影より出でて(03)

「そうして、自ら精霊の奴隷になることを選んだ連中は、ゲルモラを捨て森に出ていったのさ」
 鍾乳洞に蝙蝠が入り込まないよう、煙を焚く手伝いをしていたアルテュリューは、聞き飽きた祖母の歴史談義に不貞腐れていた。
 ──曰く、かつて黒衣森の地中深くに栄えた都市ゲルモラは、精霊の干渉を受けない安寧の地であり。エレゼン族とヒューラン族が手を取り合い、長い長い年月をかけて築き上げた広大なその地下都市で、人々は穏やかに暮らしていた。
 太陽の恩恵は地の底にまでは届かなかったが、代わりに地神ノフィカの恵みを授かることができた人々は、暗がりを恐れずに掘り進み、ひたむきに石を積み上げ、知恵を出し合って独自の文明を花開かせた。
 しかし、やがて転機が訪れる。人々が森で暮らすことを精霊が許したのだ。地上を忘れられなかった一派が精霊との意思疎通に成功した末のことだった。そして多くの人々が精霊の許しに喜び、自ら築き上げた誇るべき都市を一顧だにせず森に出ていった。
 ゲルモラに残った者たちは裏切り者の所業に心を痛めながらも、先人が築き上げてきた偉大な都市を──そしてこれまでの暮らしを守ろうと尽力した。だが、多くが去った広大な都市を維持するには、何もかもが足りなかった。結果、ゲルモラは衰退の一途を辿ることになり、やがて地下に残った者たちも故郷を捨て地上に出ざるをえなかったのだ、と。
「おばあちゃんだって森で暮らしてるのに」
 最後はいつもグリダニアやフォレスター族への不満で終わるから、アルテュリューは祖母のこの話が好きではなかった。母はグリダニアで生まれ育ったシェーダー族だし、唯一の友達であるソフィアヌはフォレスター族だ。父の商売もグリダニアがなければ成り立たない。仕入れてきた品は集落の暮らしに役立つこともある。だというのに、何もかもを一纏めにして悪く言うから、聞いていて良い気分がしないのだ。
「そうしなければ生きていけなかったからさ。残れるものなら地下に残りたかったとも」
 孫のぼやきに祖母は鼻を鳴らした。何かにつけて鼻を鳴らすのは祖母の癖だ。小馬鹿にしたようなその調子に、アルテュリューはますます顰めっ面になった。
 反抗的な態度を隠そうともしない孫に祖母はこれみよがしのため息をつく。
「まったく嘆かわしいね。近頃の若い者ときたら、グリダニアが憎い、フォレスターどもが憎い、精霊が憎いと言いながら、なぜ憎いのか分からないまま憎む。少しもご先祖様のことを知ろうとしない」
「僕は別に」
 嫌いじゃない、と反射的に反論しかけ、アルテュリューは口を噤んだ。祖母の小言には辟易するが、迂闊なことを口走ってあれこれと詮索されるのも嫌だった。
「おばあちゃん、いつも不機嫌なんだもん。それで昔のほうが良かったって言われても、ちっともそう思えないよ」
 アルテュリューは祖母が笑ったところを見たことがない。深い皺が刻まれた顔は表情に乏しいくせに、落ち窪んだ目だけは常に周囲を疑り深く見回していて、まるで“顔のある木”のようだといつも思う。せめて楽しかった昔話のひとつでも聞かせてくれたらいいのに、祖母の口から語られるのは失われた過去を嘆く言葉ばかりで、本当に“古き良き時代”があったとはアルテュリューにはどうしても信じられなかった。
「生意気な子だね。口が達者なところはお前の母親にそっくりだよ」
「おばあちゃんに似たの」
 じろりと睨め付けてくる祖母にアルテュリューも負けじと言い返す。しばらく睨み合った二人は、どちらからともなくふいと顔を逸らすと、むっつりとしたまま作業に戻った。
 さっさと手伝いを終わらせてしまいたくて、アルテュリューはせめてもの抵抗にぱたぱたと手で煙を扇ぐ。早く煙が鍾乳洞中に行き渡ればいいのに、と恨めしい気分で天井を睨み上げた。
