影より出でて(04)
「今日ね、おばあちゃんと地下に行ったよ」
祖母と居住区跡を訪れたその夜。寝台に潜り込み、しばらく暗い天井を見上げていたアルテュリューは、遅れてやってきた母に顔を向けた。
息子の隣に横たわりながら母は目を丸くした。
「地下? 扉の先のこと?」
「うん」
まあ、と母は枕から頭を上げる。
「おばあさまが若い頃に住んでいらしたというゲルモラの跡地ね? 朽ちかけていて危険だから放棄するしかなかったと聞いているけれど……。危なかったのではない?」
「奥はもうボロボロで危ないからって、昔のおうちの近くとムントゥイ農園だけ見てきたの。お母さんは行ったことない?」
「そうね、私が嫁いできたときにはもう扉が閉じられていたから」
アルテュリューは天井に視線を戻した。
「思ってたよりうんと立派でびっくりしちゃった。昔の人はどうやってゲルモラを作ったんだろう。暗いところでおうちを作るのは大変だっただろうな」
「本当ね。昔の人の知恵には驚かされることばかりだわ」
アルテュリューはしばし口を噤んだ。
「聞いてもいい?」
「なあに?」
「お母さんの家族はどうしてグリダニアに移ったの?」
グリダニアで暮らしているはずの母の家族にアルテュリューは会ったことがない。きっとこの先も会えないのだろうと子供なりに察していたし、聞けば母を困らせてしまうと分かっていたから、知っていることはほとんどなかった。
せいぜい知っているのは、母の家族がグリダニアで商店を営んでいて、父が若い頃はそこで働いていた程度のことだ。
母は目を伏せ、そしてすぐに微笑んだ。
「……私のお祖父様から聞いた、大昔の話だけれど。お母さんのご先祖様も、なるべくゲルモラに残ろうと努力したそうなの。でもほとんどの人がグリダニアに移り住んでしまうと、そのうち暮らしが成り立たなくなって……」
「グリダニアに移った?」
「そう聞いているわ」
「そっかあ」
もっとたくさんのことを聞きたかったが、アルテュリューは思い留まる。いろいろな思いが胸の内を巡っては消えていった。言葉にできない泡のような気持ちをいくつも見送って、唯一形になったものを母に向ける。
「ねえ、グリダニアだとみんな仲良し?」
息子の疑問に母は微苦笑した。
「……ここよりはね」
「お、なんの話をしているのかな」
一日の仕事を終えた父が寝台までやってきた。妻の労いの言葉に手を挙げて返し、息子の隣に横になる。並んで眠るには少しばかり窮屈になってしまった寝台に、親子三人。家族の毎夜の光景だった。
「あのね、今日おばあちゃんとゲルモラを見に行ったの」
へえ、と父は意外そうにした。
「ずいぶん久しぶりじゃないか、おふくろが扉を開くのは。暗いしカビ臭いし湿気は酷いし、退屈だっただろう」
「面白かったよ。おばあちゃんのつまんない昔話よりずっと楽しかったな」
母はこら、と息子の胸に手を添えた。
「そんなふうに言っては駄目よ。おばあさまに失礼でしょう」
アルテュリューはむくれる。
「だっておばあちゃん、いつも不機嫌なんだよ。おんなじ話ばっかりだし、嫌味ばっかりなんだもん。昔話なんてちっとも楽しくないよ」
声を立てて笑う夫をじろりと睨むと、
「おばあさまは昔を偲んでおられるのよ。故郷が朽ちていくのを見ていることしかできないんですもの。やるせなくなってしまうこともあるわ」
母は息子を嗜める。
「お父さん、ゲルモラって直せないの?」
しばらく頬を膨らませていた息子に問われ、父は目を瞬かせた。
「直すって、どうして?」
