追慕
懐かしい夢を見た。もう叶わない遠く愛しい夢を。
少女にも故郷があり、父母があった。
少女はいつでも父の帰郷を心待ちにしていた。遠くの地へ出た父が両手いっぱいの土産話を抱えて帰郷するのを、母と二人で今日か明日かと待っていた。
父が枕辺に聞かせてくれる旅の話が少女は好きだった。夢現の耳に届く父母の声が心地よかった。家族が揃う日の夜は、いつも満ち足りていた。
少女はいまでも覚えている。自分を抱き上げて遊んでくれる父の手のぬくもりも、感触も、父娘が戯れる姿を見て微笑む母の穏やかな顔も。
そして父が交わしてくれた約束も。少女は生涯、忘れないだろう。
ヴァヴァロは見慣れぬ天井に瞬きをした。
どこの宿だったかな、と靄がかかった頭で考える。どうやらグリダニア様式の家屋のようだが、昨日は街で宿を取っただろうか。
しばらくぼんやりと考えを巡らせ、やがてここが我が家であることを思い出した。
「……おうち……」
身体を起こし顔をごしごしと擦る。ようやく視界が晴れてきて、ヴァヴァロは部屋を見渡した。
自分に割り当てられた私室だった。身体に掛かっている寝具や運び込まれた家具、床や壁に至るまで、なにもかもが手擦れひとつなく真新しい。
旅人の荷物は多くない。備えられた家具は旅暮らしだった者には立派すぎるほどで、少し荷物を移した程度では、却って部屋のがらんとした雰囲気を際立てていた。
ヴァヴァロは鎧戸のついた窓を開け放った。なにを期待していたわけでもないのに、窓の外に広がる緑豊かな景色に目が覚める。ラベンダーベッドの清涼な空気がぽっかりと空いた胸の穴を撫でた。
「……起きよっと」
「おっはよーっ」
ヴァヴァロが元気よく居間に飛び込むと、ファロロが読みかけの本から顔を上げた。
「あら、起きたの。遅かったじゃない」
「みんなは?」
「ノギヤとミックなら外。アンリオーさんとエミリアなら部屋じゃないかしら。アルテュールとイェンはまだ起きてこないわね」
「そんなに寝坊しちゃいました?」
早起きしたと思ったんだけどな、とヴァヴァロは目をぱちくりさせた。壁掛け時計を見上げると、確かに時刻は朝でもなく昼でもない微妙な頃合いだ。
決まり悪そうに頭を掻く妹分にファロロはくすくすと笑った。
「みんな新しいベッドに慣れなくて早く目が覚めちゃったみたいよ。ぐっすり眠れたのなら良いことだわ」
「えへへ……」
座るように促され、ヴァヴァロは大人しく椅子に乗り上げた。ファロロがコップに湯冷しを注いでくれる。
「おはよーさん」
寝起きの喉を潤していると、ヴァヴァロに遅れて居間に顔を出す者がいた。
「あら、噂をすればね」
「遅いよーアルテュール。お寝坊さんだよ」
隣に座ったアルテュールに澄ました顔で言う。ひとつ欠伸をしたアルテュールはまだ眠たげな顔で「そりゃ変だな」と笑った。
「ヴァヴァロの足音で起きたと思ったんだけどなぁ」
「ふーん、気のせいじゃない?」
ヴァヴァロは素知らぬ顔でコップを口に運んだ。アルテュールの部屋はヴァヴァロの部屋の真下だった。
他愛のない掛け合いをする二人にくすりと笑い、ファロロは椅子から降りた。
「そろそろご飯にしようかしら。食べられる?」
「やったっ」
「いただきます」
折り目正しく座り直した二人に手を振ってファロロは台所に立った。
ともしび邸と名付けられたこの家にヴァヴァロたちが暮らし始めたのはわずか三日前のことだ。
土地の購入と家屋の建築費用を捻出するため、まとまった額になりそうな金品を各々に出し合い、さらにイェンが所有するコレクションの売却額も見積もったが、それでも目標の額には届かなかった。
自分たちの拠点を手に入れるなどやはり夢のまた夢──と一度は諦めかけたが、ミックが偶然にも海で釣り上げた宝の地図が、いまでも信じがたいことに本当に財宝の在処を示す地図だった。
そうして、てんやわんやの大騒ぎの末に財宝を獲得した一行はありったけを換金し、不足分は私財を投げ打ち掻き集め、自分たちだけの拠点を、家を得たのだった。
その家が完成し、皆で越してきたのが三日前。家具からちょっとした小物まで全てが新品で、旅暮らし、宿暮らしに慣れた者たちにはどこかくすぐったかった。
