影より出でて(01)

 鬱蒼とした緑に遮られた空はざわざわと揺れる樹冠から時折その青を覗かせた。
 今日は風が強いからか、いつもより木洩れ日がよく差し込む。少年は覗いては隠れる空の青をよく見ようと掃き掃除の手を休め、大きく首を逸らして空を仰いだ。箒を手にしたまま背伸びまでして青空を探していた少年は、ふらふらと数歩下がったところで人にぶつかり慌てて飛び退いた。
 ごめんなさい、と謝ると、ぶつかった相手は目深に被ったフード越しに小さく笑った。
「坊や、親父さんは今いるかい」
 酷く風体の怪しい男だったが、藍色の肌と顔の刺青に見覚えがあった。少年はすぐそばの商店を指差す。
「店にいます」
「そうかい」
 男は少年の頭を軽く叩くと、周りには気をつけな、と笑って商店へ入っていった。
 少年は大人しく掃き掃除を再開する。店の前を綺麗に掃くのが、少年が両親から言いつけられた毎朝の日課だった。
「アルテュリュー」
 自分を呼ぶ母の声に少年は顔を上げた。
「どうしたの」
 店から出てきた母のもとへ寄ると、母はアルテュリューの手から箒を受け取る。
「ここはいいから、遊んでいらっしゃい」
「まだ終わってないよ」
「いいのよ。さあ」
 促すようにそっと背を押され、アルテュリューは母を振り返った。母は微笑んでいたが、どこか物言わせぬ雰囲気を感じ取り、仕方なく店の前から離れる。
 こういうことは時折あった。決まって先ほどのような同族が訪ねてくる時だ。集落の大人とは纏う空気が違うので少し怖かったが、誰も彼に眉を顰めたりはしないので、アルテュリューも大人と同じように彼に接した。ただ彼が訪れると母が顔を曇らせるのが気がかりだった。

 咽せ返るような緑が広がる森を少年は適当に歩く。急に手が空いてしまったので、向かう場所は決まっていない。
 こういう時、弟や妹がいたら一緒に遊べるのにな、と足元の小石を蹴った。集落には歳の近い子供がいないから、時々──本当に時々、退屈だった。
 従弟妹は森で遊ぶにはまだ幼いし、遊んでとねだって大人の邪魔をするわけにもいかない。母が遊んでくるよう言いつける時は、大人の声が届かない所まで離れてほしい時なのだと少年なりに察していたから、どうしても悄然とした足取りになった。
 森を吹き抜ける風に足を止めた。風に乗って誰かの声が聞こえた気がしたが、周囲を見渡しても人の気配はない。アルテュリューは緑の空を見上げる。誰の声でもないのなら、きっと森の声なのだろう。
 木々のさざめき、川のせせらぎ、命の息衝き、そして森の囁き。風のある日の黒衣森はいつにも増して音に溢れている。その風に誘われるように歌いかけ、口を噤んだ。
 ──森の調子に合わせて歌ってはいけない、と。
 不安を押し殺した顔で嗜める母の顔が浮かんだ。物心が付くよりも前の記憶だ。ほとんどの記憶は輪郭のないぼんやりとしたものばかりなのに、あの母の表情と声だけは今も鮮明に思い出せた。
 母を真似て歌っていたある日のことだ。風に乗って耳に届いた音をそのまま声に乗せたことがあった。その音は不思議と耳に心地良くて、届いた通りに声にできたことが無性に嬉しかった。次々と届く音を聞こえる端から歌うように声にした。自分で紡いでおきながら、それがあまりにも奇妙な調子だったので、可笑しくなってけらけら笑った。
『変わったおうたね。いったい何のおうたかしら?』
 微笑んで自分を見守っていた母に「あのね」と森を示してみせたこともよく覚えている。
 ──森の声が聞こえるの。今日の森はご機嫌なんだよ。
 そうしてまた呑気に歌い出した自分の頬を母の手が包んだ。いつもは温かな母の手が、その時ばかりは冷えていた。
『森の声が聞こえるなんて、軽々しく口にしては駄目よ。他の人が聞いたら驚いてしまうから。約束してちょうだい。もう二度と森の調子に合わせて歌わないって』
