雪の月夜の小散歩
ラベンダーベッドに居を構えて、初めて迎えた冬。
頭まで布団に潜り込んでいたヴァヴァロは、忍び寄る寒さに耐えかねて目を覚ました。
布団の端から少しだけ顔を出し、重い瞼を薄くこじ開ける。室内には鎧戸の隙間から月明かりが差し込むばかりだ。
朝がまだ遠いことを確かめると、安堵して目を瞑る。ついでに布団をもぞもぞと掻き寄せ、冬の夜の冷気をすっかり遮断してしまうと、瞬く間に睡魔が襲って──くるはずだった。
ヴァヴァロは布団にくるまったまま、ベッドの上にむくりと身を起こした。ぐずぐずと葛藤することしばらく、諦めたようにベッドから抜け出すと、椅子にかけてあったブランケットを肩に羽織る。
朝まで我慢するつもりだったが、寒さにすっかり刺激されてしまった。これでは落ち着いて眠ることもできない。
何の話かと言えば、つまるところ厠に行きたくなったのである。
「うう……さむ……」
自室を出た途端、思わずぼやき声が漏れた。ブランケットの上から自分の肩を抱き、寝ぼけた足取りで廊下を行く。皆が寝静まった家はしんとしていて、居間にある柱時計の音が二階まで響いてきていた。
よたよたと一階に下りる最中、時計が鳴った。その音をぼんやりと聞きながら、勝手口から外へと出る。いっそうの寒さに身を竦め、雪の照り返しで些か眩しい月光にしょぼしょぼと瞬いた。
ヴァヴァロは少しだけ足を止め、ほとんど開いていない目で雪が積もった庭を見渡す。自分がベッドに潜り込んだ時は、雪はまだしきりに降っていたはずだが、どうやらすっかり止んだらしい。
(起きたら雪かきかな)
そんなことを思ったところに冷たい風が吹き、堪らず身体を震わせると、そそくさと先を急ぐのだった。
「ヴァヴァロ、ヴァヴァロ」
忍び声に呼び止められたのは、自室に戻ろうと階段に足をかけたときだった。振り返れば、男性陣の私室がある廊下の端から、人影がひょっこりと顔を覗かせている。
「あれ、アルテュール? まだ起きてたの?」
暗闇に目を凝らし、その人影が相棒のものであることを確かめると、欠伸をしながら尋ねる。
アルテュールは「んや」と頭を振り、
「ちょっと目ぇ覚めてさ。……もう寝る?」
どういうわけだか一瞬だけはにかむように口を噤むと、小さく首を傾げた。
「寝るけど……」
当然である。だって、まだ真夜中もいいところだ。意識して聞いていたわけではないから曖昧だが、時計は先ほど四回、いや三回鳴ったように思う。起床するには早すぎるし、別に目が冴えてしまったわけでもない。寝る以外に何があると言うのだろう。
怪訝に思っていると、それがそのまま顔に出ていたのか、アルテュールは自分でも可笑しそうに笑う。そうしてまたしばらく、妙に気恥ずかしそうにしていたかと思うと、やがて遠慮がちに口を開いた。
「なあ、散歩行こうぜ」
「んえぇ?」
唐突な誘いに思わず奇妙な声を上げてしまう。
「散歩って、真夜中だよ」
「そうなんだけどさ。ほら、今日、満月だろ? 雪の照り返しで外がすごく明るいんだ。雪が積もったラベンダーベッドも今夜が初めてだし、どんな雰囲気か見にいきたくてさ」
それに、とアルテュールは付け加える。
「ほら、こういうのは一人で行っても寂しいだろ。誰か起きてこないかなと思ってたんだ。行こうぜ。な?」
期待に満ちた目で返事を待つ相棒に、ヴァヴァロは爆発したままの頭をくしゃくしゃと掻いた。
たまにこういう突飛なことを言い出すのだ、アルテュールという男は。普段は自分やミックを嗜める立ち位置を保持しているくせに、急に想像の埒外な言動を取ってこちらを驚かせてくる。
正直なところ、こんな起き抜けの急な誘いでなければ、二つ返事で快諾していたところだが。冷え込みが厳しいこの時分に散策というのは、さすがに躊躇するものがあった。