「見てみるかい」
 不意に降ってきた言葉にアルテュリューは振り返った。なにを、と視線で返すと、祖母は古い扉に目をやる。
「ゲルモラさ。実際に見れば想像もつくだろう。ご先祖様の暮らしがどんなものだったかね」
 アルテュリューは目を丸くした。
「入ってもいいの?」
「私と一緒の時ならね」
 祖母が頷くので、アルテュリューはまじまじと扉を見た。結界が施された扉は淡く光を帯びていて、鍾乳洞の広場を微かに照らしている。
 扉の先、さらに地下深くへと降りていくとゲルモラ時代の居住区がある。そう教えられて育ったが、実際に扉の先がどうなっているのか、アルテュリューは見たことがない。昔は年に一度程度、祖母が人を募っては地下の様子を見に降りていたそうだが、もうそれも随分と長く行われていないようだった。
「じゃあ、見る」
 祖母の提案にすんなり乗るのは少しだけ悔しい気もしたが、扉の先に行っても良いのなら興味があった。
 孫の返事に祖母は少しだけ満足そうに鼻を鳴らし、作業を切り上げにかかる。その横でアルテュリューは、岩壁の窪みに置いていた燭台を手に取った。
「それは置いていきな。手が塞がって邪魔なだけだ」
 祖母の言葉にアルテュリューは首を傾げた。
「地下は真っ暗でしょう?」
「この時分なら、天井の大穴から多少は日が差し込んでいるだろうさ。扉の先は湿気もひどい。滑りやすいから、両手は空けていたほうが良い」
 それに、と祖母は試すように幼い孫を見下ろす。
「お前もゲルモラの子なら、暗闇くらいどうと言うことはないだろう」
 ゲルモラの子、と言われてもぴんと来ないけれど。
 アルテュリューにとって──シェーダー族にとって、聞こえさえすれば・・・・・・・・暗闇は行手を阻む障壁になり得ないのは確かだ。
 アルテュリューは少し考えてから、燭台を窪みに戻した。

 祖母が低い声で何事か唱えると、扉を守っていた光が儚く散った。数歩下がったところでその様子を見守っていたアルテュリューは、扉に閂がないことに初めて思い至る。
 祖母に呼ばれ、建て付けが悪くなった扉を開け放つと、湿った冷気が広場に流れ込んだ。その冷気に身体を撫でられ、アルテュリューは小さく身震いする。
 扉の先の道もまた、広場までの道と同じように、大人二人が肩を並べて歩ける程度の幅があるようだった。
 暗闇に包まれたその道に向かって、杖をカツ、と響かせながら祖母が踏み出した。アルテュリューも黙ってその後に続く。ちらりと背後を振り返り、開け放たれた扉の内側に閂鎹を見つけると、ここが森と地下の境界だったのだろうか、とぼんやりと思った。
 扉を超え、少し道を下ったあたりで、地上から差し込んでいた微かな光も途絶えた。暗闇の中、カツ、カツ、と響く祖母の杖の音を頼りに進みながら、アルテュリューは額に滴り落ちてくる水滴を払う。道はおおむね同じ幅を維持していたし、急な勾配もなく歩きやすかったが、ひどく湿気がこもっていた。
 アルテュリューは祖母の様子を窺う。祖母が転んでしまわないか案じたが、その足取りはしっかりしていて、要らぬ心配のようだった。
 ふと前方が開ける気配がした。耳を澄ませると、遠く深い場所から川のせせらぎが聞こえる。どこか広い場所に出るのだろうと予想したアルテュリューの瞳に、再び微かな光が届く。暗闇を抜けたのだ。
 じきに空洞に出た。祖母が振り返る。その問いかけるような視線には気が付かず、アルテュリューは目の前に現れた空洞の規模に目を瞬かせた。
 いびつな円形をした空洞は集落がすっぽりと収まってしまいそうなほど広かった。ぽかんと見上げてしまうほど高い天井には大穴が空いていて、そこからちらちらと陽光が差し込んでいる。その光が苔にでも反射しているのか、空洞内はごくうっすらと明るかった。
