帰郷
黒衣森を著しく傷つけた霊災の猛威は、守りが厚かったであろう森都にも容赦なく及んでいた。
白百合の館が近づくにつれアルテュールの足取りは重くなっていく。この数ヶ月の間にも、復旧作業は懸命に行われてきたのだろう。街の主要部こそ見るに堪える程度の手入れがされていたが、霊災の爪痕は目の背けようがないほど街のそこかしこに残っていた。
やがて白百合の館のある通りまで来ると、いよいよ足が止まった。込み上げ続ける不安を抑えつけるように深呼吸をし、なるべく冷静に通りの様子を窺ってみる。もともと日があるうちは人の往来も少ない場所だ。だから通りに人影がなくとも可笑しくはないのだが、それにしても今日はやけに閑散としているように感じられた。
軒を連ねた通りの店々にとりあえず目立った被害がないことを確かめると、アルテュールはおそるおそる進んでいく。じきに館が見えてくると小さく息を呑んだ。知らず知らずのうちに小走りになり、館の前に辿り着くと、森都の民が愛する白百合を嫌味ったらしく描いた看板を凝視するように見上げた。──ここは無事だ。
アルテュールはじっと耳を澄ませた。まだ店を開けるには早い時間だが、中からは微かに人の気配がする。そのことを確かめると、震える手で遠慮がちに扉を叩いた。
一瞬だけ店内の気配が静まったのが分かったが、扉が開く気配はない。アルテュールは再び扉を叩いた。今度は少し、強く。それでも応答はなく、縋る思いで三度、四度と扉を叩いた。揺らし続けていると、ようやく店内の気配がこちらに向いた。ドカドカと荒々しい足音が真っ直ぐと向かってくるのが分かり、アルテュールは固唾を飲む。
「だああ!! 誰だしつけえな!! まだ準備中だよ!!」
乱暴に開け放たれた扉から小柄な──いまとなっては小柄なヒューラン族の初老の男性が姿を見せた。
白髪混じりの短髪。じゃりじゃりとしていそうな無精髭。目元の皺。相変わらずの猫背に、ガニ股の姿勢。
「おやっさん!!」
アルテュールは泣きそうな心地で男を──白百合の館の旦那を抱きしめた。
──ようやく。ようやく一人、知った顔を見つけられた。
「のわっ!? な、なにしやがる!? テメッ、このっ、放しやがれ!! く、熊! 熊ー!! こいつをなんとかしろ!!」
旦那が叫ぶよりも早くこちらに向かってきていた熊は、来訪者が顔見知りであることに気がつくと、警戒の態度を緩めた。熊はアルテュールの頭から足下まで視線を往復させ、目元に皺を寄せて小さく笑った。その笑みにアルテュールは顔をくしゃくしゃにする。
「熊! 笑ってねえで──おお?」
もがいてアルテュールの腕から抜け出した旦那は、大きく飛び退った勢いで熊にぶつかった。その肩を宥めるように熊に叩かれ、旦那はようやく、自分を捕らえていた男の顔を見る。
旦那の表情が警戒から観察へ、そして驚愕へと目まぐるしく変化する。挨拶をしなければと思うのに、アルテュールは言葉に詰まってしまい、泣き笑うような顔を作ることしかできなかった。
「なんだ、アー坊? アー坊か!?」
「うん、おやっさん、久しぶり」
ようやく言葉を絞り出したアルテュールに、先ほどとは打って変わって旦那は破顔した。
「おお、おお! 生きてたか、アー坊! ちっと見ない間にデカくなっちまって、誰か分かんなかったじゃねえか! まったく、押し込み強盗かと思ったぞ!」
旦那は背伸びをし、アルテュールの頬を嬉しそうにぺたぺたと撫でた。そのガサガサとした掌の感触に、また堪らなく泣きたい心地になった。
「ごめん。どうしても皆の顔が見たくて。──熊さんも、元気そうでよかった」
自分を見上げてくる若者の頭を熊は優しく叩いた。
成長期を迎え、背丈が倍以上伸びたにも関わらず、熊のほうがまだずっと上背があった。
その熊の、エレゼン族にしてはずんぐりとした身体をアルテュールは抱きしめる。熊は驚いたように身じろぎをし、そして慣れない様子でアルテュールを抱きしめ返した。分厚く大きな手がアルテュールの背をトントンと叩いた。
「よせよせ、男同士で気色悪いやい。さあほら、上がった上がった。くたびれた顔しやがって、疲れたろう、んん? 茶でも出してやるから、とりあえず座ろうや」
言葉とは裏腹に、抱擁を交わす二人を旦那は和やかな顔で手招きした。
「それで、街の外は一体全体どうなってんだい。ウルダハまでの街道は割れちまったって話じゃないか」
白百合の館の一階、まだ客を入れていない酒場のカウンター。
その一席に案内され、旦那が淹れてくれた温かな茶──非常に珍しいことに、本当に無料で提供された茶──に一息ついたところで女将に尋ねられ、アルテュールはコップに目線を落とした。
「だいたい割れるってどういうこと? 橋でも落ちたの?」
銀の髪の娼婦が訝しそうに首を傾げた。