「おうちと農園がもっとあったら、おじさんの家族もこっちに呼んであげられるのになって。森は勝手に切り拓けないけど、地下なら精霊も怒らないんでしょう?」
実際、叔父の親族を集落に呼べないかと大人たちが話し合っているところを、アルテュリューは何度も目撃していた。
集落の土地にはまだ余裕があるが、住人を増やそうとすればそれなりの準備が必要になる。食糧の問題もあるだろう。森から木材や日々の糧を調達してくるとして、果たして精霊や道士が黙っているかどうか。
道士に相談するか、と大人たちが苦々しくこぼしていたこともあるが、そもそも叔父の親族がグリダニアの近くで暮らすことを嫌がっているとも耳にした。
それに、とアルテュリューは商店にやってくる人々の顔を思い起こした。時に酷く貧しい格好をした同族が訪れてくることがあった。
彼らは困り果てた様子で店を訪ねてきて、父はいつでも親身に相談に乗っていたが、彼らは決して集落に留まろうとはしなかった。
もしもっと住む場所があって、もっと沢山のムントゥイ豆を栽培できたら。森の中で貧しい暮らしをしている同族を呼んであげられるのではないかと、そんな考えがゲルモラを見てから消えなかった。
父は母と顔を見合わせると、ひとつ微笑んで息子の胸を優しく叩いた。
「そうだな、父さんたちもいつか合流できればと話はしているよ。ただ地下を直すには、人手も金も必要だからな。このあたりの土地をどうにかして広げる方が手っ取り早いだろうさ」
父の言葉にそっかあ、と呟いてアルテュリューは天井を見上げた。
「……もったいないな……」
築き上げられたものが、後は朽ちていくしかない。それを見守ることしかできないのは無念だ。
──ああ、だから、とアルテュリューはうとうとしながら思う。だから祖母は、いつもあんなに不機嫌なのか。
何かを悟ったような気がしたが、胸に浮かんだ思いは言葉になる前に眠りと共に溶けていった。
祖母による魔法の手解きは翌日からさっそく始まった。
わざわざ家まで迎えに来られては隠れることもできず、面白そうに成り行きを見守る父に送り出され、アルテュリューはいまいちやる気が起きないまま祖母に師事されることになった。
手始めにしたことは杖作りだった。といっても、道士や鬼哭隊士が所持しているような立派な杖ではない。
とにかく手に馴染む落枝を探せと森に連れ出され、よく分からないまま握った時に一番しっくりくる枝を選んで集落に戻ると、次いでその枝の加工をさせられた。怪我をしないよう枝先のささくれを削り、全体を軽く磨く。
膝丈程度だった落枝も手を加えるとそれなりに杖らしい風貌になり、アルテュリューは少しだけやる気を──森を嫌っておきながら森の素材を使うのかと文句を垂れたら祖母に小突かれたが──出した。
「いいかい。ゲルモラの魔法にもいろいろあるが、まず大事なのは、身の内を巡る魔力と大地を巡る力をしっかりと感じ取れるようになることだ」
己の血潮を。土の脈動を。水の巡りを。風の去来を。耳を澄ませて感じ取れと、今度は瞑想めいたことを延々とさせられる。
時に集落で。時に鍾乳洞で。時に森の水辺で。祖母にあちこち連れ回され、二人並んで無心になる日々は、意外と息苦しいものではなかった。
恨み言を聞かされるよりよほど良いと思っていたところを「余計なことを考えるんじゃあないよ」と見抜かれた時はぎくりとしたけれど。
「よくわかんない」
瞑想自体は嫌ではないが、魔力の流れとやらは一向に感じ取ることができず、アルテュリューはぼやいた。
「初めから上手くいくなんて思わないことだ」