「……じゃあ、コート取ってくる」
──あったのだが、無下に断って落胆させるのもなにやら忍びなく。
「おう。玄関前に集合な」
渋々ながらも頷いてくれたヴァヴァロに、アルテュールは人懐こい笑みを浮かべた。
***
「わ、こんなに積もってたんだ。真っ白だね」
部屋に戻って、寝巻きの上からコートを着て。寒冷地用のブーツを履いて、ついでにめちゃくちゃだった髪も梳かして。
最低限の防寒対策を済ませて外へと繰り出せば、そこには月夜の銀世界が広がっていた。
黒衣森にありながら、ラベンダーベッドの空は広い。その夜空に、今夜は皓々と輝く満月が浮かんでいる。さらにその月光が雪を照らし、周囲は薄明かりに包まれていた。
「だろ? こりゃあ見とかなきゃ損だと思ってさ。居住区内なら真夜中でも、まあ危なくはないだろうし」
地面にも、生垣にも、屋根にも。物干し竿から街灯まで、ラベンダーベッド中が雪に覆われていた。すっかり表情を変えた景色を前に、依然として寝ぼけ気味だったヴァヴァロの頭はようやく冴えてくる。
湖上に浮かぶ、雪に閉ざされた美しい新興集落。人々が寝静まる中、真っ新な雪の道を月と雪明かりを頼りに散策するのは、なるほどたしかに楽しそうだ。
「ね、どっちに行く? 桟橋? 商店街?」
ヴァヴァロはアルテュールを振り仰いだ。
気分が乗ってきたらしい相棒に、アルテュールも楽しそうに顎を撫でる。
「せっかくなら一周したいし、こっちの道から樹幹商店街まで上がってさ、反対の道から円庭に下りてくってのはどうよ? 商店街まで行けば見晴らしもいいだろうし」
「いいね。行こ」
白く均された雪景色を乱してしまうのは、少しだけ勿体ない気もするけれど。しかし、それはそれ。ヴァヴァロはぴょんと前に跳ねると、さっそくとばかりに新雪の踏み心地を味わう。アルテュールもにこにことそれに続いた。二人きりの、深夜小散歩の開始である。
「階段が見えねえや。足元気ぃつけてな」
「ん」
人々の眠りを妨げぬよう、声は潜めて。敷地から出ると、二人は坂の上、樹幹商店街に向かって歩き出した。
「黒衣森って、いつもこのくらい積もるの? これからもっと降る?」
サク、サクと一歩ごとに雪を踏みしめる音がする。その音に耳を澄ませながら、ヴァヴァロは首を傾げた。
アルテュールは視線を宙にやる。
「年によるかな。今年は早いなとは思ったけど。この調子なら、今年はけっこう積もるかもなー」
積もった雪の高さは、ヴァヴァロの足首がすっぽり埋まるほど。もしこの調子で降り続いたら、呑気にはしゃいでいる場合ではなくなりそうだ。
「冬の備え、ちゃんとしておかないとだね」
「だな」
なにしろここに住んでいる。冬が過ぎ、春が来て、また季節が一巡りしてもここにいる。冒険の拠点として選んだこの土地で、旅に赴く傍ら、家の管理も心掛けねばならない。
雪かきの道具は足りるだろうか。生活の端々で使うシャードの類は足りていたか。いつもツェルフアレンが買うなり掘るなりしてきてくれるが、この雪の中、足の悪い彼に調達を任せきりにするのは、さすがに申し訳ないというものだ。明日──すでに今日だが──起きたら改めて確認してみよう。
そんなことを思いながら辺りを眺めていたヴァヴァロは、東側の川の向こう、邸宅の窓の一つを指差した。
「ねえねえ、あそこの窓、明かりついてるよ」
「ほんとだ。夜更かしだな」
「人のこと言えないけどね、私たち」
「まあなー」
二人はくすくすと笑い合う。
「何してるのかな、あの窓の人」
「案外、明かり消し忘れて寝ちゃったのかもよ」
「じゃあ、朝起きたら蝋燭が燃え尽きててしょんぼりだね」
