トトルン洗いは重労働
「待てー!!」
「止まれー!!」
陽光に包まれた海都の一角。
座員たちが興行の準備を進める間を、アルテュールとメグは業を煮やした顔で縫うように走り抜けていく。二人の前方には、喚きながら全力で逃げるトトルンの姿。
「嫌っちゃ!! トトルンべつに汚くないっちゃ!!」
「汚いよ!!」
「臭いってば!!」
少年少女はトトルンの主張を間髪入れずに却下する。
「お、なんだあ、いつものやつか?」
「トトルンも懲りねえな」
「おうトトルン、大人しく洗われとけよ!」
囃し立てる座員たちに構っている余裕はない。驚くほどすばしこいトトルンに追いつこうと、二人は力を振り絞って足を速めた。いよいよ追いつくと、体当たりをする勢いでトトルンに飛びつく。そのまま左右から羽交締めにし、三人揃って白い石畳みにもみくちゃに倒れ込んだ。
「捕まえた! ほら、べたべたしてる!」
「服も洗うからね!」
アルテュールもメグも眉を吊り上げ、不精のせいですっかり薄汚れたトトルンに両側から文句を浴びせる。
「やめるっちゃ、やめるっちゃ!! 離すっちゃー!!」
「あっ!? こらーっ!!」
子供達の苦情には少しも耳を貸さず、トトルンはジタバタともがいて拘束を振り解いた。そのまま跳ねるような勢いで再び駆けだしたトトルンの後を、二人は大慌てで追う。
──なんの騒ぎかといえば。
なんてことはない、アプカル座では毎度お馴染みの、興行前の大捕物である。
「や、やっとまいたっちゃ? 二人ともしつこいっちゃ」
座員を飛び越え荷を飛び越え、這々の体でようやく追っ手から逃れたトトルンは、息を切らして物陰にぐったりと座り込んだ。街中に逃げ込むように見せかけて、停留している一座のキャリッジの物陰に潜伏したから、しばらくは安心だろう。
「どいつもこいつも失礼っちゃ。トトルン汚くなんてないっちゃ」
トトルンはすんすんと鼻を鳴らしながら自分の体や服を嗅ぐ。たしかに毛並みは少々べたついているし、服は生臭いような気がしなくもないが、だからといって洗わなければいけない程ではないだろう。ただでさえ水に濡れるなんて真っ平ごめんなのに、この程度で不潔扱いをされ、まったく腹立たしい限りである。
興行開始までどう逃げ隠れしたものか、トトルンは息を整えながら思案する。興行さえ始まってしまえばメグもアルテュールも自分の仕事で忙しくなるだろうから、とにかくそれまで身を隠しておかねばならない。
放置されている小船にでも潜んでおくか、それともこのまま荷の影でやり過ごすか。うんうんと悩んでいたトトルンは、微かな足音にぎくりとして振り返った。
「あらあら、どうしたのトトルン。そんなところに隠れて」
現れた人影にトトルンはほっと警戒態勢を解いた。視線の先に立っていたのは、一座の料理番イルメラだった。暗がりのせいで表情がいまいち読み取れないが、おっとりと笑っているように見える。
「い、いるめらっちゃ? 酷い目に遭ったっちゃ。匿ってほしいっちゃ。トトルン汚くなんてないのに、めぐとあるてゅるが洗え洗えってうるさいっちゃ」
縋りついてきたトトルンにイルメラはにっこりと目を細めた。
「そうだったの。それは大変だったわね。たくさん走りまわってお腹が空いたでしょう。ゆで卵でも食べる?」
イルメラが手にしていた籠からゆで卵を取り出すのを見て、トトルンは瞳を潤ませた。
「食べるっちゃ。おなか空いたっちゃ。やっぱりいるめらはやさし──ぢゅあ!?」
唐突に視界が暗闇に包まれ、トトルンは悲鳴を上げた。反射的に暴れて逃げ出そうとしたが、やけに窮屈で手足が自由に動かせない。さらに何者かの屈強な腕にがっちりと抱えられ、ようやく状況を理解する。──頭から大きな袋を被せられたのだ、と。
「すまんな、トトルン」
密かに背後から忍び寄っていたフォルカーは、麻袋に捕らえたトトルンを肩に担ぎ上げた。無事に捕獲に成功し、妻と深く頷き合う。
「トトルンのこと騙したっちゃ!? 卑怯っちゃ!! 離すっちゃ!! だ、誰か助けるっちゃ!! 人攫いっちゃーーー!!」
往生際の悪いトトルンの叫びに耳を貸す者は、残念ながら一座のどこにもいないのである。
「アー!! 濡れたくないっちゃ!! 気持ち悪いっちゃ!! どうしてこんなことするっちゃ!? 人の心がないっちゃーーー!?」
ぬるま湯を張った大きな洗い桶。石鹸。そして、トトルン専用の大判のタオル。
捕獲担当から洗身準備担当に回って待ち構えていたメグとアルテュールは、麻袋入りでフォルカーに担がれたまま、陸揚げされた魚のように暴れるトトルンをどうにか湯船に浸けようとしていた。
ベテラン軽業師としてのトトルンの身軽さと機転は侮れない。袋詰めされた状態でも隙を突いて逃げ出す恐れがあるから、この段に至っても油断はできなかった。実際いまも、袋からわずかにはみ出した足先が湯に触れそうになるたび、ビンと器用に──必死にというべきか──背を反らしてぎりぎりの回避を続けていた。