それでもここは間違いなくヴァヴァロたちだけの家だった。たとえ旅と戦いに疲れ果てようと、ここに戻れば安堵して身体を休めることができる。待っていてくれる人々がいる。その事実が大きな戦いを潜り抜けてきた皆をなによりも喜ばせた。
ヴァヴァロはダイニングテーブルを撫でた。ウォルナット材で作られたテーブルは深みのある黒に近い茶色をしていて、木目がいかにも美しかった。表面は傷ひとつなく滑らかで、まだ自分たちの物だという実感が薄い。せっかくの家具に傷がつかないようお行儀よく過ごそう、とヴァヴァロは小さく心に誓った。
何気なしにテーブルを撫で続けていたヴァヴァロはふと手を止めた。わずかに動いた指先がカリ、とテーブルに音を引く。
「どうした?」
不意に口を噤んでしまったヴァヴァロにアルテュールは怪訝な顔をする。ヴァヴァロは慌てて笑顔を作る。
「ううん、お腹すいたなーと思って」
アルテュールが口を開くよりも先に呑気な声が居間に届いた。
「あ、ごはんにするところ? アタシの分もあるー?」
ノギヤが居間にひょっこりと姿を現した。どこかで水浴びでもしてきたのか、髪は水分を含んだままだ。
「はいはい。みんなの分ちゃーんと作るから、大人しく座っててちょうだい。ミックは一緒じゃなかったの?」
台所からファロロが顔を覗かせる。
まだ暮らし始めたばかりで様々なことが手探りだが、当面の間、食事は当番制ということになっている。今日の当番はファロロだった。
「もうひとっ走りしてくるってさー」
「朝から元気だな……」
アルテュールが半ば感心したように言う。
「あたしも一緒に行きたかったな。今日はなんだか寝坊しちゃって」
「珍しいね、いつも朝は一番なのに」
笑いながら言われヴァヴァロは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「おうちのことが落ち着いてきたから、気が抜けちゃったのかも」
「家具動かしたり買い出しに行ったり、忙しなかったもんね。アタシも昨日はすとんと寝ちゃったよ」
アルテュールが考えるように腕を組んだ。
「あとはなにが足りてねえかな。今日も買い出しに行かないとかね」
「暮らしながらちょっとずつ揃えてくしかないんじゃない。ずっと家にいるわけにもいかないし」
ノギヤの言葉にアルテュールは肩を落とす。
「家は持てても食い扶持を稼ぐのは別か。お宝掘り当てても、現実は甘くねえなあ」
「またあんな幸運に恵まれてみたいねぇ」
煌びやかな体験を思い返しながらノギヤは頬杖をついた。
「まったくな。お宝で一攫千金なんていかにも冒険者らしい経験、あれが初めてだよ。狙えるもんならまた狙ってみてえもんだな。なあ、ヴァヴァロ」
話を振られ、ヴァヴァロは一瞬、言葉に詰まる。
「う、うん。でもやっぱり、地道にコツコツが一番じゃない?」
「あれぇ、ヴァヴァロ、いつからそんな堅実派に?」
ノギヤにニヤニヤと顔を覗き込まれ、ヴァヴァロはもっともらしい顔つきで視線を宙にやった。
「あんな運の良い出来事、早々あるものじゃないし。あんまり欲張りしてるとしっぺ返しがありそうだもん」
「お、遠回しに人を欲の皮が突っ張った人間扱いしたな?」
「わー! 違う違う!」
伸びてきた灰色の手から逃れようとヴァヴァロが身体を折って反らしてとする光景にノギヤは声を立てて笑う。
「あ、いい匂い。もしかしてクランペット?」
和やかな食卓にふわりと甘い香りが届いた。いち早くその香りを嗅ぎつけたノギヤが嬉しそうに台所を覗きに行く。
「そうよ。運ぶのを手伝ってくれる?」
子どものような目で完成を待っているノギヤに笑い、ファロロは焼き上がったクランペットを皿へ移す。そこに目玉焼きとソーセージを添えて完成のようだった。
ヴァヴァロとアルテュールも手伝いに加わり、食事の支度を整えた四人は改めて食卓についた。
「んーっ。やっぱファロロのクランペットはおいしー!」
黒衣森では貴重なバターと地元産の蜂蜜をたっぷりかけたクランペットにノギヤはご満悦な様子だった。アルテュールも顔を綻ばせる。
「朝から幸せな食卓だな」
「おいしいです、ファロロさん」
大人しく食事を始めていたヴァヴァロも思い出したように述べた。事実、バターと蜂蜜の染みたクランペットはヴァヴァロの記憶の中で最も美味だった。