祖母に鼻を鳴らされ、渋々目を瞑りなおす。
今日の修行の場は泉だった。森の中にぽつねんと佇む泉のほとりに腰を下ろし、何かを感じ取ろうと少年なりに努力はしていた。
ふと、澄ましていた耳に陽気な──聞き慣れた楽器の音が届いた。少年は瞑目したまま小さく顔を綻ばせる。このあたりにも来るのだなと、遠いような近いような彼らの演奏に耳を傾けた。
「集中しな」
すかさず祖母に戒められ慌てて顔を伏せた。途端に演奏が遠ざかってしまう。アルテュリューは何事もなかったように唇を結んで真面目な顔を作ると、再び楽器の音を探そうと耳を澄ませた。
近頃は手が空くとすぐ祖母に捕まってしまうから、いつもの小川にさっぱり遊びに行けていなかった。一緒に歌うことはできないけれど、せめて久しぶりの演奏を聞き逃したくなくて、少年はじっと集中する。
風に乗って調子の外れた音がする。ひらりひらりと宙を舞う木の葉のように森を踊り渡りながら、足元の木の根を避けるように飛んだり跳ねたりするような。楽しげで、どこか笑ってしまうような楽器の音色。
その音だけに耳を傾けていると、不思議と意識が研ぎ澄まされるようだった。
──そういえば、と意識の底で祖母の言葉を思い返す。ゲルモラの魔法を習うのに森に出る必要があるのかと、そう尋ねた日のことだ。
素朴な疑問だった。先祖代々受け継がれてきた魔法だというのなら、修行のために森に出る必要があるのかと。
祖母は些か不服そうに鼻を鳴らしたが、こう答えた。繋がっているからだ、と。
どれほど精霊が忌々しく、光届かぬ地下深くで暮らしてきた歴史があろうとも、地表と地下は大きな巡り中で繋がっている。
風が命を運び、土が命を抱き、水が命を育む。風が大地を吹き荒らし、土が大地を覆し、水が大地を押し流す。
連綿と続く営みの中に自分という命も息衝いているのだと。そう感じ取るためには森にも出たほうが賢明だと、祖母は言った。
祖母の言い分は難しくて、アルテュリューにはぴんと来なかったが、祖母が森を完全には拒んでいないことを心の奥で嬉しく感じた。
それで大人しく修行を続けているが、相変わらず己の血潮やら大地を巡る力やらは感じ取れず、何かにふとくすぐられたような気がしても、その感触は自覚と同時に溶け消えてしまう。
魔法って難しいな、と頭の隅で思いながら、少年は耳を澄まし続けた。
遠く囁き合うような声は葉擦れの音か。忙しなく森を駆ける足音は野鼠のものだろう。泉の底からはこぽりこぽりと泡が湧いている。
森を吹き抜ける風が少年の頬を優しく撫でた。誰かに笑いかけられたような気がしたが、少年は無心を心掛ける。風は泉で舞うように渦巻くと、目覚めを促すように周囲の木々を小さく揺すって去っていった。
ひらり、と一枚の葉が舞い落ちた。泉に落着した葉が静かに波紋を起こす。
すっくと立ち上がった孫を祖母は怪訝そうに見上げた。
「どうしたね」
「いま、森が」
言いかけて思い留まる。否、言葉にできなかった。確かに耳に届いたはずの囁きは、アルテュリューが理解するよりも早く、朝露のように消えてしまった。
「森が?」
祖母の落ち窪んだ目に見据えられてもなお、失った囁きが心から離れなかった。
泉に差す陽射しは心地良く、木々を揺らす風は穏やかだった。森に揺蕩う安らぎの気配に、アルテュリューは口を噤んだ。
「ううん、なんでもない」
「……そうかい」
祖母のジロジロとした視線には気がつかないフリをして、少年は瞑想を再開する。
アルテュリューが初めて魔力を繰るのに成功したのは、それからしばらくの後だった。
