影より出でて(08)
アルデナード小大陸東部、ティノルカ地方。
地域一帯が鬱蒼とした森に包まれたその只中に、森都グリダニアは存在した。
遥か昔、精霊との対話に成功した人々が築き上げた、黒衣森唯一の都市国家。祖母に言わせれば、ゲルモラを捨てた者たちの根城。森で、鍾乳洞で暮らす多くのシェーダー族が忌み嫌う土地。
「お父さん、あれなに!?」
けれど少年にとっては、密かな憧れの地。
幌の張られた緩やかな坂を上り、青狢門を潜り、岩肌に囲まれた小径を抜けると湖に面した高台に出た。
高台から望む湖は柔らかな森の色。湖の広さだけ開けた空は朗らかに青い。澄んだ空気と穏やかな色調に包まれたグリダニアの玄関口は、およそ同じ黒衣森とは思えないほど風趣に富んでいた。
しかしこの日ばかりは、少年の目を奪ったのは佳景ではなかった。門番にじろりと睨まれた緊張感もすっかり忘れ、少年は滝に架けられた動く円盤を指差す。
「あれは水車だよ」
父の答えはあっさりしたものだった。アルテュリューはますます目を丸くする。
「水車? 水車ってあんなに大きいの?」
両親から。ソフィアヌから。あるいは本で。話に聞き、挿絵で見た水車とは印象がずいぶん異なった。しかも、その大きさたるや!
段瀑の滝と湖の落差は高台と同じほどもあるのに、水車の全長は滝の半分に達しているように見えた。さらによくよく観察すれば、水車は大小様々な部品、それこそ円盤のようなものが複雑に組み合わさって動いている。
水車というのは川や水路に架けるもので、たいていが家屋と同程度の高さだと聞いていたから、少年の想像のグリダニアは、脆くも一歩目から崩れることになった。
「あれは特別大きいやつだな。最近出来たんだよ。なんて名前だったか……たしか、あー、フィガガ大水車?」
「へええ」
アルテュリューはしげしげと大水車を眺める。変わった響きの名前だけれど、どんな由来があるのだろう。地名だろうか。それともなにか、意味のある言葉なのだろうか。
「ほら、はぐれないようにな」
「うん」
父に手を差し伸べられ、アルテュリューは名残惜しくその場を離れた。父の手を取ると、きょろきょろと周囲を見回しながら街中へと向かう。
グリダニアの街並みは、人里でありながら森と滑らかに調和していた。茅葺き屋根の木造家屋はどこか愛らしく、そこかしこに生い茂る草花は瑞々しく街並みに溶け込んでいる。石で簡素に舗装された街路は清潔に保たれていて、どこに視線を向けてもたしかに人の手が及んでいるのに、自然を乱しているとは感じなかった。
「いいか、まずは市場で用事を済ませるからな。市場は特に人が多いから、父さんから離れるなよ」
「うん」
「それと、珍しい物がたくさんあって気になるだろうけど、勝手に触ったりしないようにな。壊すようなことがあったら大変だからな」
「うん」
父は念を押すように息子に言い聞かせた。
アルテュリューは気もそぞろなまま頷く。なにしろ次から次へと気を惹くものが現れて、一つのことに集中できない。
見上げるほど大きな建物がある。こぢんまりとした露店がある。上空を見やれば、小高い場所にまで家屋がある。
道行く人々も様々だ。ヒューラン族がいて、フォレスター族がいる。ちらほらとムーンキーパー族の姿があり、見知らぬ種族の姿がある。一見風変わりな衣服を纏っているのは、異邦人だろうか。
熱心に周囲を観察していると、不意に誰かと目が合った。アルテュリューは瞬きをする。視線の先には、エレゼン族の少年が二人。
兄弟だろうか。年の頃は自分とそう変わらないように見える。出立ちからしてグリダニアの住人だと察しがついたが、その青白い肌は。──シェーダー族のものだ。
小さく息を呑んだ。歩きながらも、思わず兄弟を凝視してしまう。向こうも同族が珍しいのか、ちらちらと視線を送ってくる。
父に手を引かれたまま、逡巡するように視線を彷徨わせた。やがて思い切って小さく手を振ると、兄弟もはにかみながら振り返してくれた。
胸に温かいものが宿った。アルテュリューはたまらず父の腕をぐいぐいと引く。
「お父さん、お父さん、シェーダー族の子がいたよっ」
父は背後を振り返った。
「ああ、まあ、グリダニアに住んでるシェーダー族もいるからな……」
「本当にグリダニアにも住んでるんだねえ」
返事の歯切れの悪さには気がつかず、アルテュリューはにこにこと跳ねるように道を行く。
いつになく嬉しそうな息子に、父は苦笑するばかりだった。
***
市場に到着すると父は手始めに、商店の客が物々交換で持ち込んだ品々を換金した。
毛皮や牙などの狩猟品。薬効のある植物類。稀に鉱石も。黒衣森で採れたであろうそれらの品々を、父は幾人かの商人の間を渡り歩き、時に交渉して売り払った。
そうして資金を増やすと、次は商店の仕入れに移る。
細々とした日用品や狩猟、野営の道具、塩や穀物、酒など。買い込む品はその時々ながらも多岐に渡った。客から頼まれていた品があれば、仕入れと一緒に探した。
グリダニアの商人と言葉を交わす父の横で、アルテュリューは母に言われた通り、礼儀正しく振る舞うよう努めた。といっても、できることは挨拶くらいで、あとは大人しく立っているしかないのだけれど。
「グリダニアの人ってあんまり笑わないんだね」
市場での用事を終えると、父子は人気の少ない川辺に腰を落ち着けた。ようやく緊張感から解放され、アルテュリューはほうっと息をつく。