 自分を嗜める母の顔が青褪めていたので、どうして、とは尋ねられなかった。きょとんとしたまま頷くと、いつになく固く抱きしめられた。
 それ以来、森の声を口にしたことはない。風に誘われるまま口ずさみそうになる時はあるが、その度に幼い日の記憶が蘇った。
 母が動揺した理由も今なら理解できる。森の声はこの黒衣森を守る精霊の意志だ。森に暮らすシェーダー族にとって精霊は疎ましい存在で、だから余計な諍いを避けるために自分にそう約束させたのだと、今なら理解できた。もっとも、もう幼い頃ほど森の声も聞こえないけれど。
 風に乗って届く音はそれだけではない。遠くから楽器の音色が漂ってきて、アルテュリューはぱっと顔を輝かせた。その楽しげな音色にしばらく耳を傾けてから、弾むような足取りで駆け出す。
 森の中で遊んでいると、木立の向こうに白い綿毛のような姿を見かけることがある。小さな翼で空を舞い、陽気に楽器を奏でる彼ら。瞬きをする間に幻のように消えてしまう森の住人。
 闇雲に森を走り回っても彼らには決して出逢えないとアルテュリューは既に知っていた。その代わり、どこへ向かえば楽器の音色がよく聞こえるかも。

 しばらく走り、アルテュリューは小川に辿り着いた。集落からそう遠くない川で、ここなら水遊びをしても良いと大人に言われている場所だった。ただし、子供だけで絶対に川を越えてはいけないと。
 川には簡素な橋が渡してある。碌に手入れもされていない古びた橋だ。橋を越え、集落から小川までの距離と同じだけまた歩くとフォレスター族の営む果樹園に着く。アルテュリューの暮らす集落と果樹園の住人は昔から折り合いが悪かった。
 アルテュリューは周囲に誰もいないことを確かめると、ひとつ息を吸い、遠い楽器の音に合わせて歌い始めた。歌詞はない。彼らの旋律に合わせてそれらしく声を発するだけだ。
 演奏が一瞬、途絶えた。かと思うと、歌声に合わせるように再び奏でられ始める。応えてもらえたことが嬉しくて、アルテュリューは頬を紅潮させた。小躍りしたくなる気持ちを抑え高らかに歌い続ける。どこか調子が外れているのについ踊り出したくなるような彼らの音色は、薄暗い森をいつでも朗らかな空気で包んだ。
 そんな彼らに会いたくて──一緒に遊びたくて、森の中を探し回ったこともある。楽器の音色が間近に聞こえたこともあった。だというのに、いまだに出逢えた試しがない。
 それでもこうして歌声には応えてくれる。それが嬉しくて楽しくて、楽器の音を聞きつけると川辺まで走ってくるのが習慣になっていた。
 それに、とアルテュリューは聞き慣れた足音に歌を切った。気配の先に視線をやると、果樹園の方角から手を振りながら駆けてくる少女の姿が見えた。
「やっぱりアルテュリュー君だった」
 ──それに、ここに来れば友達に会える。
「ソフィお姉ちゃん」
 アルテュリューも破顔して手を振り返した。ソフィアヌは軽やかな足取りで橋を渡ってくる。踏まれた弾みに橋が軋んだ。
「誰か歌っているのが聞こえたから、きっとアルテュリュー君だと思ったの。今日は会えないと思ってたのに」
「お母さんが遊んできなさいって。ソフィお姉ちゃんは? 今日はお店のお手伝いはいいの?」
「もうすぐお客さんが来るから、しばらく外で遊んでおいでって、お父さんが」
 アルテュリューの両親と同じく、ソフィアヌの両親もまた商店を営んでいた。果樹園は大きな道からも鬼哭隊のキャンプからも近いから、その片隅で営まれる商店は近隣の者に重宝されているようだった。
 この川辺で偶然出会って以来、二人は秘密の友達だ。初めこそ大人の言いつけを守りお互いに無視をし合おうとしたが、共に兄弟のいない仲、遊び相手に飢えていた子供たちはすぐに打ち解けた。
 大人に知られれば叱られてしまうと分かっているから、会う約束も、お互いの家に迎えに行くこともない。運良く川辺で出会えたら一緒に遊ぶ、そんな関係がもう随分と長く続いていた。