カウンターの周りには館の娼婦と下男たちも集まっていた。旦那が開店前に通した人物を覗きに来たら、すっかり背が伸びた馴染みの顔がいたものだから、皆開店の準備を放り出して集まってきたのである。
しかもその客は、外つ国を旅して回っている冒険者だ。森都の外の様子が気になるのは誰も彼も同じようで、女将が散るように命じて素直に仕事に戻った者たちも、耳だけはカウンターに向いていた。
海都から砂都、そして森都に至るまでに目の当たりにした光景をなんと表現すべきか、アルテュールはすぐに言葉にできなかった。見たままを語ると滑稽なほど大仰な表現になってしまいそうで、──本当に、ただの夢の出来事ならどれほど良かったことだろうと、そんな気持ちが先立ってしまう。
「荒野が割れて崖が出来たんです。霊災の影響で……。それで街道が分断されて、ようやく仮の橋が架かったから、なんとかここまで帰ってこれたんですけど」
どうにか簡素に纏めようとしたアルテュールの言葉に、娼婦たちはピンとこない様子だった。顔を見合わせる彼女たちをよそに、女将は細くため息をつく。
「そうかい。やれやれ、これで少しは人と荷が動くといいんだが」
「……客入りはあまり?」
遠慮がちに尋ねると、女将は肩をすくめる。
「あるにはあるさ。ただまあ、人が動かないことにはどうしてもね」
なるほど、とアルテュールは再び視線を落とした。娼館という商売柄、客は都市民だけでなく、森都への来訪者も多かったはずだ。人の流入が減った分、客も減ってしまっているのだろう。
「……通行に制限がかけられていたから、以前のような往来はまだ期待できないと思います」
アルテュールの助言に「分かった」と女将は考え込むふうだった。
「あーあ、憂鬱。早くぜーんぶ元通りになったらいいのに。私、もう嫌だわ。変な客を相手にするの」
隣に座っていた銀の髪の娼婦はカウンターに頬杖をついた。アルテュールは眉を顰める。
「変な客?」
「そーよ。変な客。霊災前なんて特に酷かったんだから。ずっと一人でぶつぶつ言ってる気味の悪い客とか、どう見ても目が逝ってる客とかね」
そうそう、と下男も顔を顰めた。
「もうじきこの世は終わる、とか喚いて暴れる客もいたんすよ。あの時は参ったな。熊さんが取り押さえてくれたからよかったけど」
別の娼婦は暗い顔で俯いた。
「私は最近の客のほうが嫌よ。辛気臭い人が多いんだもの。家族を亡くしたとか、家を亡くしたとか。……そういう辛い話、あまり聞きたくないわ。こっちまで気が滅入っちゃう」
返す言葉が見つからず、アルテュールは口を噤む。思わず誰もが黙り込んで、しんと寂しい空気が酒場に満ちた。
しかしその空気は、すぐに軽快な足音に破られた。店の奥から一人の娼婦がひょっこりと顔を覗かせる。誰かを連れてきたらしいその娼婦は、アルテュールの姿がまだカウンターにあることを認めると、店の奥から人影を引っ張り出した。
「ほらほら、早く早く。アルテュール! エマ姐さんが来たわよ!」
現れた人影にアルテュールはたまらず息を呑んだ。思わず椅子から腰を浮かせる。
「──エマ姐」
金の髪に、灰色の肌。そして、冷ややかな紫の瞳。最後に会った時と変わらぬ姿で現れたエマに、アルテュールは胸が詰まりそうになった。
「ああ」
エマは言葉に詰まってしまった男の顔をしばらく怪訝そうに見つめ、それがよく知る男の背が伸びた姿なのだと理解すると、大して関心もなさそうに呟いた。
「そう、来てたの」
エマの素気無い言葉にアルテュールは少し笑ってしまう。ようやく肩の力が抜けた気がして、そのまま椅子に腰を落とした。──よかった、と思う。いつもの彼女だ。
「エマ姐、もっと言うことないの? 大変なところをせっかく会いに来てくれたのに」
「そうよそうよ。相変わらずそっけないんだから。ご贔屓さんじゃない」
だが周りの者はエマの態度を良しとしなかった。娼婦たちはエマを無理やりカウンターまで押してくると、アルテュールの隣に座らせようとした。エマは呆れたようにお節介焼きたちの顔を見やる。
「店の支度は」
「いいからいいから。ちょっとくらい構わないでしょ、女将さん?」
女将は面白そうに笑ってアルテュールの隣をパイプで指した。エマは不服そうに指定された椅子に腰を下ろす。
「ひ、久しぶり、エマ姐」
隣に座られ、アルテュールは思わず緊張してしまう。こうして並ぶと、エマと自分の背丈がすっかり変わらなく、否、自分のほうが高くなったことがはっきりと分かって、妙にどぎまぎしてしまった。
「背が伸びたのね」
「う、うん」
興味がなさそうなエマの言葉にアルテュールは微苦笑した。本当に相変わらずだと思う。その変わらなさが、いまはありがたかった。
「あの、それで」
アルテュールは静かに息を整えると、遠慮がちに周囲の人々に見た。