「そう? よかったわ。ムントゥイ豆乳もどう?」
「いただきます」
空になったコップを差し出すと、ファロロがムントゥイ豆乳をいっぱいに注いでくれる。
「俺はいいよ」
同じように勧められたアルテュールが遠慮するのでヴァヴァロは首を傾げた。
「ムントゥイ豆乳キライなの?」
「そういうわけじゃねーけど、飲むとなーんか背が縮みそうな気がするんだよな」
「なにそれ」
根拠不明の理屈にヴァヴァロはきょとんとした。
「ガキの頃に散々飲まされて飽き飽きしてるってコト」
ファロロは腰に手を当てた。
「この辺りで手に入れやすい食材の代表格だもの。ラベンダーベッドで暮らしていく以上、ムントゥイ豆からは逃げられないわよ」
「へーい。わかってますよ」
何や彼やと賑やかに食事をしていると、朝の運動を終えたミックが帰宅した。私室で衣服を整えて戻ってきたミックは、ノギヤやヴァヴァロのコップに注がれた飲料にそばかすの散った顔をぱっと輝かせた。
「あ、ムントゥイ豆乳じゃないですか!」
「ミックはムントゥイ豆乳、好き?」
もちろん、と食卓につきながらミックは嬉しそうに笑う。
「黒衣森に戻ってきたらまずはこれを飲まないと」
「だってよ?」
ノギヤが面白そうにアルテュールの顔を覗き込んだ。
「えっ。アルテュールさん、ムントゥイ豆乳ダメなんですか!? 黒衣森の人ですよね!?」
驚愕で目を丸くするミックにアルテュールは辟易した表情を浮かべる。
「ミックはよく飽きないな……」
「なに言ってるんですか。黒衣森の人間の身体はムントゥイ豆でできてるんですよ!? ムントゥイ豆がダメならアルテュールさん、なにを食べて育ったんですか!?」
「だからな、好き嫌いが云々じゃなくて」
詰め寄る勢いのミックにアルテュールが嘆く。
「まーでも確かに、グリダニア料理ってなんでもムントゥイソース味のムントゥイ豆まみれな印象はあるなー。アルテュールの気持ち、ちょっと分かるかも」
「だろ?」
ちびちびとムントゥイ豆乳を飲むノギヤの言葉にミックは前のめりになった。
「そのムントゥイソースが美味しいんじゃないですか。ムントゥイソースで素材の美味しさを引き出すんですよ」
「ミックがそんなにムントゥイ豆好きだなんて思わなかったわ」
追加の皿を運んできたファロロが苦笑した。ミックは誇らしげに胸を張る。
「そりゃあ、故郷の味ですからね。やっぱり心と身体にすーっと沁みるというか」
グリダニア料理について議論めいたものを交わすミックたちをよそに、ヴァヴァロは黙々と料理を口に放り込んでいった。最後の一口を飲み込むと早々に席を立つ。
「ごちそうさまでした。あたし、ちょっとお散歩してきます」
「はいはい、行ってらっしゃい」
空いた食器を台所に下げ、「行ってきます」と告げると家を後にする。
その小さな背を見送ってアルテュールは眉を顰めた。
「ヴァヴァロのやつ、なんか元気なくねーか」
食卓を囲んでいた面々は顔を見合わせた。
「疲れが残ってるのかなーとは思ったけど、様子、変だった?」
ノギヤが首を捻るとファロロも同調するように頷いた。
「居間に降りてきた時は元気そうだったわよ」
ミックも困惑した様子で頷いた。そうか、と呟いてアルテュールは立ち上がる。
「ま、いいや。ごちそーさん。俺も外の空気吸ってくるわ」
柔らかな陽射しに包まれたラベンダーベッドの景色を眺めやり、アルテュールはひとつ深呼吸をした。ここの空は黒衣森にしては広くて良い。今日のような青空が広がっていると素直に気持ちが良いと思えた。かつて森で暮らしていた頃に感じた陰鬱さはなく、空気は清く澄んでいる。
そう感じるのは、居住区内に住む者がまだ少ないからかもしれない。買い手がついていない土地もそれなりに残っており、建築中の家屋も多かった。いずれ居住者が増えればまた違った風が吹き込むだろう。自身は活気のある場所を好むから、ラベンダーベッドにも賑わいが舞い込めば尚のこと良い、とアルテュールは思い回す。もっとも、この土地を好んで居を構える人々が求めるものとは異なるだろうが。
アルテュールは庭門を越え、道をどちらに進むか頭を掻いた。見渡せる範囲に小さな姿は見えない。