 アルテュリューは興味深く周囲を見渡した。目が慣れてくると、空洞内の様子がより見て取れるようになる。
 たっぷりと幅のある道はぐるりと壁に沿うように続いていて、しかも石が敷かれている。敷き詰める、とまではいかないようだが、土の露出を減らし、道をなだらかなものにしていた。
 道の縁には子供の腰丈程度の石塀が築かれていた。その先は崖になっているようで、耳に届く川のせせらぎも崖の底、ちょうど大穴の真下から聞こえてくるようだった。
 目を見張ったのは壁だった。高さには多少ばらつきがあるが、岩肌を補強するようにしっかりと石が積み上げられている。それが途切れることなく道に接した岩肌を覆っていた。この暗闇の中、これだけの壁を築くのにどれだけの石材と人手が必要だったことだろう。
「どうだい。話して聞かせたとおりだろう」
 祖母の言葉にアルテュリューは口を開きかけ、そして噤んだ。自分が抱いた感情が感嘆なのか困惑なのか分からなかったのだ。
「おばあちゃん、ここで暮らしていたの?」
 聞きたいことが山ほどあるような気がした。沢山の言葉が頭の中を駆け抜けて、ようやくひとつ、質問が転がり出る。
「娘の頃まではね」
 祖母に頷かれ、アルテュリューはしげしげと空洞内を見直した。
「あれは? おうちの入り口?」
 石塀の向こう、崖を挟んだ対岸の壁には扉大にくり抜かれた穴がまばらに並んでいる。あれが住居の門口だとしたら、所々に見える四角い穴は窓だろうか。
「そうだね。ご覧、隅にあるのが私の暮らしていた部屋さ。その隣が三年前の冬に亡くなったお前の大伯父の部屋。さらに隣が大叔母夫婦の部屋だね。一番手前の部屋には私の大婆様が住んでいたよ」
 祖母が杖の先で門口をひとつひとつ指し示す。
「おばあちゃんのはなし、本当だったんだ」
 もっと──もっと素朴な暮らしを想像していた。精霊から隠れるため、人々は暗闇の中でひっそりと暮らしていたのだと。ところが、眼前に現れたこの住居跡はどうしたことか。壁も道も舗装され、煮炊きをする広場が見え、井戸が見える。たしかに古びてはいるようだが、もしかすると地上の集落よりも立派かもしれない。
「呆けた婆の戯言だとでも思っていたのかい」
「そうじゃないけど……」
 祖母に鼻を鳴らされ、アルテュリューは口ごもった。
 信じていなかったわけではないのだけれど。森の中で見つける洞窟には、こんな風に人の手が加わった場所はなかったから、いまいちピン・・ときていなかったのだ。
 対岸をもっとよく見ようとアルテュリューは石塀から軽く身を乗り出した。昔の人はどんな風に暮らしていたのだろう。部屋の中はどうなっているのか、家具もやはり石造りなのか。暮らすうちに暗闇には慣れるだろうが、この湿気の酷さは気にならなかったのだろうか。
「おうちのなかも──」
 見てみたい、と祖母を振り返った拍子に石塀が崩れた。息を呑むアルテュリューの襟首を祖母が慌てて掴む。そのまま後ろに強く引かれ尻餅をついた。
「どうして扉を封印していたか、よく分かっただろう」
「ご、ごめんなさい」
 壊してしまった石塀を前にアルテュリューは小さくなった。祖母はため息をつく。
「仕方がないさ。人の手が入らなくなってもう何十年と経つ。人が住まなくなった家は傷むのが早い。遅かれ早かれ、もう朽ちるだけの場所だ」
 諦めの滲んだ声だった。アルテュリューは俯く。
「あれ」
 ふと、耳が異変を捉えた。川のせせらぎが乱れている。アルテュリューは地面に膝をつくと、そろそろと石塀のそばに戻り、そっと崖下の様子を伺った。
「下に何かいるよ」
 細い枝で水面を突き回すような音だったように思う。それが今は、じっと息を潜めている。
「蜘蛛か何かが棲みついているんだろうよ」
