分からず、ヴァヴァロは今度こそ膨れっ面の涙目になる。

「あーあー、もう、ほんとに。ヴァヴァロといるとこんなんばっかだ」
 ようやく笑いが収まると、アルテュールは目尻に溜まった涙を拭いながら身体を起こした。ひとつ咳払いをし、ヴァヴァロに向き直ると、その小さな手を取る。
「ヴァヴァロ」
「う、うん」
 改まって呼ばれ、ヴァヴァロも慌てて居住まいを正す。
「今日ここにヴァヴァロを連れてきたのはね、本当に、二人でゆっくりしたかったからなんだ。家だと急に誰かが帰ってくるかもしれないし、ここだったら、いきなり窓から飛び出していくヴァヴァロを心配する必要もないし」
 笑いに笑って力が抜けたのか、アルテュールの声音は穏やかなものだった。それで初めて、先ほどまでの彼もやはりどこか緊張していたのだと、ヴァヴァロは思い及ぶ。
「そ、それは分かってるよお。私も二人でもっとゆっくりできたらって前から思ってたし、アルテュールが秘密を共有してくれたのも、嬉しかったよ」
 アルテュールは頷くと、ヴァヴァロの手の甲を優しく叩いた。
「だから、まあ、なんだ。たしかに今日は少し、いいな、少しだぞ? ヴァヴァロにふにゃふにゃ可愛い声で甘えられて、どきっとはした。それは認める」
 可愛い声、というのが何を指しているのか尋ねたかったが、ヴァヴァロはひとまず首肯する。
「……でもヴァヴァロが嫌がったり、怖がるようなことは絶対にしない。だからそんなに緊張しないで、いつものヴァヴァロでいてくれたら嬉しい」
 向けられた真心に、いまだ忙しなかった鼓動が幾分か緩やかになる。言葉を探すように俯き、きょろきょろと視線を彷徨わせたが、結局気の利いた返事が浮かばず、ヴァヴァロはただ情けなさそうに笑う。
「バ、バレてましたか、緊張してたの」
 アルテュールは苦笑する。
「まあね。帰ってきてからずっとガチガチだっただろ」
 我が事ながら、見抜かれて当然だろうと思う。見抜くどころか、一目見て丸分かりだったはずだ。平静を装っていたつもりの自分ですら、緊張を隠せている気がまるでしなかったのだから。
「でも、ええと、あのね?」
 散々口をむぐつかせた末、ヴァヴァロはもじもじと指先をつつき合わせた。
「そ、そういうのが嫌なのかどうかは、正直試してみないと自分でも分かんないんだけど、アルテュールが私にどきっとしてくれたのは嬉しいな、なあんて」
 ──そう、嬉しいと感じた。彼が自分のことを、女性として強く意識してくれたのなら。
 なにしろ色仕掛けがあのザマだったのだ。まるで靡いてもらえなかったあの頃を思えば、なんと大きな変化だろう。
「気軽に試すようなことじゃないし、焦ってするようなことでもないよ。ヴァヴァロは女の子なんだから、身体は大事にしないと」
 努めて冷静に諭され、ヴァヴァロは口籠もりながらも首を傾げる。
 同じことを以前も言われた気がするが、果たしていつのことだったか。しばし考え込み、そしてじきに思い出した。色仕掛けの、あの夜だ。
 ヴァヴァロは目を伏せ、小さく笑んだ。
「ヴァヴァロだって、今日はそんなつもりでウルダハまで来たわけじゃないだろ? ヴァヴァロの心の準備が出来るまで、俺は我慢できるから」
「我慢してるの?」
「してないし」
 ずずいと迫られ、アルテュールは即座に否定する。
「ふうん? そっかあ、我慢してるんだあ?」
「してない。言い間違えただけ。……なーんで楽しそうなんですか、ヴァヴァロさん」
「んふふふふ、えいっ」
「おっと」
 ヴァヴァロはにんまりすると、アルテュールの胸に飛び込んだ。広い胸板にぐりぐりと頬を擦り寄せ、ぎゅうぎゅうとしがみつく。
「アルテュール大好き。いつも私のこと一番に考えてくれて、ありがと」
 ──この人はずっと変わらない。心が通じ合う前から、そして後になっても。いつだって深い思いやりで自分を包んでくれる。その心遣いが嬉しく、申し訳なく、どうしようもなく愛おしい。
「……大事だからね」
 優しく抱き返され、幸福感に心が満たされる。もはや身体を破裂させそうな緊張はなく、心地良い安堵が温かく残るばかりだ。
(……離れたくないな……)
 胸の奥、自然と芽吹いた想いに背を押され、ヴァヴァロは腕の中からアルテュールを見上げる。
「あのね、心の準備、いま出来たから」
 一瞬、口を噤む。
 こうして口にするのは、直接的な言葉よりよほど照れくさい気がするけれど。せっかくだから、あの時のリベンジも兼ねて。今こそ〝こう〟言うべきだろう。
「……抱いて?」
 甘えるように告げられ、アルテュールは言葉に詰まった。
「……こら、話聞いてた?」
「聞いてたもーん。聞いてたから準備できたの。お、どきどきしてる。さっきの、効いた?」
 すりすりと額を擦りつけた胸からは恋人の速まった鼓動がよく聞こえた。
 アルテュールは眉間を押さえる。
「……さすがに効いた」
「にしし、やったねっ」
 成功とばかりにヴァヴァロは悪戯な笑みを浮かべる。これで過去の自分も報われるだろう。
 アルテュールは衝撃を逃すように長く息を吐くと、ヴァヴァロの頬に手を添えた。その宝石のように美しい瞳を、真意を確かめるように見つめる。
「本当に俺でいいんだね」
 ヴァヴァロは心外そうに眉を寄せた。
「アルテュールじゃなきゃ、ダメ」
 あっさりと断言され、アルテュールは観念するように笑う。