適当に歩き出そうとし、わずかな衣摺れの音を聞き咎めて足を止めた。自分でも辟易するほど恵まれた聴力は予想外にも身近な場所に反応した。
アルテュールは庭を振り返る。敷地内に音の主の姿はなかった。広くはない庭を少し歩き回り、茅葺塀の向こうに気配を感じ取った。塀の向こうをそっと覗き込んでも探している小さな姿は見えなかったが、整形された敷地を一段下がった川の畔に人の気配がある。
「ヴァヴァロ」
呼びかけると、草根を揺らす音をさせ、段差の影から驚いたようにヴァヴァロが姿を現した。
「どうしたの?」
「俺もそっち行っていいかな」
目を丸くしたまま頷かれ、アルテュールは塀を跨ぐと軽い足取りで段差を下った。ヴァヴァロの背丈ではすっかり隠れてしまい、アルテュールが立てば腰丈ほどの段差だった。川と岸壁に囲まれた三角地で、座ってしまえば庭からの視線も気にならず、川のせせらぎが耳に心地良い空間だった。
「へえ、いい場所じゃないか、ひっそりしてて」
「塀が建つ前とは雰囲気が違うでしょ? 昨日気がついたんだ」
庭木の落とす影がこの隠れ家をいっそう静謐な空気で包み込んでいた。振り仰げば間近に自宅の屋根も見え、向こう岸には他所の家もあるというのに、するりと世俗から抜け出したような不思議な場所だった。
笑って言ったヴァヴァロはまたそれきり口を噤んでしまう。口元に笑みを浮かべてはいるが、瞳はどこかぼんやりと景色を映しているだけのようだった。
「あんま元気ねえみてえだけど、なんか嫌な夢でもみたか」
しばらく清流に耳を傾けていたアルテュールは率直に尋ねる。ヴァヴァロは虚をつかれたように顔を上げた。
「そんなこと」
否定の言葉は深切な瞳を前に霧散した。
「……どうして分かったの?」
「んなもん、声聞きゃわかる」
おずおずと尋ねるヴァヴァロに素っ気なく答えた。
ヴァヴァロは口ごもって視線を川面に落とした。思案するように指先をつつき合わせたり握り込んだりしている。アルテュールも少女から視線を外し、彼女が話す気になるのを静かに待った。
「昔の夢をみたの。お父さんとお母さんが生きてた頃の夢」
やがて口を開いた少女は隣の男を見上げ、苦笑するように眉尻を下げた。
「子どもの頃はね、ザナラーンで暮らしてたの。ちっちゃなおうちで、いまのおうちと比べたらボロだったんだけど、夢にみたらなんだか懐かしくなっちゃって」
努めて明るく話そうとする声には日頃の溢れんばかりの精彩がない。自分はもう大人だ、と日々なにかにつけて主張する少女が見せた寂寞とした面差しは、皮肉にも今の彼女を幾ばくか臈長けてみせていた。
「親父さんとお袋さんも冒険者だったんだっけ」
アルテュールが尋ねるとヴァヴァロは頷いた。
「お父さんはね。お母さんは幻術が得意だったの。冒険者になりたかったわけじゃなくて、幻術の腕を見込んだお父さんが、一緒に旅をしないかって誘ったんだって」
「もともとは街の人だった?」
ヴァヴァロは頭を振る。
「お母さん、あんまり昔のことは話してくれなかったけど、もともと旅暮らしだったみたい。身寄りもいないって言ってたし、お母さんの故郷がどこなのかって実はちゃんとは知らないんだ。もしかしたら、天涯孤独ってやつだったのかなーって」
「……なるほどな」
ヴァヴァロの容貌はその髪も、瞳の色も、彼女の祖父によく似ていた。つまるところ、父親に似ているのだろう。少女の母親がどのような女性だったのかは知れないが、少女が不意にみせた表情にその面影を感じ取れるような気がした。
「あたしが生まれてからはね、お父さんが稼ぎに出て、あたしとお母さんはいつもおうちで待ってたの。村のお店を手伝ったり、畑を耕したりしながらね。お母さん、村の人の怪我や病気を幻術で治療してあげたりもしてたな」
「へえ」
ヴァヴァロは大きく空を見上げて笑った。
「あたし、お父さんのことが大好きなんだ。優しくて強くて、色んなこと知ってて、それに背がすごく高かった」
そう語る少女の声は底抜けに晴々としていた。
アルテュールは明瞭な言葉に微苦笑する。少女が亡き父をこの上なく慕っていることは日頃の会話の端々から十二分に伝わってきていたが、その想いはいかなる時であろうと決して揺るがないようだ。