 祖母があっけらかんと言う。あれか、とアルテュリューは顔を顰めた。森の中でも時折見かける、気味の悪い脚長蜘蛛のことだろう。
「登ってこない?」
「なに、向こうも厄介ごとはごめんだろう」

 祖母に手招きされ、今度は道の奥へと向かって歩き出した。向かう先には大きな隧道がある。崖下を流れる川はこの隧道へと続いているらしく、流れに沿って掘られた隧道なのだと察しがついた。
 隧道へと入っていく道は川に二分されていた。その道を繋ぐはずの橋が崩れ落ちているのを見て、アルテュリューはがっかりして肩を落とした。岩壁に掘られた部屋がどんな造りになっているのか、これでは覗きにいくことができない。
「こっちに来な」
 祖母に呼ばれ、アルテュリューは後ろ髪を引かれる思いで橋の前から離れた。祖母について隧道へと入っていく。
「こんなにじめじめしてたら暮らしにくそうだな」
 アルテュリューはしっとりと身体に纏わりつく湿気にぼやいた。地上と地下を繋ぐ道や隧道でこれほどの湿気なら、部屋の中は息苦しくなるほど湿気が溜まってしまうのではないだろうか。
「そうでもないさ。人が住めば空気が動くし、火も熾すからね。湿気にしろ害獣にしろ、工夫のしようはいくらでもある。それに地下なら、暑さ寒さの変化が少ない。地上よりも過ごしやすいさ」
 ふうん、とアルテュリューは呟いた。いまいち実感がわかないが、確かに日々の暮らしで使う地上付近の鍾乳洞はもっと過ごしやすい空間だから、そういうものかと飲み込んだ。
 隧道もまた、空洞内の道と違わずたっぷりと幅が設けられていた。荷車がすれ違える程度の幅の道が川を挟んで二本あるのだから、かなりの広さだ。
 祖母が隧道に掘られた横穴の前で立ち止まった。アルテュリューも足を止め横穴を見上げる。石組みの門構えをした横穴の上部には、地神ノフィカのシンボルが彫られていた。
「ここは分かるよ。ムントゥイ農園でしょう?」
 アルテュリューは真っ暗な横穴の中を軽く覗き込むと、祖母を見上げて笑った。横穴の中は随分とかび臭かったが、それを除けば集落が日々使うムントゥイ農園と雰囲気がそっくりだった。
 祖母は頷く。
「この辺りはムントゥイ豆の栽培が盛んに行われていた地区らしくてね。川に沿って同じような横穴がずらずらとある」
 祖母が杖で隧道の先を指す。一体どこまで続いているのか、暗闇に包まれてうかがい知れない隧道の各所には、たしかに横穴らしき影が多く見えた。
「こんなにたくさん農園があったら、いっぱいムントゥイ豆を育てられるね」
 見渡せる範囲の横穴の数だけでも、集落が使う農園の何倍もの規模があると予想がついた。隧道をしばらく進んだ辺りには四つ辻も見えるから、さらに多くの農園跡が広がっているのかもしれない。
「ムントゥイ豆は暗闇でもよく育つ。今も昔も、我々が命を繋げるのはこの豆のおかげだ。ノフィカ様の恵みと、ご先祖様の知恵に感謝せねばならん」
 祖母は隧道を眺め回す。
「ここで収穫されたムントゥイ豆は、ゲルモラ中に運ばれていたらしくてね。ここから東の都の方には、特に多く運んでいたそうだ」
「都? 都があるの?」
 アルテュリューは目を瞬かせた。
「あった、というのが正しいね。ゲルモラが栄えていたのは、もう何百年も前の話だ」
「今はもう誰もいない?」
「さて、どうだろうね。私が行ってみた時には、人っ子一人見当たらなかったが」
「行ったことあるの?」
 祖母の言葉にアルテュリューは驚いて目を丸くする。
「幼い頃にね。兄妹たちと古い道を辿って行ってみたことがあったのさ」
 アルテュリューは興奮で頬を赤らめた。都というのは大きな街のことだろう。農園跡周辺だけでもこれだけかつての名残が見えるのだから、都ともなればさぞかし立派な街並みが残っているに違いない。しかも地下道を探検をしながら向かっただなんて!
