旅のはじまり

(おじいちゃんのバカ!)
 うつらうつらと船を漕いでいたアンリオーは不意に蘇った声にはっと目を覚ました。慌てて腰を浮かせ周囲を見渡したが、すぐに夢だったと思い至る。
 孫がここにいるはずがないのだ。彼女がアンリオーよりも早い船に乗ったことは、既に調べがついていた。
 アンリオーは軽く息を吐くと、ひとつ膝を叩いて立ち上がった。そろそろ海原の先に陸地が見えてきた頃だろうかと甲板に上がる。青空の下で新鮮な空気を深く吸い込んで初めて、久方ぶりの船旅に思いのほか体力を消耗していたと気がついた。
 甲板にはアンリオーの他にも乗船客の姿があった。もう港が見えるのではないかと待ち構えている者が大半のようで、アンリオーも彼らに倣って甲板の端から水平線を眺めやる。
(どうして分かってくれないの)
 ぼんやりとこれからの旅路について考えながら、孫との最後のやり取りを思い返す。
 冒険者になりたい、と。孫のヴァヴァロが言ったのはほんの数日前のことだ。
 彼女が亡き父の背を追いかけて冒険者を志していることはアンリオーもよく知っていた。彼女が旅立ちの日を夢見て日頃から準備を進めていたことも。
 だが、孫はまだ齢十四だ。冒険者にしろ何にしろ、独り立ちするにはまだ早いと言わざるを得なかった。冒険者だった父母と一緒ならいざ知らず。
 ヴァヴァロはまだ子どもだからと、そう宥めた時の悔しそうな顔が思い出された。いつになく真剣な訴えだと感じ取ってはいたが、まさかその晩のうちに家出を決行するとは。
 孫の身を案じながら、同時に安堵する気持ちもあった。父母を亡くして以来、塞ぎ込んだ表情が増えた孫に家を飛び出すだけの爆発力が残っていたことに安堵していた。
 若いのだから力の限り生きれば良い。ただ一人で広い世界に飛び出して行くには、彼女はまだ若すぎる。本当に、ただそれだけの問題だった。
 唐突に甲板が歓声で湧いた。いつの間にか水面に落ちていた視線を上げ、遠く海の先に現れた街の姿に古老は目を細めた。
「ああ、これは──お懐かしい」

 港湾内に点在する無数の島々と岩礁の上に築き上げられた白く美しい海の都、リムサ・ロミンサ。潮風と活気に包まれたその港に軽やかな足取りで降り立つ少女がいた。
「──帰ってきた」
 白亜の街並みが青空によく映えていた。陽光を受けた街は眩しいほどに輝いていて、ヴァヴァロは懐かしい街並みに思わず声をこぼす。
 少女の宝石のような瞳は歓喜で煌めいていた。見慣れた装束、久方ぶりに聞く訛り。エオルゼアの地に帰ってきたのだ。ヴァヴァロは再び故郷の地を踏めた興奮に胸を高鳴らせる。港を行き交う人々の熱気に当てられ、その場で訳もなく踊り出したくなるほど気分が高揚していた。
 潮風を胸いっぱいに吸い込み、逸る気持ちをぐっと抑えてヴァヴァロはくるりと踵を返す。冒険者としての第一歩をどこから踏み出すかは、ずっと前から決めていた。港に降り立ってまもなく、新米冒険者候補の少女は勝手知ったる顔でベスパーベイ行きの船に乗り継いだ。いざ、砂の都ウルダハへ。海の都はまた今度。
 ──祖父の心、孫知らず。祖父が何もかもを投げ打って追ってきているとは露知らず。アンリオーよりも一足早く、ヴァヴァロは跳ねるような足取りで次の目的地へと向かっていたのだった。