「ねえ、さっきのは何のおうただったの?」
 間近に顔を覗き込まれ、アルテュリューは少し恥ずかしくなってしまう。陽射しを受けて輝く金茶の髪に柔らかな萌黄の瞳。ソフィアヌと一緒にいると、なぜか胸が高鳴る時があった。きっとノフィカ様がこの世にいらしたら、ソフィアヌのような姿をしているのだろうと、林檎の花のように可憐な少女を前に少年は思う。
「さっきのは楽器に合わせて歌ってただけ」
「楽器?」
 アルテュリューは森の奥へ耳を傾けてみせる。演奏は今も遠くから続いていた。
「ほら、ちょっとだけ聞こえるでしょう?」
 首を傾げながらソフィアヌも真似をした。しばらく耳を澄ませていたが、何も聞こえなかったのか、困惑した表情で見返してくる。
「もっとよく聞いてみて」
 笑いながら言われ、ソフィアヌは真剣な様子で目を瞑った。
「あれ? 本当だ、何か聞こえる。誰だろう、こんな森の中で」
 長い傾聴の末、ソフィアヌは驚いたように声を上げた。
「たぶんなんだけど、モーグリじゃないかなって」
「モーグリ? 本当に?」
 アルテュリューは頷いた。
「たまにね、白くてふわふわした生き物が森の奥に見えるんだ。空を飛んでて、それに玉みたいなのが頭から生えてて。だからモーグリかなって思ってるんだけど、違うかなあ?」
 ソフィは興奮した様子で手を合わせた。
「前に道士様と一緒にいたモーグリもそんな姿だったわ。すごい、こんな近くにいるなんて! ねえ、探しに行こうよ。私、モーグリとお友達になりたいわ」
 今にも駆け出しそうなソフィアヌの言葉にアルテュリューは肩を落とした。
「僕もそう思って何度も探したんだ。でも、一度も会えたことがなくて……」
「今日は会えるかもしれないよ。ね、行こうよ!」
 ソフィアヌは期待に頬を紅潮させていた。真っ直ぐに差し出された手にアルテュリューも笑顔になる。
「うん!」
 それから二人は手を取り合ってモーグリ探しに繰り出した。
 二人が森を駆け回る間、陽気な音色は遠のいては近づいてを繰り返したが、やはり彼らを見つけることはできなかった。


「どこまで行くの?」
 モーグリ探しを断念した二人は、アルテュリューの先導で次の遊び場を目指していた。道らしい道からは少し外れた森の中、すっかり知らない辺りまで来たソフィアヌは興味深そうに周囲を見渡している。
「もう着くよ。ほら、あそこ」
 アルテュリューが示した先には洞窟があった。深い森の中に弧を描いたような口がぱっくりと開いている。ここはアルテュリューのお気に入りの遊び場だった。洞窟内は地面が平らで過ごしやすいし、声がよく響いて面白いのだ。
 森の中にはこうした洞窟がいくつも点在していた。地下深くまで続いていそうな洞窟もあれば、子供の体格でようやく潜り込める程度の洞窟を見つけたこともある。きっと知らないだけで、まだまだ沢山の洞窟があちこちにあるのだろうな、とアルテュリューは思う。
「どうしたの?」
 ソフィアヌが急に立ち止まってしまったので、アルテュリューは首を傾げた。ソフィアヌはアルテュリューの手を握ったまま、首を竦めて洞窟を見ている。
「野盗が住んでいるかもしれないから、ああいう場所には絶対に近づいちゃ駄目だって、お父さんが……
 アルテュリューは目を瞬かせた。
「大丈夫だよ。よく来るけど、いつも僕しかいないよ」
「本当?」
 安心させるように頷いて手を引くと、ソフィアヌは恐る恐る歩き出した。洞窟の口まで来ると、アルテュリューの後ろから中の様子を窺う。誰もいないと分かるとようやく胸を撫で下ろした。
「こんなところがあったんだ」
「ここ、声が響いて面白いんだよ、ほら」
 アルテュリューは洞窟に向かって愉快そうに大声を出した。洞窟内に響き渡る声にソフィアヌは悲鳴を上げてしゃがみ込む。その悲鳴まで木霊して、ソフィアヌは怯えて耳を塞いだ。