「僕も行ってみたい!」
 目を輝かせるアルテュリューに祖母は頭を振った。
「それは諦めな。もう道がどうなっているか分からない。お前も生き埋めにはなりたくないだろう」
 露骨に落胆する孫を余所に祖母は目を細めた。
「懐かしいねえ。くたくたになりながらようやく辿り着いたのに、待っていたのは廃墟ばかりで、ずいぶんとがっかりしたものさ。それでもよおく見て回ると、昔の面影を感じ取れてね。子供心に感じ入る物があったよ」
 アルテュリューも祖母の視線を追い、暗闇を見やった。薄暗がりの中に広がる居住区と農園の跡地。時が止まったような遺跡に、今はただ二人の人間が佇むだけ。
「昔は、うんとたくさんの人がここで暮らしてたんだよね」
「そうだよ」
 アルテュリューは人々が行き交う姿を想像してみる。大昔、まだ多くの人々がゲルモラに暮らしていた時代。エレゼン族とヒューラン族が手を取り合って築いたというこの都市で、人々はほのかな光を頼りに地下道を行き交い、地神ノフィカに祈りを捧げながら、豆を育てて静かに生きていた──。
 地下都市は黒衣森中に広がっているという話だが、端から端まで歩くのにいったいどれほどかかるのか。より地下深い階層もあったというのだから、きっと想像よりも何倍も広いのだろう。
 飽き飽きするほど聞かされた祖母の話を、少年はようやく、現実のものとして飲み込んだ。
「ええと、もし──」
 アルテュリューは暗闇の先を指差した。
「もしまだ崩れてない道があって──うんと先まで行ってみたら、他の人たちが住んでたりする? 僕たちみたいに」
 シェーダー族はゲルモラに残ることを選んだエレゼン族の末裔だ。そう教えられて育ってきたが、アルテュリューは父の店に訪れる同族以外、シェーダー族を見かけたことがない。一番近いはずの叔父家族の集落の場所すらはっきりしなかった。同族が森のどこで、何を生業に暮らしているのか、深く冥い森に阻まれて知ることができない。
 首を傾げる孫に祖母は頷く。
「住んでいるだろうね。元々は大きな一つの都市だったんだ。何百年と経つうちに、岩盤の崩落や水流の変化で分断が進んじまったが、我々のように地表近くや、鍾乳洞から出た先の森で暮らしている同族は多いだろうよ」
 アルテュリューは頬を紅潮させた。もしこの道がまだ使えたら、大喜びで同族を探しにいったのに。
 他の皆はどうやって暮らしているのだろう。やはりムントゥイ豆を育てながら暮らしているのだろうか。年の近い子供はいるだろうか。地下道を抜けたどこかで暮らしているはずの同族にアルテュリューは思いを馳せる。
「ここまでにしよう。帰るよ」
 祖母に呼ばれ、アルテュリューは名残惜しい気持ちで道を戻り始めた。
「ここにはもう住めないの?」
「難しいだろうね。どこもかしこも脆くなって、いつ壁や橋が崩れてくることか」
「みんなで頑張っても直せない?」
 このまま失われてしまうのかと思うと切ないものがあった。祖母は深々とため息を吐く。
「今からでも手を入れたら、多少マシにはなるだろう。けど、それだって一時凌ぎにしかならないさ。どうにかなっていたら、そもそも地上になど出ているものかね」
 それもそうか、とアルテュリューも息を吐く。
「それもこれも、グリダニアの連中がゲルモラを捨てて出ていったせいさ。連中が精霊の気紛れなど信じなければ、今もここで平穏に暮らせていただろうに」
 再び始まった祖母の愚痴にアルテュリューはげんなりする。
「でも」
 アルテュリューは足を止めた。隧道から居住区へと戻ってきたが、天井の大穴からは今も揺らめくように陽光が差し込んでいる。それでも。
「でも、ここは暗いよ。昔の人は太陽が恋しくなかったのかな」
 アルテュリューは空を眺めるのが好きだ。仰ぐほど高い木々に遮られて、地上ですら空はよく見えないけれど。木々の緑から覗く青空を探すのが好きだった。
 日が傾けば、居住区跡はたちまち寂しい雰囲気に包まれるだろう。少年にとって暗闇は恐ろしいものではないが、それでも太陽の光が届かない地中での生活は、少しばかり物寂しいものを感じてしまう。
「ゲルモラの民に太陽の光は必要ないさ」
「そうかなあ。僕だったら、たまには空も見たいな」
「お前には半分グリダニアの血が流れているから、そう思うんだろう」