 ヴァヴァロがリムサ・ロミンサに降り立ったその日。奇しくも同じ日に冒険者としての第一歩を踏み出そうとしている青年がいた。
「本当に行くのか」
 呆れた様に言ったのは青年の父だった。
 白髪の混ざった頭を掻きながら、出立の支度を終えた息子にため息をつく。
「うん、次に晴れたら出発するって決めてたからさ。行ってくるよ」
 気合十分に答えた青年の名をミックという。
 しばらく天候不良が続いていた黒衣森の北部地方は、数日ぶりにすっきりと晴れ渡っていた。雨に濡れた葉と土の香りがまだ森の中に残ってはいたが、旅立ちの気分を盛り上げるのに申し分ない青空だった。
「冒険者になるって言ってもねえ。どこで何をするつもりなんだい。グリダニアで働くつもりかい?」
 冒険者が何をする稼業なのか、いまいち理解できていない母は心配そうに尋ねる。ミックは拳を掲げて大きく胸を張った。
「まずはリムサ・ロミンサに行ってみようと思う。ほら、やっぱり冒険って言ったら海だと思うんだよね。グリダニアにも冒険者ギルドはあるらしいけど、俺は海の街から冒険者としての一歩を踏み出したいんだ。ギルドに登録したら、何かしら依頼を回してもらえるらしいからさ、とにかく何でもやってみる」
 いきなり飛び出した遠い異国の名と謎の理屈に呆気に取られたのも一瞬、父は嘆くように天を仰いで額を抑えた。
「森の外にも出たことねえってのに、いきなり海を拝みに行こうとは恐れ入るじゃねえか。夢ばっかりでっかく持ちやがって、まったくこのバカ息子がよ」
「父さん、一度やらせてあげなよ。とにかくやってみたら兄さんだってすっきりするだろうし。だいたい兄さんには向いてないんだよ、指物師」
 弟が悟りきった口調で父親をなだめた。妹もその隣で頷いている。
「納期も近いってのによお。もういい、もういい。何言ったって聞きやしねえんだから、さっさと行ってこい」
「仕事手伝えないのは、ごめん。でも、とにかく俺、頑張ってくるから!」
 諦めきったように手を振る父にミックは肩を竦めた。
 ミックの家は代々、指物屋を営んでいた。長男の自分がいずれ家業を継ぐものだとミック自身も思っていたが、どうしても性に合わなかったのだ。職人としてなら弟や妹のほうがよほど筋が良かった。
 母は深々とため息をつくと、息子のよれた旅装を寂しそうに整え直した。
「お願いだから、怪我だけはしないでちょうだいね。たまには顔を見せに帰ってくるのよ」
「うん、黒衣森じゃ見ないようなお土産持って帰ってくるからさ、楽しみにしててよ」
 ミックは自信に満ちた表情で胸を叩き、心配そうに見上げてくる弟妹の前に膝をついた。
「父さんと母さんのこと、よろしくな」
 弟妹の肩を力一杯抱きしめた。しっかり者で自慢の弟妹だ。ぐずぐずと夢に一歩踏み出せずにいたミックの背を押してくれたのも弟と妹だった。二人が両親のそばにいてくれれば何よりも心強かった。
「お兄ちゃん、夜寝る時はおへそ出して寝ちゃだめだからね。森の外はきっとお天気が全然違うだろうし、風邪を引かないように気をつけて。お金もあんまりないんだから、ちゃんと考えて使わないとだめだよ。あと、怪しい人とか変な人に騙されないで。お兄ちゃんすぐ人の言うこと信じるから」
「大丈夫だって、信用ないなあ!」
 滔々と言い含めてくる妹にミックは苦笑する。
 家族に最後の別れを告げ、ミックは意気揚々と紅葉に沈む故郷を旅立って行った。
 あれこれと余計な物を詰め込んだ鞄に古びた剣、本人なりに精一杯貯めた路銀のほかには、若者らしい青臭い自信と夢と希望を持つばかりの旅立ちだった。

 彼ら彼女らの旅路が交わるのは、まだ少し先の話である。

 


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