 下ろされた帷の向こう。
 何に阻まれることもなく、恋人たちは影を重ねる。
 蜜のように甘いのに、時に笑い合ってしまうような。不思議で、奇妙で、それでいて満ち足りた親密な時間。
 熱くも愛おしい、二人だけの夜が更けていく──。

 

***

 

「ど、どうかな」
 七日後。
 恥ずかしそうに試着室から出てきたヴァヴァロに、アルテュールは至極満足そうに目を細めた。
「──ああ、うん。綺麗だ」
 丁寧に仕立てられたワンピースドレスは、普段は勇ましい装いに隠れがちなヴァヴァロの愛らしさをこれ以上なく引き出していた。
 青い宝石の瞳によく似合う空色の生地。そこに白い手袋とパンプスを合わせれば、まるで荒野に咲く花のように可憐だ。
 帽子も被ると、ヴァヴァロは店員の案内で姿見の前に立つ。
「……うん、うん。丈もぴったり」
 体型に合わせて仕上げられただけあり、初日に試着した時よりも、いっそうドレスのラインが綺麗に映えていた。
 鏡の中の自分はまるで知らない女性のようだが、その女性はどうやらずいぶんと嬉しそうだった。

「ありがとね、アルテュール」
 店員に礼を告げて退店すると、ヴァヴァロはアルテュールの手をきゅっと握った。
 その手を握り返し、アルテュールは愛おしそうにヴァヴァロを見つめる。
「どういたしまして。よく似合ってるよ。そういう格好のヴァヴァロもすごく素敵だ」
「うん、たまにはこういう格好も……いいよね」
 真っ直ぐに褒められ、ヴァヴァロは照れくさそうに頬を掻く。
「ね、ちょっと小腹空いちゃった。どこかでお茶しない?」
 卸し立てのドレスに気持ちが弾み、ヴァヴァロはアルテュールの手を積極的に引く。
「いいな。じゃあ早速デートだ。お茶して落ち着いたら、ドレスに合うアクセサリーも見に行こう」
「うん、行こいこ。首元がちょっと寂しい気がするから、ネックレスなんてどうかなあ」
「またヴァヴァロが気に入るやつを探そう。ウルダハならいろいろあるだろうし」
「そうだね。へへ、楽しみだな。あっ、でも今度は自分で買うからね? アルテュールは探すのだけ手伝ってくれたらいいからねっ」
「んー、どうしよっかなー。ヴァヴァロのこと甘やかしたいんだけどなー」
「もー! 十分甘やかされてるってばっ」

 二人は賑やかに雑踏を行く。
 濃密に思えた二人きりの数日間も、終わりが近づいてしまえば瞬く間の出来事のよう。
 だが名残惜しくは思えど、残念がる必要はない。
 これからはいつでも、二人であの部屋を訪れられるのだから。


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