嵐と共に去りぬ

 ウルダハでの興行を全て終えた夕暮れ時。
 アルテュールは買ったばかりの本を手に街の外をぷらぷらと散策していた。
 明朝には黒衣森方面へと発つ。出発前に息抜きをしたくて、適当な岩場を見つけると腰を下ろした。うんと伸びをし、大きく息をつく。今回の興行も粗相なく終えられてほっとしていた。
 一座に加わって三年。観客の前で歌を披露することにもすっかり慣れた。緊張がないと言えば嘘になるが、自分の歌で人の心が動く様を目の当たりにできるのだから歌い甲斐がある。森の奥で誰の邪魔にもならないよう、ひっそりと歌っていた頃が今となっては懐かしく感じられた。
 アルテュールは暮れ行く空をぽかんと見上げる。肌を焼き、直視できないほど強烈な日差しもこの時刻になれば和らぐ。アルテュールは空を眺めるのが好きだった。黒衣森を抜けて初めて見た、どこまでも広がる青い空。森に切り取られることなく広がる空に心を惹き込まれたあの日の感動は、いまでもよく覚えていた。
「あるてゅる、あるてゅる」
 しばらく何を思うでもなくぼんやりと空を眺めていたアルテュールは、聞き馴染みのある声に振り返った。
「トトルン、どうしたの」
 ほたほたと手を振りながら歩いてくるトトルンの姿を認め立ち上がった。
 トトルンはアルテュールのそばまでやってくると、首を傾げている少年の眼前に財布を掲げてみせる。
「これ、あるてゅるのっちゃ?」
「え、あれ!?」
 アルテュールは慌てて鞄を漁った。トトルンは財布の紐を指に引っ掛けて回しながら、その様子を面白そうに見守っている。
「全然気がつかなかった……。いつ落としたんだろう」
「落としたんじゃないっちゃ。盗られたっちゃ」
「へ?」
 トトルンは髭をそよがせた。
「油断したっちゃ? ウルダハはスリも多いから気をつけろって、トトルン、前にも言ってやったっちゃ?」
 アルテュールは天を仰いだ。
「ごめん……油断してた……
 砂都での仕事を全て終え気が緩んでいたのは否めない。新しい本を手に入れて気持ちが浮き立っていた部分もある。大都会の雑踏に慣れた気になっていたのも事実だ。
 礼を言って財布を受け取り、鞄の奥深くにしまおうとしてアルテュールは手を止めた。
「あれ、この財布どうやって」
 取り返したの、と首を傾げたアルテュールにトトルンは肩を竦める。
「あるてゅるから盗った奴、ど素人っちゃ。気づかないあるてゅるも不用心っちゃ。でも上手く盗ったと思ってすっかり油断してたっちゃ。だから盗り返すの簡単だったっちゃ」
「え、あ、ありがとう……?」
 アルテュールは目を瞬かせた。
 スリ返してきたのだという事実を上手く飲み込めずにいる少年にトトルンは少しも悪びれずに言う。
「トトルン、若い頃はスリで生きてたっちゃ。だからこのくらい朝飯前っちゃ」
 ますます言葉に詰まってしまった少年の腕を叩いて座らせると、トトルンもその横に並んで座り込んだ。
「もうやってないから心配いらんっちゃ。一座で盗みは御法度っちゃ。でも、二人だけの秘密にしてほしいっちゃ?」
「う、うん」
 唇に指を当てながら笑うので、アルテュールは困惑しながらも頷いた。
 ぷらぷらと足を揺らしながら呑気そうに空を眺めるトトルンの横顔を何度も盗み見てから、
「なんで盗人なんてしてたの?」
 アルテュールは恐る恐る口を開いた。
「それが一番楽に稼げたからっちゃ。特に理由なんてないっちゃ」
「ええ……
 あっけらかんと言われアルテュールは呆れてしまう。
 スリ師としての過去はともかく、一瞬でもトトルンに対して気まずさを感じたことが馬鹿馬鹿しくなった。そういえばトトルンは、誰に何を言われようといつだってどこ吹く風だと、改めて思い至る。
 げんなりした少年の様子が可笑しかったのか、トトルンはきゅるきゅると独特な声で笑った。
「懐かしいっちゃ。いつもみたいに目をつけた奴からちゃりちゃりを盗ろうとしたら失敗したっちゃ。もちろんその場で捕まってボコボコにされたっちゃ。それで盗みは辞めたっちゃ。あんな痛い思い、もう二度とごめんっちゃ」
「もう絶対にダメだよ」
 食い気味に言われ、トトルンは青く円い瞳を悪戯っぽく細めながら少年の顔を覗き込んだ。