 アルテュリューは慌ててソフィアヌの横に膝を折った。
「ご、ごめんね。怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
 残響が消えるとソフィアヌはようやく顔を上げた。
「びっくりしたよお」
 瞳に涙を滲ませるソフィアヌにアルテュリューは決まりが悪くなってしまう。洞窟に潜り込んでいくのは集落の子供にとって定番の遊びだったから、こんなに怖がられるとは露ほども思わなかったのだ。
 ソフィアヌは何度も深呼吸をすると、顔を赤らめながら立ち上がった。
「べ、別に怖かったんじゃないよ? ちょっとびっくりしただけだもん。ほら、こっちでおしゃべりしよ」
「う、うん」
 ぐいぐいと背中を押され、辛うじて洞穴の口と言える場所に二人は並んで腰を下ろした。
 ソフィアヌが落ち着きを取り戻すと、二人は何くれとなく喋り合った。ほとんどはソフィアヌの話に耳を傾けているだけだったが、アルテュリューは彼女の話を聞くのが好きだった。彼女の父が営む商店での出来事、果樹園での日々の出来事、そしてグリダニアでの出来事
──それでね、この間グリダニアに連れて行ってもらった時、ちょうどお祭りをやっていたの。音楽堂で演奏会もあって、歌の披露もあったのよ」
「お祭りかあ、いいなあ」
 集落を離れたことがないアルテュリューにとって、ソフィアヌから聞くグリダニアでの出来事は何もかもが新鮮だった。集落では祝い事すら滅多にないから、賑やかな話題は聞くだけで羨ましくなってしまう。
 街のお祭りともなればきっと沢山の人で賑わうのだろう。グリダニアの子供たちは友達同士で遊びに繰り出すのだろうか。お祭りだから少しだけおめかしをして、どこかで待ち合わせでもして。もしかしたら親に少しだけお小遣いを握らされて、甘いお菓子でも買うのかもしれない。友達と一緒に楽しむお祭りはきっと格別だろう。
 遠い世界に思いを馳せながら、アルテュリューはソフィアヌと表立って遊べないことを少しだけ残念に思った。
「でもね、演奏会のおうたもとっても素敵だったんだけど、アルテュリュー君のほうがもっと上手だなって思ったの」
「ええっ?」
 思いもよらない言葉にアルテュリューは赤くなった。
「そ、そんなことないよ。だって街の人ならきっと、歌の先生に教わっていたりするんでしょう?」
「そうかもしれないけど、アルテュリュー君の歌声のほうが好きだなって。アルテュリュー君がよく歌ってくれていた歌だったからかな?」
 ああ、とアルテュリューは得心して頷いた。どの歌のことかすぐに分かった。母が幼い頃によく聞かせてくれたグリダニアの歌のことだろう。母が若い頃にグリダニアで流行っていた歌とかで、何度も聞くうちにアルテュリューも自然と覚えた歌だった。
 アルテュリューは母の美しく澄んだ歌声が好きだった。否、今も好きだ。きっと父も好きだろう。母の歌声は家族の癒しであり、慰みであり、喜びだった。グリダニアから嫁いできた母は、幼い自分にグリダニアの歌を色々と聞かせてくれたものだ。叔母に嫌味を言われて以来、滅多に歌わなくなってしまったけれど。
 だからアルテュリューの知っている歌といえば、母が好んだグリダニアの歌か、祖母が口ずさむ古い歌ぐらいのものだった。
「ねえねえ、また聞かせてくれる?」
「う、うん。いいよ」
 歌をねだられ、アルテュリューは少し照れ臭くなる。母を真似て歌っているだけだから、舞台に立つような人と比べられてしまうと恥ずかしいけれど、聞いてくれる人がいるなら嬉しかった。アルテュリューは冥く深い森に向かって伸びやかに歌う。
 しばらくして川辺まで戻った二人は、またね、と手を振り合って別れた。

 


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