予想していたこととはいえ、グリダニアの市場は両親の商店と比べ物にならないほどの物資にあふれていた。いくつもの商店が連なっている──そうした場所を商店街と呼ぶらしかった──だけでも衝撃なのに、市場の人混みと物量は、初めて都会にやってきた少年には些か刺激が強すぎた。
そのうえ接客は誰も彼も淡々としていて、なかにはジロジロと睨めるように見てくる商人までいたものだから、市場を出る頃には、アルテュリューはすっかりくたくただった。
父は大仰に顔を顰めてみせた。
「無愛想なんだ、グリダニア人ってのは。余所者には特にな。アルテュリューのせいじゃないから、気にするんじゃないぞ」
「ん」
優しく肩を叩かれ、アルテュリューはこくんと頷く。〝余所者〟という響きに少しだけ気落ちするものを感じたが、この街の人間でないのは事実だから、そういうものかと受け止める。
それから二人は市場で買ったパンを並んで食べた。生地に胡桃を練り込んで焼いたパンは香ばしく、一口、また一口と食むごとに小麦の甘さが口の中に広がった。その甘さに癒されて、アルテュリューはやっと人心地つく。
最後の一欠片をよく噛み締めてから飲み込むと、隣の父を見上げた。
「お父さん、このあたりも昔は森だったんだよね?」
「うん?」
父に首を傾げられ、アルテュリューは周囲を指差した。浮かんできた考えをなんとか言葉に纏めようとする。
「ええと、皆がゲルモラに住んでた頃はグリダニアなんてまだなかったから、ここは森だったはずだよね?」
ああ、と父は合点がいったように頷く。
「そうだな、そういうことになるな」
「でも精霊が許したから、グリダニアの人たちはゲルモラを出て、森を切り拓いて街を作ったんだよね?」
「そうなるな。はは、ばあちゃんの話、よく覚えてるじゃないか」
もちろん覚えている。飽きるほど繰り返し聞かされたら、嫌でも覚えてしまうというものだ。
瞼に浮かんだ祖母の不機嫌な顔を追い払い、アルテュリューは改めてグリダニアの街並みを眺めた。到着当初は興奮するばかりだったが、こうして落ち着いて周囲を見渡していると、気になることが次から次へと湧いてくる。
「道が広かったり狭かったりするのは、なるべく森の形を残しておくためなの?」
「んんっ?」
息子の疑問に、父はまたしても首を傾げた。
アルテュリューもまた、うまく伝えられないことにもどかしくなり、必死に言葉を探す。
「んとね、グリダニアって広いのに、岩山の上におうちがあったり、隧道があったりするでしょう? 道の広さもあっちとこっちで全然違うし、なんでなのかなって思ったの。精霊が許したなら、全部平らにしちゃえばいいのに」
父はしばし、息子が言わんとすることを考え込んだ。街並みを観察し、やがて「ははあ」と感心したように呟く。
「なるべく自然の地形を残したまま街を築いたんじゃないかってことか?」
「そう、そう」
通じたことにほっとして、アルテュリューは胸を撫で下ろした。
そう、少し不思議に感じていたのだ。広大な都市にも関わらず、グリダニアは森の中に唐突に現れた。ここだけがぽっかりと開けた土地で、なのに歴とした森の一部だ。
なぜそう感じるのか、父のおかげでようやく自分でも理解できたように思う。つまりグリダニアは、広く森を切り拓きこそすれ、必要以上には手を加えていないのだ。だからきっと、森と調和しているように感じるのだろう。
都市内の街路は道幅が不揃いで、広い道があるかと思えば、谷間のような小径がある。岩山を穿った隧道があり、川にかけられた橋がある。恐らく大昔からの地形をそのままに、しかし人の営みに不便がないよう、最低限の手を加えただけなのだろう。
「アルテュリューはたまに難しいことを考えるな」
「なんとなく、そうなのかなって思っただけ」
父に頭を撫でられ、アルテュリューはもじもじと膝を抱える。視線を景色に戻した。
「……すごいなあ、こんな大きな街を作っちゃうなんて……」
ぽつりと声が漏れた。
森の木々は天を衝くほど高く、そして太い。たった一本切り倒すだけでも大変な労力だろう。それを、これだけ広大な土地の分。
青狢門から市場だけでも果てなく人里が続いているように感じたのに、都市全体となると、どれほどの時間と人手が必要だったことだろう。
その途方もない行程に思いを馳せると、自然と感嘆のため息が漏れた。
「……気に入ったか?」
「うんっ」
色々なしがらみなどすっかり頭から抜け落ちて、アルテュリューは笑顔で頷く。そしてわずかに首を傾げた。つい最近も似たような感情を抱いた気がするが、いったいどこでだっただろう。
「そうか」
父は複雑そうに笑うと、くしゃくしゃと息子の頭を撫でた。
「さ、そろそろ帰ろうか。母さんが待ってるからな」
「うん」
父に促され、アルテュリューは離れがたく思いながらも素直に立ち上がった。荷物でいっぱいになった鞄の肩紐をしっかり握ると、父と並んで歩き出す。
差し出された大きな手を握り、青狢門へと戻る道すがら、そうか、とアルテュリューは振り返った。──ゲルモラだ。
グリダニアに抱いた感慨は、祖母に連れられて見に行ったゲルモラと同じだ。
でも、それもそのはずだ。だって、ゲルモラを築いた人たちなのだから。
黒衣森の地下深く、鍾乳洞を掘り進め、コツコツと石を積んできた人たちなのだ。そんな人たちが地上に出てきて、今度はコツコツと森を切り拓いた。果てしなく、途方もないのに、根気よく。
だからきっと、同じ感慨を受けたのだろう。