「でも今日はそのおかげで助かったっちゃ?」
「うぐ、それは、うん……
 そう言われると反論できず、アルテュールは口籠もってしまう。
「手癖ってやつっちゃ? 大昔のことなのに、意外と身体は覚えてたっちゃ。トトルン、自分でもちょっと意外だったっちゃ。いつの間にか軽業師をやってるほうが長くなったのにっちゃ」
「軽業師になってどのくらいなの?」
 トトルンは大ベテランなのだ、とは他の座員から聞いていたが、思えば本人から詳しい話を聞いたことがない。なにしろトトルンと話をしていても冗談ばかりで、なにが本当のことか分からないので。
「二十年くらいっちゃ。食い繋ぐ為に適当に始めたっちゃ。けど今じゃ気に入ってるっちゃ。なんでもやり込んでみるものっちゃ」
 でも、とトトルンは黄昏空を見上げて髭をそよがせた。
「トトルンもさすがに爺っちゃ。最近、軽業中にヒヤッとすること増えたっちゃ。そろそろ引退の時期かもっちゃ」
「トトルン、おじいさんなの?」
 アルテュールはきょとんとする。目を丸くしている少年にトトルンも首を傾げた。
「知らんかったっちゃ? 二十五にもなればキキルン族の中じゃ爺っちゃ。そろそろくたばってもおかしくない歳っちゃ?」
 あまりにも他人事のように言うので、アルテュールは慌ててトトルンの手を握った。
「や、やだよ。トトルン辞めないで。もっと長生きして、またナイフ投げとか教えてよ」
 必死になる少年にトトルンは頬をふっくらと膨らませた。
「そうっちゃね。できれば生涯現役でいたいものっちゃ」
 それから二人は暮れ行く荒野で他愛のない会話を楽しんだ。
 トトルンが昔はウルダハに住んでいたこと。今の一座に落ち着く前はいくつかの一座を転々としてきたこと。ゆで卵は固茹で派であること。アルテュールが買った新しい本のこと。師匠から出されている課題のこと。小さい頃は集落の近くに点在する鍾乳洞が遊び場だったこと。そこで歌うとよく声が響いて面白かったこと……。
「俺ももっと練習したら披露できるようになるかな?」
 トトルンに借りた曲芸用のナイフを慎重に投げたり取ったりしながらアルテュールは考えるように言う。そうすれば、トトルンの体が辛い時に代われるかもしれないと、ふとそんな考えが頭を過ぎった。
「あるてゅるの仕事、歌うことっちゃ。そっちを磨いたほうがいいっちゃ。ああ、でも歌いながら軽業やるのも面白そうっちゃ?」
「できるかなあ? 今度練習してみようよ」
「試してみるっちゃ」
 二人は顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
 風が冷え込み始めると、二人はしばらく座り込んでいた岩場を後にした。眼前に広がる山のように高いウルダハの城壁を見上げながらアルテュールはぼやく。
「あーあ、トトルンもウルダハに入れたらいいのに。そしたら盛り上がるだろうな」
 獣人排斥令が邪魔をして、トトルンはウルダハに──郷里であるにもかかわらず──入ることができない。
「いいっちゃ。皆がウルダハにいる間はトトルン、昔の知り合いに会ったりできるっちゃ」
「そうかもしれないけどさー」
 一座がウルダハに逗留する間、城壁の外で一人逞しく大道芸を繰り広げて稼いでいるようだが、アルテュールは砂都の目抜き通りで観客を沸かすトトルンの姿を思い描かずにはいられなかった。その分、興行前に鳴き叫んで暴れるトトルンを皆で丸洗いする──トトルンは水に濡れるのが大嫌いだった──苦行も増えてしまうが。
 なんとかトトルンの芸を砂都内で披露する方法がないものかぶつくさと考えていたアルテュールは、はたと足を止めた。
「あれ、俺の財布どこで取り返してくれたんだっけ……?」
「ウルダハっちゃ?」
 けろりとした顔で言われ、アルテュールは唸りたい気持ちで再び天を仰いだ。
「意外と気づかれんっちゃ? 後ろ姿だけならララフェル族と似てるっちゃ。なにか言われても金握らせとけば大体の奴は黙るっちゃ」
「もー、トトルンは。捕まったらどうするの。危ないってば」
 アルテュールの小言など意に介さずトトルンはきゅるきゅると笑うのだった。 