「そうかも」
何くれとなく喋り合い、のんびりと坂を上っていく。やがて樹幹商店街まで来ると、静まり返った気配に呑まれ、二人とも自然に口を噤んだ。
ほのかな明かりに包まれた人気のない商店街は、知っているのに知らない場所のような、不思議な雰囲気を漂わせていた。
こんな夜分にここまで来るのは初めてだから、見慣れない感じがするのも当然なのだけど。ひどく物珍しく感じられて、ヴァヴァロはしげしげと周囲を観察する。
「ヴァヴァロ」
アルテュールに呼ばれて顔を上げると、そのまま空を見上げるよう無言で促された。素直に夜空を仰ぎ、そして目を奪われる。
「……きれいだね」
「うん。来てよかった」
満月と星々が冴え冴えと輝いていた。開けた高台から眺める月はまた格別に美しく、二人はしばし、言葉もなく見惚れてしまう。二人占めするにはあまりにも贅沢な、それほどに見事な冬の皓月だった。
二人は顔を見合わせ、すぐに笑い合って視線を天に戻した。わざわざ言葉にする必要もない。この雪月夜にしばし浸っていたい気持ちは、二人とも同じなのだから。
***
「北洋ってさ、やっぱ冬はすげえ寒いの? じいさんと暮らしてたとき、どうだった?」
樹幹商店街から西側の道へと下りていき、ヤイヌ・パーの円庭に向かう最中。アルテュールに尋ねられ、ヴァヴァロは「ううん」と小さく唸った。
「さすがにこっちよりは厳しかったけど、んー、でも寒さで言ったら、クルザスのほうが寒いかも。クルザスは雪もすごいし」
「へえ、なんか意外だ」
生まれ育った荒野の夜。祖父と暮らした北洋の冬。いまこうして暮らしている黒衣森の冬。霊災で寒冷化が進んでしまったクルザス地方の冬。
寒さにも種類があるということを、ヴァヴァロは近頃、つくづく実感させられている。そのいずれが辛いかと問われると、最終的には「寒いのは全部つらい」という結論に落ち着くのだが。
「あ、でもね、冬はオーロラが出たりしてすごかったよ」
「オーロラ?」
アルテュールは目を瞬かせた。
「オーロラって、空に光の幕が出る……?」
あやふやな物言いにヴァヴァロは笑って頷く。
「そうそう、それ。初めて見たときはびっくりしちゃった。神秘的だったな。この世じゃないみたいで、ちょっと怖かったくらい。空に緑のおっきーい帯が何本も出てね、それがゆらゆら揺れるんだよ」
ヴァヴァロは両手を夜空に翳し、なんとか手振りで表現しようと試みる。きちんと伝わっているかは怪しいところだが、アルテュールは興味深そうに目を丸くした。
「へええ、そりゃすごいな。普通に暮らしてて見られるもんなんだ? あーそれとも、現地でもやっぱり珍しい……?」
「頻繁ってわけじゃないけど、冬になったら毎年何度か見れてたかな。えとね、よく晴れた暗い夜なのが大事なんだって。だから冬が一番よく見えるけど、違う季節でもたまに出るらしいよ。おじいちゃんに聞いたら、詳しく教えてくれると思う」
早起きが習慣の祖父も、さすがにまだ夢の中の時分だろう。だが起き出してきたら、北洋の話をあれこれと聞いてみるのもいいかもしれない。
「いつか自分の目で拝んでみたいもんだな。でも北洋か。遠いなー」
白い息を吐きながら、遠い異国の地に思いを馳せているらしいアルテュールに、ヴァヴァロはふふんと胸を張る。
「あっちに行く機会があったら案内するよ。おじいちゃんちのあたりしか分かんないけど」
アルテュールもくしゃりと笑う。
「そりゃ頼もしいや。……お、ヴァヴァロ見てみ。あそこの家、もう星芒祭の飾り出してる」
「ほんとだ。わ、凝ってるね。可愛い!」
雪月夜のラベンダーベッドを行く人影ふたつ。
誰も知らない、二人だけの時間がたしかにそこに流れていた。