 つい先ほど〝ゲルモラの子〟と言ったのは誰だったか。容易く掌を返す祖母にアルテュリューはむくれた。
「お母さんだってシェーダー族なのに」
「ああそうさ。グリダニアに下った恥知らずの末裔のね」
 祖母の素気無い口調にアルテュリューはむっとする。
「お母さんのこと悪く言わないでっ」
 祖母は鼻を鳴らす。
「そもそもその呼び方シェーダーが気に食わない。フォレスターどもめ、灰色だの蝙蝠だの、人を日陰者扱いしおって」
 蔑称についてはアルテュリューも思うところがあった。果樹園の道士や鬼哭隊員はアルテュリューたちのことを陰で蝙蝠と呼んで蔑むが、蝙蝠は暗闇の中を自在に動き回る達人である。周囲の障害物をひらりひらりと躱しながら空中を飛び回る姿は見事だし、顔だってけっこう可愛い。彼らの動きを間近で観察したくて捕獲を試みたこともあったが──この話を母にしたら嗜められた──、絶対に捕まえられなかったものだ。きっと果樹園の人々は、暗がりには近づかないから彼らの凄さを知らないのだろう。
 アルテュリューは小さくため息を吐いた。
「みんな仲良くできたらいいのに」
 祖母は杖で地面を強く打つ。
「冗談じゃない。自分達の都合で平然と言い分を変える連中など信用できるものか。そんな甘ったれた考えは捨てな」
「言い分って、ゲルモラを捨てたこと?」
 吐き捨てる祖母にアルテュリューは唇を尖らせた。
「それだけじゃないさ。お前はタムタラの墓所を知っているかい」
 じろりと睨まれ頭を振る。
「ここから南にある立派な墓地さ。ゲルモラの民が先祖代々、大事に使ってきたね。ところがだ。墓所はいま、グリダニアの手にある。奴ら、ゲルモラを捨てておきながら、自分たちに都合の良いところは我が物顔で掠め取っていく。卑怯な盗人どもだよ。そんな連中と分かり合えと、お前は言うのかい」
 アルテュリューは首を傾げた。
「でも、グリダニアの人たちだって元々はゲルモラに住んでいたんでしょう? それなら彼らにとっても大事なお墓じゃないの?」
 祖母は孫を睨んだ。
「本当に憎たらしい子だね」
「だって半分しかゲルモラの子じゃないもん」
 そっぽを向く孫に祖母は忌々しそうに鼻を鳴らした。
「果樹園のフォレスターどももだ。我々のほうが先にこの土地で暮らしていたというのに、後からやってきておきながら、我が物顔で他人の暮らしに口を挟んでくる。あの小童の道士もだ! 我々が森を荒らすと端から決めてかかりおって。獲りすぎればいずれ自分たちが食うに困る。そんなことすら分からない無能者の集まりだと決め込んでいる。そんな連中と親しくしろと?」
「それは……」
 アルテュリューは口籠った。実際、道士の言動に傷ついた経験は一度や二度ではない。
「それどころか奴ら、我々を森のならず者扱いしておきながら、自分達は平然と盗みに入る。呆れた連中だよ」
「盗みに入られたの?」
 アルテュリューはぎょっとして目を見開いた。
「お前が生まれる前の話だったかね。果樹園のガキどもが豆を盗みに入ってきたことがあったのさ。あちらはひどく不作の年だったらしくてね。真夜中に忍び込んできた影を何事かと捕らえてみたら、痩せっぽっちのフォレスターのガキばかりときた」
「捕まえて、それで?」
 恐る恐る尋ねると、祖母はため息を吐いた。
「あんまりにも痩せていて気の毒だったからね。豆を持たせて帰してやったさ。気に食わない連中だが、子供に罪はないだろうと思ってね。まったく見ものだったよ。我が子の盗みを謝罪にきたフォレスターどもの顔ときたら。おまけに蝙蝠と蔑む連中に食糧まで分けられて、さぞかし矜持が傷ついたことだろうよ」
「親切にしてあげたんだ……」
「そうとも」
 祖母の話にアルテュリューは複雑な思いで俯いた。果樹園の話題はどうしてもソフィアヌの顔を思い出してしまうから、聞くのが気まずかった。

 地上への坂道に差し掛かり、アルテュリューはもう一度、居住区を振り返った。なんとなく離れがたくて大穴を見上げていると、祖母も横に並ぶ。
「昔はね、雨の日になると大穴の周りに集まって、雨粒が川面を打つ音に耳を傾けながら過ごしたもんさ。懐かしいねえ」
 祖母が目を細める。
 アルテュリューは空洞を見渡し、今もどこかで滴り落ちている水滴の音に耳を澄ませた。崖底のせせらぎはもう乱れていない。森のざわめきが届かない地下空洞は実に静かで、岩や土を打つ水滴がその静寂を際立てていた。