ようやく遊びに抜け出す余裕ができると、アルテュリューはいつもの小川にまっすぐ向かった。お手製の杖を手に、川の向こうからソフィアヌがやってこないかと待ち侘びた。
集落の足元に広がっていた地下都市跡のこと。祖母に習っている魔法のこと。ソフィアヌに聞いてほしい話がたくさんあった。
友達を待つアルテュリューのそばを穏やかな風が過ぎていった。くすくすと楽しげに笑い合うような風に森を見上げる。
修行の影響なのか、少年の耳は幼い頃のように──幼い頃よりも、意思ある音として森の声を聞き取るようになっていた。言葉にするには至らないが、そこには確かに感情の気配がある。
ここ数日の森は機嫌がいいようだ。その気配の中に身を置いていると、母の言いつけを破って歌い出したい気分になってしまって、少年は慌てて聞こえないフリをする。意識して耳を塞ぐと囁きはわずかに遠退いた。
「今日は来ないかな、ソフィお姉ちゃん」
待てども待てども果樹園の方角から人がやってくる様子はなく、アルテュリューは諦めて踵を返した。
今日はモーグリ達も遠くにいるようで──不思議なことに、修行を重ねるごとに彼らの楽器の音にも気づきやすくなっていった──、このままでは退屈しているうちに日が暮れてしまいそうだ。かと言って戻れば祖母に捕まるのは分かりきっていて、家路を辿る足も鈍った。
遊び足りない少年はなにか楽しいことがないか周囲を見渡した。いつもの洞穴に向かって歌おうか。それとも帰って従弟妹達と遊ぼうか。父の仕事の手が空いていたら、釣りに連れて行ってとねだるのに。
どの案もいまいちな気がして、アルテュリューは肩を落とした。その視線の先、木漏れ日にちらちらと照らされる地面を見て、ふと思いついたように顔を上げた。
「そうだ、洞窟」
森の中の既知の洞窟。そのいずれも、誰かが野営に使ったらしい痕跡が稀にある程度で、アルテュリューの集落のように人が暮らしている様子はなかった。
でも、もし他の洞窟を見つけ出すことができたら。あるいは既知の洞窟をもっと奥深くまで探索してみたら。そこはゲルモラに通じているかもしれない。なによりも、他のシェーダー族が暮らしているかもしれない。
少年は顔の前に杖を掲げた。洞窟の暗闇に紛れ込んでも道に迷う心配はない。獣に出くわさないかは少し心配だが、いまならちょっとした突風も起こせる。もし危険があったら引き返せばいい。
探してみよう、とアルテュリューは再び踵を返した。ゲルモラに至る道や、森や洞窟のどこかに住んでいるはずの同族を探してみよう。そしてもし、年の近い子がいたら、友達になりたい。
少年はわくわくした瞳でどこへ向かうかしばらく考え、やがて小川の上流に向けて弾むような足取りで駆け出した。
揺れる木漏れ日を踏み渡りながら、少年は森の奥へ奥へと進んでいった。
新しい洞窟を探すのも悪くないが、今日は手近な洞窟をもっと深くまで探索してみると決めた。このまま川沿いに進めば、途中まで潜ったことのある洞窟に着く。奥に行くほど道が狭そうで以前は引き返してしまったが、今日は進めるだけ進んでみよう。もっと地下深くまで進めば、集落の鍾乳洞のようにゲルモラに通じているかもしれない。
狭い青空を見上げながら器用に足元の木の根を避け、道が悪くなれば川の石の上を跳ねて対岸に渡る。機嫌良く杖を振り、気持ちのいい陽だまりを見つければくるくると踊る。木の実があれば摘み、綺麗な苔を見つければ剥がして食む。