「お父さんが帰ってくるのをいつも楽しみに待ってたの。旅の話を聞かせてもらったり、おうちの周りで冒険ごっこをしてもらうのがすごく楽しみで。お父さんが帰ってくるとおうちが賑やかになるから楽しかった」
ヴァヴァロは懐かしむように目を伏せる。
「でもしばらくするとまた稼ぎに出ちゃうから、お父さんが出発する度にたくさん泣いてさ。あたしも一緒に冒険に行きたいっていっつも駄々こねてたんだけど、そのたびにお父さん、あたしが大人になったらお母さんと三人で冒険の旅をしようって言ってくれて」
「そっか……」
──それでか、とアルテュールは内心で得心が行った。
彼女がやけに大人ぶろうとするのを、年頃の少女にありがちな背伸びなのだと思っていた。大人に憧れる少女のおませなのだと。だが、そう単純なものではなかったようだ。少女が必死に手を伸ばしていたのは在りし日の父との約束なのだと、初めて理解した。
「あ、お父さん、ちゃんと本気で言ってくれてたんだよ? 野宿の仕方とか弓の扱い方とか、帰ってくるたびに色々教えてくれてたんだから」
「疑っちゃいねーよ」
ヴァヴァロが力一杯に言い添えるので、アルテュールは思わず吹き出してしまう。
「結局、叶わなかったんだけどね。……ガレマール帝国と戦争になるかもしれないからって、お母さんと二人で遠くに行くように言われたの。海の向こうにお父さんの故郷があるから、争いが落ち着くまでそっちで暮らしなさいって、リムサ・ロミンサの港から見送られて……。……お父さんと会ったのは、それが最後」
少女は膝を抱えた。膜が張った宝石のように青い瞳は遠く過去を見つめている。
「お母さんと二人でおじいちゃんちに身を寄せて、一年とか、もうちょっと経った頃かな。お父さんの仲間だった人が訪ねてきて、お父さんはカルテノー平原で帝国軍と戦って死んじゃったんだって、報せを届けにきてくれたの。遺品と一緒に」
抱えた膝に額を寄せ、少女は小さく息を漏らした。
「お母さん、すごく辛かったんだろうな。お父さんの訃報を聞いてから、どんどん身体が弱くなっちゃって。……お父さんの後を追うみたいに死んじゃった。あたしがいるから、くよくよしてる暇はないってよく笑ってたんだけど」
伴侶を亡くした母は見る間に痩せ細ってしまった。祖父が栄養だけはしっかり摂るよう再三勧めても、食事は母の喉を通らなかった。ヴァヴァロは覚えている。自分を抱きしめてくれる、痛ましいほど細くなった母の腕を。そして懸命に自身を鼓舞しようとする姿も。
だが、ヴァヴァロにとって父がかけがえのない存在であったように、母にとっても父は魂の片割れだったのだろう。母の気力はぷっつりと切れ、そのまま玉の緒までもが千切れてしまった。
母を亡くしたばかりの頃は酷く泣いて荒れたものだ。そばで支えてくれる祖父がいたというのに、この世にただ独り残されてしまったのだと慟哭した。母にとって自分は取るに足らない存在だったのかと嘆いたこともある。心労が重なり身体を弱くした母が、運悪く病に冒されてしまっただけの、不運な出来事だったと分かってはいても。
「ごめん、辛気臭い話しちゃった。色々思い出しちゃって」
ヴァヴァロは慌てて目を瞬かせた。思い出すと今でも胸が痛い。父母を亡くした記憶はいまだ生々しく心に残っていた。
「……たまにはじいさんに甘えたらどうだ。心細い時に頼ってもらえなかったら、じいさん寂しいと思うぞ」
「おじいちゃんには言えないよ。お父さんとお母さんが恋しいなんて言ったら、心配かけちゃう」
静かに苦笑する横顔をしばし見つめ、アルテュールは唐突にヴァヴァロを膝の上に抱き上げた。
「な、なになに」
突然、頭をアルテュールの胸に強引に押し付けられ、ヴァヴァロは目を白黒させる。
「子どもなんだから、寂しい時は甘えときゃいーんだよ。バカだな、意地張って」
アルテュールはガシガシとヴァヴァロの頭を撫でた。そうすると髪が乱れるので嫌なのだ、と文句を言われたことがあるので加減をしたつもりだが、ひとつにまとめられた髪はやはりわずかに崩れてしまう。
慰められているのだと気づいたヴァヴァロは赤くなった。必死に抱擁を解こうと身を捩ったが、力強い腕から抜け出せない。
「こ、子どもじゃないってば。もう十五だよ。シャーレアンだったらもうすぐ成人なんだから」