 変化の少ない地下生活で、風雨の訪れはちょっとした行事だったかもしれない。皆で大穴の周りに集まり、雨風に耳を傾けながら静かに語らうのは、時の流れがゆったりとしていて楽しそうに思えた。
 当時の様子に思いを馳せるアルテュリューの唇から、するりと古い歌がこぼれ落ちた。祖母がよく口ずさんでいる歌だ。洞内に響く音々を拾い上げたような、静かで不思議な旋律の歌──。歌いながら、これはゲルモラの民に受け継がれてきた歌だったのだな、と少年は一人、納得する。
 視線を感じ、口を噤んで祖母を見上げると、祖母は驚いた顔をしていた。
「おばあちゃん、よく歌ってたから。覚えたの」
「そうか……」
 祖母は呟くと、しみじみと洞内を見回した。
「たとえ全て地中に埋もれてしまおうと、せめてゲルモラの血だけは絶やすまいと、たくさん子を産んだ。だというのにだ。皆、日々を生きるのに精一杯で、過去を振り返る余裕もない。子供らにとってゲルモラはカビ臭い廃墟で、なんの意味も持たない場所だ。──せめてお前は覚えておいで。今日こうして見たものをね」
 じっと見つめられ、アルテュリューは頷く。
「僕、ここ好きだな。ちょっと暗いけど、森と違って静か・・だし」
 地上と違って、地下は驚くほど静かだ。なぜ地下なら精霊の干渉が及ばないのか、アルテュリューはいつも不思議だった。大穴からは木の根も見えているのに、ここはもう森の一部ではないということなのだろうか。
「そうかい」
 坂道に向きかけた祖母がぴくりと足を止めた。
「──なんだって?」
 ぎょろりとした目を向けられ、アルテュリューはぎくりとする。
「ほら、森は色んな生き物がいるし、風が強い日は木がざわざわするし、たまにうるさいなって」
「……そうかい」
 慌てて言い募る孫に釈然としないながらも、祖母はそのまま坂道を上り始めた。アルテュリューはほっと胸を撫で下ろす。
「お前、ゲルモラに興味が湧いたなら、ご先祖様の術を学んでみるといい。教えてやろう」
「扉の結界みたいなやつ?」
 湿気のこもった暗闇の中、唐突な提案にアルテュリューは首を傾げた。祖母は頷く。
「覚えておけば護身にもなる。そうした知恵も必要な年頃だろう。森に遊びに出るなら、なおさらね」
 あまり気乗りはしないのだけれど。祖母が妙にやる気なので、断るのも悪く感じてしまう。
「じゃあ、やる」
 孫の渋々といった返事に、祖母は満足そうに鼻を鳴らした。

 鍾乳洞の広場まで戻ると、祖母は再び扉に封印を施した。何を思っているのか、淡い光を帯びた扉に手を添えると、そのまま押し黙ってしまう。
 祖母の気が済むのを待ってから、二人は地上を目指して坂を上っていった。地下との往復はさすがに老体に応えたのか、祖母の足は止まりがちだった。前を歩いていたアルテュリューは振り返ると手を差し伸べる。祖母は黙ってその手を掴んだ。皺だらけの、枯れ木のようにやせ細った手だった。
 一歩、一歩と地上に近づくにつれ、陽光が目に突き刺さるほど眩しくなる。洞口までくるといよいよ目を開けていられなくなり、アルテュリューはぎゅっと目を瞑った。
 地上に踏み出したのを肌で感じると、恐る恐る瞬きをする。ちかちかと白んでいた視界が一転、力強く濃い緑に埋め尽くされた。森の木々は風にざわざわと揺れ、そこかしこで生命が騒がしく息づいている。
 静寂とは無縁の森に踏み出て、アルテュリューは空を仰ぐ。天高く分厚い木の層に遮られ、空の青も、太陽さえもろくに見えないのに。暗闇を晴らす陽光は、いつにも増して力強く暖かかった。
 ──遥か昔、ゲルモラを出ると決めた人々は、森に踏み出した時に何を思ったのだろう。
 行けども行けども緑ばかりが広がる森に途方に暮れただろうか。それとも、数百年ぶりに太陽の下で暮らせるようになった喜びで胸がいっぱいだっただろうか。
 そして、ゲルモラに残ると決めた人々は。あるいは、いま隣に立つ祖母は。いよいよ森に出ざるを得なくなった時、深い森を前に何を思ったのだろう。本当に太陽は、恋しくはなかったのだろうか。
 アルテュリューは祖母を見上げる。孫の視線に気がつかない祖母は、少年と同じようにじっと空を仰ぐばかりだった。


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