そうして遊びながら進むうちに道のりは険しくなっていった。少年は一度立ち止まると、息を整えて額の汗を拭った。少し足を休ませてから、目の前に広がる急勾配の斜面を登り始める。
うっかりすると滑り落ちてしまいそうな斜面を登り切ると、川のそばにひっそりと佇む洞窟の口が見えて、少年は顔を輝かせた。初めての来訪ではないのに、そこには真新しい世界が広がっているように感じられた。
覗き込んでも暗闇が広がるばかりの洞窟に少年は物怖じせず踏み込んでいく。しんと静まり返った洞内の空気は冷たく湿っていた。人の気配がないか改めて洞内を見渡し、生き物の気配に気がつき天井を見上げると、暗い洞内の天井には蝙蝠達がみっちりと身を寄せ合っていた。
こちらの動向をじっと窺っている彼らに微笑み、少年は奥へと続く亀裂のような道にするりと潜り込んだ。大人一人が辛うじて立って歩けるような道も、少年の背丈ならばそれほど窮屈ではない。
真っ暗な道を下りながら歩くことしばらく、小さな空洞に出た。少年が両手を広げられる程度の広さしかない空洞の先には、先ほどまでと同じような亀裂の道が続いている。
問題はこの先だった。続く道がこれまでと同程度の道幅を保っているのは最初だけで、徐々に狭く低くなってしまうのだ。以前はそれが息苦しくて引き返してしまった。
少年は手にした杖でカツカツと亀裂の壁を叩いた。危険がないことを確かめると、平然とした足取りで暗闇の中に入り込んでいく。道はすぐに狭くなり、屈まなければ頭を擦ってしまう。
ときおり杖の音で周囲を確認しながら先を目指していた少年は、じきに行き止まりに辿り着き、がっくりと肩を落とした。
それなりに下ってきたし、どこか遠くから風の音がするから、ゲルモラに通じているのではないかと期待していたのに。どうやらこの洞窟はハズレだったらしい。少年の行手には、もはや獣が入り込める程度の穴しか残されていなかった。
仕方なく引き返そうとした少年は、名残惜しい気持ちで穴を覗き込み、そして小さく驚きの声を上げた。遠く穴の先に光が見えたからだ。
少年は興奮で頬を赤らめた。杖で幾度か壁や地面を叩き、穴の広さを確かめる。小さな穴だが、腹這いになれば入っていけそうだ。
少年は少し下がると、地面に伏せてまずは頭を潜り込ませた。取り落とさぬよう杖をしっかりと握りしめたまま、少しずつ、慎重に穴を這っていく。光を目指すのに夢中で、服や肌を岩に掻かれる痛みには気がつかない。
やがて身体が穴に詰まると、少年は落ち着いて肺に残った息を吐けるだけ吐き出した。こうすると少しばかり身体が縮まると、少年は経験から知っていた。
微妙に角度を変えながら続く穴を器用に這っていく少年は、遂に穴を抜け──そしてきょとんとした。
穴の先に広がっていたのは、四方を高い土壁に囲まれた広場のような場所だった。少年は穴から完全に這い出ると、服についた砂利を払い落としながら興味深く辺りを見回した。
森の中にぽっかりと穴が空いたような場所だった。四方の土壁は明らかに人の手で整形されているが、植物の侵食が激しいところを見るに、長年放置されているようだ。地面には草が生い茂っている。踏み荒らされた様子のない下草に紛れて、見たことのない花々が凛と咲いていた。
不思議な場所だな、と少年は花を踏み荒らさないように気をつけながら歩き回ってみた。穴とは反対側の壁まで来ると、はっとして壁を覆う蔦を掻き分けた。
蔦の向こうから古い紋様が刻まれた扉が姿を現すと、少年は歓喜で小躍りした。紋様は集落の鍾乳洞にある扉のものと同じだった。やはりあったのだ、ゲルモラへの道は!