「子どもじゃなくても、大人でもねーだろ。大人になったら甘えたくても簡単に甘えさせてもらえねえぞ」
性懲りもなく大人を主張する少女の額にアルテュールは口付けを落とした。その優しい感触にヴァヴァロは堪らず目を潤ませる。
「……アルテュールは大人なのによくみんなに甘えてるでしょ」
平静を保とうとするヴァヴァロの声はわずかに震えていた。
「俺は甘え上手なんで」
ヴァヴァロの精一杯の強がりなどアルテュールは意に介さない。
──どうしてアルテュールという男はこうして時々、亡き父を思い起こさせるのだろう。
ヴァヴァロは不思議な心地に駆られずにはいられない。そう、枕辺で旅の話を聞きながら眠ってしまう自分に、めいっぱい遊び回り頬を紅潮させる自分に、見送りを泣いて嫌がる自分に、父はよくこうして、口付けてくれた──。
ヴァヴァロの意地が溶けた。ずるずると膝から滑り降りるヴァヴァロをアルテュールも無理に引き止めようとはしなかった。肩に回された腕は少女が体勢を崩して転ばぬよう、ただそっと添えられている。
ヴァヴァロは地面にこてりと落ちると、アルテュールの膝に頭を預けた。堪えていたつもりもないのに、溢れ出した涙がはらはらと頬を伝いアルテュールの膝を濡らす。それを申し訳なく思うのに、顔を上げることができない。
失くした寄る辺を偲び、静かに膝で泣く少女の背をアルテュールは優しく叩く。
木漏れ日の落ちる隠れ家には、川のせせらぎと少女が啜り泣く儚い音があるばかりだった。
「泣いたらすっきりしたみたい。ごめんね、膝濡らしちゃった」
アルテュールの膝に顔を押し当てひとしきり泣くと、ヴァヴァロはそろそろと身体を起こした。
相手を真っ直ぐ見上げるのが恥ずかしいほど泣いてしまったが、そのおかげか、気分は先ほどよりも晴れていた。
ようやく明るい顔を見せたヴァヴァロにアルテュールも微笑んだ。
「気にすんな。……あー、目が腫れちまったな」
「ええっ?」
ヴァヴァロは慌てて川面を覗き込み、顔をペタペタと撫でる。確かに目元がヒリヒリと痛むのは感じていたが、見て取れるほど腫れているとは思わなかった。
「め、目立つかな?」
「ちょっとな」
苦笑され、ヴァヴァロは慌ててポケットを探った。くしゃくしゃのハンカチを引っ張り出して川の水に浸し、きつく絞ると目元に押し当てた。
「うー、化粧まで落ちちゃった」
なんとか腫れを治そうと目元を冷やしていたヴァヴァロは、濡れたハンカチに移った染料に肩を落とした。ヴァヴァロが欠かさず顔に施している戦化粧の模様が崩れてしまっていた。
「じいさんも気合入れる時は化粧してっけど、ヴァヴァロのそれもじいさんに教わったのか?」
ヴァヴァロほど複雑な模様ではないが、アンリオーも顔に戦化粧を施してから戦いに臨むことが多い。
アルテュールの素朴な疑問にヴァヴァロは「よくぞ聞いてくれました」とばかりに顔を輝かせ、大きく胸を張った。
「これはお父さんに教えてもらったの。虎の柄なんだよ」
「へえ、虎ってそんな柄なのか。見たことないな」
クァールに似た金の毛並みの美しい獣なのだという話を聞いたことはあるが、ちらりと絵で見たことがあるばかりで記憶も薄い。
「お父さんも本物を見たことはなかったみたいなんだけどね。絵とか物語に出てくる虎が好きだったみたい。冒険に連れていってほしくてしょっちゅう泣いてたから、強い子になれるようにって描いてくれたんだ。だからこれはおまじないなの。おまじないと、約束」
「……いつか一緒に冒険をする約束?」
「そう」
目を細めるアルテュールにヴァヴァロは照れくさそうに笑う。
「ダレンおじさんが──あ、ダレンさんって言うのはお父さんの冒険者仲間だったロスガル族の人なんだけど」
「ロスガル族? また珍しいな」
アルテュールは驚きから思わず話の腰を折ってしまう。ヴァヴァロは首を傾げた。
「ロスガル族の人とは会ったことない?」
「ないなあ、まったく」
獅子のような勇猛な外見をした種族なのだ、という噂を耳にしたことはあるものの、それらしき人々と遭遇したことは一度もなかった。随分と稀有な種族と交流があったものだと目を丸くしてしまう。
ヴァヴァロは頬を掻いた。
「あたしもダレンおじさん以外は知らないんだけどね。そのおじさんが、第七霊災の後にわざわざ海を渡って会いにきてくれたの。それでお父さんの最期が分かったんだけど……納得できなくて」