「ぢゅあーーー!! 水なんて嫌いっちゃーーー!!」
それでもいよいよ足先が湯に触れると、今度は飛沫をあげる勢いで湯を掻き、あっという間にその場に集った人々をずぶ濡れにしてしまう。
「暴れないでってば!」
「大人しくしてたらすぐ終わるでしょ!」
濡れるのはもとより覚悟の上。トトルンを押さえつけるので精一杯のフォルカーの肩から、メグとアルテュールは鬼の形相で一気にトトルンを引きずり落とす。
「ア、ア、アアアーーーッ!!」
どぼんと湯に浸けられた瞬間、トトルンの抵抗が一瞬弱まった。メグはその隙を逃さず、麻袋ごとトトルンの服を投げ捨て丸裸にしてしまう。その横からイルメラは冷静に湯を足し、アルテュールは石鹸を泡立てた手でトトルンの全身をワシワシと洗い始めた。フォルカーは低く身構え、トトルンの脱走に備えている。
「はあ、はあ、トトルンが、トトルンがいったいなにをしたっていうっちゃ……!? こんな辱めを受けさせるなんてひどいっちゃ……!!」
浅い湯船の中でトトルンは溺れかけのように喘いだ。
すっかりずぶ濡れにされ、瞳をうるうると潤ませる姿を見れば、事情を知らぬ者はトトルンに同情の念を抱いたことであろう。だが生憎、ここにはトトルンと日常を共にしている者しか──トトルンの生活態度を熟知している者しかいない。
「しょっちゅう裸で歩き回ってるでしょ!?」
「汚れてるほうが恥ずかしいってば!」
子供達はトトルンに組みつきながら隅々まで洗う。
「もう! ブノワも見てないで手伝ってよ!」
遠巻きにその光景を見学していたブノワにメグは躍起になって叫んだ。
ブノワは美しい顔を澄ましたまま、面倒くさそうに頭を掻く。
「やだよ、汚れたくないし」
素気無い返事にメグはつんとそっぽを向くと、イルメラに目で合図を送った。イルメラは頷くと、殻を剥いたゆで卵をトトルンの眼前にチラつかせる。
「ぢゅぢゅ!?」
トトルンははっとすると、ゆで卵に食らいつこうと必死に首を伸ばし、舌を伸ばした。こんな状況でも食い意地は張っているトトルンである。
その隙にメグはわしゃわしゃとトトルンの首元から胸元までを洗い、アルテュールは足の裏から指の間までを念入りに洗う。二人とも体をほとんど湯桶に突っ込み、トトルンに負けず劣らず泡まみれだ。
「ほらトトルン、後でゆで卵をたくさん食べさせてあげるから、もう少し辛抱しなさいな」
イルメラは少しだけトトルンにゆで卵を齧らせてやると、にこにこと付け加えた。トトルンは恨みがましい涙目でイルメラを見上げた。
「本当っちゃ? とびきりいっぱいっちゃ? 山盛りいっぱいっちゃ?」
「本当よ。山盛りいっぱい茹でてあげる」
彼女の言葉を信じていいものか、トトルンは考えあぐねているようだった。依然として嫌そうに身を強く捩りながらも、山盛りいっぱいの好物が目の前に積まれる光景でも想像しているのか、悩ましげに喉の奥で唸っている。
「ああ、すっかり出遅れてしまったかな。すまないね、打ち合わせが長引いてしまって」
てんやわんやの騒ぎの末、この世の終わりのようにちゅうちゅうと騒ぐトトルンに湯をかけて石鹸を落としているところに、遅れてやってきた人影が一つ。
「先生ぇ」
ジルベールだった。アルテュールはへとへとの顔で師匠を見上げる。
ジルベールはすまなさそうに苦笑すると、チョッキを脱ぎ、適当な場所に引っ掛けた。
「どれ、仕上げぐらいは私がやろう。トトルン、おいで」
へろへろになりながら桶から這い出してきたトトルンに向かってタオルを広げると、トトルンはぶすっとしながらそのタオルを奪った。
「ふんっ、体ぐらい自分で拭けるっちゃ。トトルン子供じゃないっちゃっ」
「子供じゃないなら体ぐらい自分で洗って!」
「汚れた格好でお客さんの前には出られないでしょ!」
すかさず苦情を浴びせてくる子供達にトトルンはべえっと舌を突き出すと、乱暴に体を拭きながら、タオル一枚の姿で自分の寝床にのしのしと戻っていく。
「んもー! 裸で歩き回らないでっ!」
「メグちゃん! あなたも着替えないとよ!」
トトルンの後ろをメグが怒りながら追いかけていき、さらにイルメラが追いかけていく。
その様子を微苦笑しながら見送ると、ジルベールは弟子の背を叩いた。
「さあ、アルテュールも着替えておいで。風邪を引くといけない。私はトトルンを追いかけるとしよう」
「はい、先生」
アルテュールは疲れ果てた顔で笑うと、洗い桶の片付けを始めたフォルカーを振り返る。
「ここはやっておく。行っておいで」
フォルカーに頷かれ、アルテュールはありがたくその場を離れた。
一座自慢のベテラン軽業師をなんとか人前に出せる格好に仕上げようとする傍らで、興行の準備はずいぶん進んでいたようだった。いつの間にか小さな祭り会場のようになっていた広場を、アルテュールは濡れ鼠で小走りに行く。相変わらずどこかでトトルンが鳴いていて、やれやれと小さく笑った。
海都での興行は、明日からだ。