少年は壁に纏わりつく蔦を剥がすと、扉を軽く押してみる。扉は軋んだ音を立てたが、しかしそれだけだった。力を込めて押してみても、肩で押してみても、扉は古びた音を立てるだけで開く気配がなかった。
集落の扉のように──押した時の音からしても──内側から閂がかけられているのだろう、と少年は潔く諦めた。場所さえ分かればいつでも来られるのだから、扉を壊すような真似をしてまで続ける必要はない。
少しばかり疲れを感じ、少年は扉に凭れるように座り込んだ。
「空だ」
少年はぽかんと呟いた。
四方を壁に囲まれた小さな世界。森の中に突如として現れた穴。ここから見上げる空は、森のどこよりも広かった。
少年は空を眺めるのが好きだった。木々に覆われ、青空はほとんど見えないけれど。濃い緑の合間から覗く空の青の爽やかさが、少年は好きだった。
いいところを見つけたな、と少年は顔を綻ばせた。ここなら空がよく見えるし、不思議と静かだ。ソフィアヌを誘ってここまで来るのはさすがに難しいだろうから、一人で退屈した時にまた遊びに来よう。
しばらく空を眺めて楽しんでいた少年は、日が既に傾きかけていることに気がつき立ち上がった。そろそろ戻らなければ両親を心配させてしまう。
踵を返しかけた少年は、扉の脇に小さな穴を見つけ屈み込んだ。扉と同じく蔦に覆われた穴は、少年が潜り込むには厳しいが、小さな獣ならば入り込めそうな大きさをしていた。この場所と同じく四角く人工的な形状をしていて、奥まで続いていそうだ。
何のための穴だろうと少年は首を傾げたが、しばらく考えても用途が思い浮かばず、仕方なく立ち上がった。後で祖母に聞いてみたら、何か分かるかもしれない。
洞窟の穴へと戻りながら、少年は自分を矯めつ眇めつした。気がつけばずいぶんと服を汚してしまっていた。跳ねてきた泥の汚れや砂埃に塗れていて、これは母に怒られるかもしれない。
少年は再び腹這いになると穴に潜り込んだ。可能な限り身体の厚みを減らし、暗闇に向かって這った。
「い、いたっ」
唐突に身体が穴に詰まった。周囲の岩に顔を掻かれ、少年は思わず声を上げる。先ほどは遭遇しなかった痛みに慌てて息を絞り出した。体勢を整え、改めて前進しようとしたが、なぜか身体がつかえてそれ以上進めない。少年はジタバタと踠きながら後退すると、穴を抜け出た途端に尻餅をついた。
「え──?」
じわりと焦りが滲む。少年は穴を凝視した。なぜ通れないのだろう。来るときは狭くてもちゃんと通れたのに。同じ道なら、同じやり方で戻れるはずだ。
さわ、と森の木々が揺れた。少年はぎくりとして背後を振り返る。切り立った土壁の底。当然、自分以外の誰がいるはずもない。
少年は自分を落ち着かせるように深呼吸をすると、足元から忍び寄ってくる不安を押し殺すように再び穴に潜り込んだ。ゆっくりと、慎重に。光から遠ざかるように這っていく。
それでもやはり、先ほどと同じ場所でつかえてしまう。無理にでも突破しようと踠くとわずかに前身できたが、感じたことのない圧迫感に襲われ、少年は大慌てで穴から這い出た。
どっと汗が噴き出す。心臓が早鳴り始めた。なぜ通れないのか分からず、少年は恐ろしくなって穴から後退った。
よろめきながら立ち上がり、ほかに帰る方法がないか、狼狽して周囲を見回した。よじ登れないかと土壁にしがみついてみても、爪が土に食い込むだけ。崖のような壁は絶望的に高い。
「お──」
少年はぞっとして唇を震わせた。
「──お父さん!! お母さん!!」
森の奥深く、人里離れた穴の底。誰の耳に届くはずもなく、少年の懸命の叫びは虚しく宙に溶けて消える。
事態を直視せざるを得なくなった少年は悲鳴を上げた。こんなところに迷い込んで、いったい誰が見つけ出してくれるというのだろう。
──なんということはなく。行きは無理のない体勢で超えられた場所が、帰りは少しばかりきつかったというだけのこと。
焦りに負け、冷静になれば通り抜けられることには思い至らないまま、少年は穴の底で呆然とへたり込んだ。