「親父さんのことか?」
ヴァヴァロは恥ずかしそうに俯いた。
「本当はね、頭では分かってたんだよ。おじさんがわざわざ嘘を伝えに来るはずないもん。お父さんだって、人の生き死にで悪ふざけをする人じゃない。でもあたしの知ってるお父さんはすっごく強くて、約束は絶対に守ってくれる人だったから、簡単に死ぬはずない、何かの間違いだって意固地になっちゃって」
どれほど時間がかかろうとも、戦争が終わればきっと父が迎えに来てくれるのだと信じて疑わなかった。帰らぬ人になる恐れなど微塵も想像していなかった。迎えに来てくれた父は、今度こそ自分を冒険の旅に連れて行ってくれるだろうか。そう胸を弾ませていた幼く無邪気な自分を思い返し、ヴァヴァロは口を噤む。
「お母さんは死んじゃった。おじいちゃんと一緒に看取ったから、……辛かったけど、……納得……、してるの」
話すうちにつんと鼻先が痛んだ。不意に込み上げてきた涙を慌ててハンカチで拭う。アルテュールの大きな手がそっとヴァヴァロの肩を撫でた。
「でもお父さんとはちゃんとお別れしてない。お別れしてないのに死んじゃったなんて納得できなくて……。だから確かめたかったの。おじさんの言ってることが本当なのかって。旅をしていたら、いつかひょっこりお父さんと会えるんじゃないかって、あの頃は本気で思ってて……」
声が尻すぼみになるヴァヴァロにアルテュールは苦笑した。
「それで家出したわけか」
妙に納得した様子の声にヴァヴァロは赤面する。
「お、おじいちゃんには心配かけて悪かったなって思ってるよ? でもお父さんの残してくれた手帳もあったし、最初の頃は一人でも結構うまくやってたんだからっ」
事実、無謀な旅の始め方だったにもかかわらず、その出だしは災難にも飢餓にも見舞われず好調だった。それが途方もなく幸運なことだったということは、先輩冒険者たちの指導とそこそこの経験を積んだ今でこそ背筋が冷えるほど理解しているが、当時は自分に冒険者の適性があるからだと得意になっていたものだ。ヴァヴァロにとって思い出したくない恥ずかしい記憶だった。
「じいさんと再会した時はぴーぴー泣いてたって聞いたんだけどなあ」
「い、色々あったのっ! もー、ノギヤさんだな、話したのっ」
ムキになって言い返す少女にアルテュールはくつくつと笑う。ひとしきり笑うとヴァヴァロの頭をぽんぽんと撫でた。
「あんな孫思いのじいさん、なかなかいないぞ。わざわざ家出した孫を追って海まで渡ってきてくれるなんて」
「わかってるよぉ」
「あとでおじいちゃん大好きってちゃーんと伝えろよ。ついでにしこたま甘えとけ」
「も、もう大丈夫だってば」
つんと澄ました顔を作るヴァヴァロに目を細め、アルテュールはふと好奇心が湧いたままに口を開く。
「なあ、親父さんの手帳ってさ、何が書いてあんの?」
アルテュールの問いにううん、とヴァヴァロは頭を捻った。
「旅先での出来事とか、その土地の気候とか暮らしとか……色々かな。植物や動物のことも書きつけてあるし、少しだけど風景を描いたり、詩を書いたりもしてたみたい」
「ああ、ヴァヴァロが書いてるのは親父さんの真似だったのか」
ヴァヴァロが旅の道中であれこれと手帳に書きつける姿を思い出し、アルテュールはまたひとつ得心が行く。ヴァヴァロは照れくさそうに頬を掻いた。
「お父さんみたいに絵も描けないし、詩なんて全然なんだけどね」
「今度俺にも見せてくれよ、親父さんの手帳」
「いいよ! お父さんの旅の記録、気が利いた言い回しとかいっぱいで面白いんだから」
これ以上ないほど胸を張る少女にアルテュールは苦笑する。
「本当にお父さんっ子だな、ヴァヴァロは」
「自慢のお父さんだもん。もちろん、お母さんもね」
誇らしげに言い切ると、ヴァヴァロは何気なしに首を傾げた。
「ねえ、アルテュールの両親はどんな人だったの? 昔は一緒に暮らしてたんでしょ?」
「親ぁ? はー、親ねぇ。いたような、いなかったような」
投げやりな言葉に今度はヴァヴァロが目を丸くする番だった。
「……もしかして、ご両親のこと知らない? 嫌なこと聞いちゃった……?」
おずおずと尋ねられ、アルテュールは肩を竦める。