 翌早朝、一座は黒衣森を目指して旅を再開した。砂埃の舞う荒野の街道を一座のキャリッジが連なって行く。
 旅は順調だった。そもそもが旅慣れた者同士の集いだ。街から街への巡業暮らし、通い慣れた街道沿いの旅とあって、キャリッジは軽快に次の宿場まで進んでいく。一人トトルンだけが、ウルダハを発ってから神経質そうに空を見上げては髭を引き攣らせていた。

 「大嵐が来る」とトトルンが騒ぎ始めたのは次の宿場に着いてからだった。
 トトルンの予想は必ず当たる。これまでもトトルンの直感で何度も嵐の被害を免れてきたから、嵐が去るまで宿場に逗留するという座長の号令に反対する者は一人もいなかった。
 直に雨が降り始めた。荒野を焼く太陽は姿を隠し、雨は大地を削り取る勢いで降り始めた。風が吹き荒れ、視界が僅かばかりになる大雨だ。ザナラーンでこれほどの悪天候に見舞われるのは初めての経験で、アルテュールは荒野の豹変ぶりに空恐ろしくなる。
 それよりも恐ろしいのはトトルンだった。嵐の前にトトルンが大騒ぎをするのはいつものこと。しかし、この日ばかりは一座の古参も困惑するほどの狂乱ぶりだった。
 鳴き、叫び、地団駄を踏む。誰が宥めても怒鳴っても落ち着かず、尋常ではない形相で鳴き続けるトトルンの様子に年若い座員やアルテュールは堪らず怯えてしまう。
 その声も次第に暴雨にかき消されていき、いよいよ聞こえなくなると安堵してしまうのだった。

 翌朝の嵐が去った空は清々しいほど美しく澄み渡っていた。
 近隣では土砂崩れが発生したらしく一座は足止めを余儀なくされたが、巻き込まれなかっただけ幸運と捉え、動けるようになるまでここでひと稼ぎしていこうと提案する者もいた。
 さてどうしたものかと寄り合う大人たちに頼まれ、いつまでも寝床から出てこないトトルンを起こしにきたアルテュールが見つけたのは、横たわる冷たい骸だった。
 昨晩の形相が嘘のように安らかな、ただ眠っているような顔の。

 


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アルテュールが旅芸人の一座にいた時の短いおはなし。第六星暦末期ぐらい。

元盗人、現大道芸人のトトルン。だいぶ流暢に共通語を話すキキルン。
いつだって冗談ばっかりな言動だけど、最後の最後まで皆を嵐から守り切って天寿を全うする。そんなおはなし。

前から大道芸人やってるキキルン族を書いてみたいなあと思っていたのですが、やっとなんとか文字にできました。
書いてるうちに可愛くなってきたからもっと書きたい。でもキキルン族の動きをなんて表現したらいいのか分からないよ〜〜〜〜!

今回は楽俊(十二国記)をかなり参考に……させてもらいました……!!

獣人排斥令については世界設定本の記述的に例外もあるみたいだけど、結局よく分からず完全に出入り禁止ということで書いてみました。

いつかアルテュールが森を出るところからちゃんと書いてがっちゃんこしたい。一億年くらいかかりそう。