「そういうわけじゃねえんだけどさ。人に話して楽しいような思い出話もねえんだよなー」
言ってアルテュールは川面に視線を投げた。
古く色褪せた記憶だ。アルテュリュー、アルテュリューと自分を呼ばわる父母の声も、もはや鮮明には思い出せない。記憶に蓋をしてしまおうとは思わないが、敢えて懐古しようとも思えなかった。
「旅芸人の一座にいたって、前に言ってたよね」
遠慮がちなヴァヴァロにアルテュールは頷いてみせる。
「十二の時かな。俺の故郷ってのがまぁ辺鄙なところでよ。青空も碌に見えねえ重っ苦しい森と鍾乳洞ぐらいしかねえ土地柄だったのよ。おまけに娯楽は、隣の村のフォレスターたちといがみ合うぐらいしかねえような陰気な村でさ」
「ええー……」
ヴァヴァロが呆れ果てた顔をする。
「聞いただけでうんざりするだろ? それが嫌で嫌で仕方なくて、たまたま近くに来てた一座を拝み倒して隅っこに加えてもらったんだ」
初めて森を抜け、辺り一面に広がる青空を見た時の感動はいまでも覚えている。
燦々と降り注ぐ目が眩むような強烈な陽光も、森の霧とも違う身体に纏わりつくような潮風も、なにもかもが新鮮だった。森を抜け出した開放感は、異郷の不便ささえ好奇心へ変えてしまったものだ。
素晴らしい師に出会い、友ができた。師は教養を与えてくれ、友とは切磋琢磨した。与えられた仕事は懸命にこなした。三国を巡業するうちに五年の歳月が過ぎたが、終わりは唐突にやってきた。
──所詮シェーダーだ。ならず者の末裔だ。
そう罵り蔑視する人々の顔をアルテュールは生涯、忘れないだろう。ありもしない罪を擦りつけられ、一夜のうちに居場所を失ったあの晩のことを。
「ま、今はこうしてのんべんだらりと冒険者やってるわけですけど」
第七霊災は多くを攫っていった。大災害の衝撃の前では、忘れ去りたい惨めな記憶など瑣末なことだと思い直せた。おかげで今もなんとか生きている。
「あんまりダラダラするのはダメだよ。おうち建てたからってごはんが勝手に湧いてくるわけじゃないもん」
「へいへい、分かってますよー。ちゃんと働きますとも」
ヴァヴァロが頬を膨らませるので、アルテュールは戯けてみせる。
「……おうち、ラベンダーベッドでよかったの? アルテュールはミスト・ヴィレッジが良いって言ってたよね」
いまさらどうこうできる話でもないのだが、ヴァヴァロの声には気遣いが滲んでいた。アルテュールは気にする風もなく笑う。
「ここだって別に嫌じゃねえよ。綺麗なところだしな」
「うん。今日もよく晴れてるね。ねえ、散歩に行こうよ。新しく建ててる家、どんな風か見に行かない?」
「お、いいな」
頷き合い、立ち上がると衣服についた葉を叩いて落とした。太陽は天高く昇っている。時刻はもう正午に近い頃合いだろうか。
「あ、あのね。さっきはありがとう」
「うん?」
段差を上がろうとするアルテュールを慌てて引き止め、ヴァヴァロは顔を赤くしながら礼を述べた。
「誰かに抱きしめてもらうのなんて久しぶりだったから、なんだかすごく安心しちゃった」
アルテュールは目元を和ませた。
「そりゃよかった」
「それで、また元気が出ない時は……その……。うー、やっぱりなんでもない。って、うわっ!」
もじもじと口ごもったまま言い出せないヴァヴァロをアルテュールは勢いよく抱き上げた。
「元気が出ない時はなんだって? ほれ、言ってみ?」
「なんでもないってば! おーろーしーてー!」
からかって身体を揺らすとヴァヴァロはますます顔を赤くする。その様子がどうにも稚いようで、アルテュールはこの小さな人をどうしても放っておけないのだ。
「十二かそこらなのに強がりいうんじゃねーっての」
「十五だってばっ! さっきいったでしょ!」
「あれ、そうだっけ? ララフェル族はほんと見た目じゃわかんねーな」
「アルテュールが人の話を忘れちゃうだけでしょっ! もー!」
「ごめんごめん」
そのまま段差の上にヴァヴァロを下ろし、自身も隠れ家を抜け出すと、ちょうど庭に出る人々の声が聞こえてきた。
二人は顔を見合わせた。考えていることは同じのようだ。せっかく居合わせたのなら、皆でラベンダーベッドの散策に繰り出すのも良いだろう。
──追慕の涙は、川に流し去って。