「森の方はどうなんですか。その……西の方は特に被害が酷いとか」
心を鎮めてから話し出したつもりだったのに、唇は勝手に震え出しそうだった。その震えを抑えるのに気を取られ、エマがちらりと寄越した視線にアルテュールは気がつかない。
「らしいね。西の方はダラガブの欠片が落ちて、潰れちまったって聞いてるよ。山火事もまだ収まってないんだと」
「そう……ですか……」
女将のあっさりとした言葉にアルテュールは目を伏せた。そのままきつく目を瞑ってしまいたい心地だった。──ではやはり、自分の目で確かめたあの光景は、紛れもなく現実だったのだ。
「北の方も山が崩れちゃったって、昨日来た商人が言ってた」
アルテュールの様子には気がつかず、娼婦たちは続ける。
「どうするんだろうね、グリダニアに避難してる人たち。森中こんな有様じゃ、帰りたくても帰れないじゃない?」
「そもそも帰る土地が残ってるかどうか、ねえ」
「精霊はなんて言うのかしら。全員グリダニアに置いたままとはいかないでしょ」
アルテュールは手を握り込む。胃が冷え冷えとしてくるのが分かったが、自分から話を振った手前、彼女たちの話を遮るわけにもいかず、ただ黙って耳を傾け続けた。
「おめえら、アー坊を挟んでピーチクパーチクすんのはやめてやれよ。すっかり困っちまってるじゃねえか。ほら、食いな」
エマが口を開くよりも早く、旦那のしゃがれた声が娼婦たちの姦しい声を割った。
作りたてのムントゥイ豆料理──これは有料である──を運んできた旦那はアルテュールの前にどかっと皿を置く。
アルテュールはスプーンを手にすると、口の中に料理を無理やり押し込んだ。
「おいしいです」
「おうおう、そうかい、たんと食えよ」
旦那はにっと笑う。
本当は、あまり味を感じなかったけれど。いつもの料理を頼んだのだから、きっといつもと同じ味付けのはずだろう。それならきっと、おいしいはずだ。旦那の心遣いで多めに盛られた料理をアルテュールは機械的に口に運び続けた。
「じゃ、支度に戻るよ」
役目は終わったとばかりに席を離れようとしたエマを女将は引き止めた。
「まあ待ちなって。アルテュール、今夜はどうすんだい。エマを捕まえておくならいまのうちだよ」
女将に尋ねられ、一瞬、豆を喉に詰まらせそうになる。女将はつまり、エマを買うか買わないか聞いているのだ。
アルテュールはスプーンを皿に置いた。
「これを頂いたら、今日は帰ります。もう少し街の様子を見て回ってみようかと」
実入りが良くなったら気前良く遊んでいけ──とは、冒険者としてグリダニアを発つ時に女将に言われた言葉だった。
一座を離れ冒険者になるまでの間、白百合の館には散々世話になった。行く場を失くして行き倒れたところを拾われ、医者を呼んでくれ、その後は日々の食事の場を提供してくれたのだ。
医者にかかった費用は後からきっちり精算させられたが、当時のアルテュールにとって白百合の館は間違いなく命の恩人であり、同時にグリダニアでの貴重な居場所だった。
だから「恩義に感じているのなら、我々の流儀に従って存分に金を落としていけ」という女将の言葉に従い、懐に余裕があるときはなるべく館で遊んでいくようにはしていたのだが。
いまは到底そんな気になれず、遠慮がちに女将の提案を断った。実際、街の様子を見て回りたいのも本当だ。冒険者ギルドに顔を出した後は、まっすぐ白百合の館を目指して来たものだから。
「そうかい? エマに会いたくて来たんだろう? そう急がなくてもいいじゃないか」
アルテュールは緩く頭を振る。
「皆さんにもお会いしたかったですよ。グリダニアには他に知り合いもいないし、森はこんなだし……。女将さんたちの顔を見て、やっとほっとできました」
若者の少しも斜に構えたところがない言葉に、女将と旦那は目線を交わし合った。
「お、おう、そうかい」
「ったく、アー坊はよお。そういう照れくさいことを素面で言いやがって」
「はあ……」
落ち着かない様子で咳払いをする二人に、そんな変なことを言っただろうか、とアルテュールは首を傾げてしまう。
女将はすっかり上機嫌になって笑う。
「ふ……分かった。今夜は店の奢りだ。エマを抱いていきな」
「え!?」
「はあ!?」
突然の提案にアルテュールとエマは揃って声を上げた。
「冗談じゃない。誰がタダ働きなんてするもんかい」
先ほどまでの素気無い態度はどこへやら。不機嫌さをむき出しにするエマに女将はにやつきながらパイプを突き出した。
「いいじゃないか。お前さんだって分かってるだろう? ああ言っちゃいるが、一番はお前さんに会いたかったに決まってるじゃないか。たまには常連にサービスしてやったらどうなんだい」
「はっ、そんなに客を逃したくないなら自分で相手をすればいいだろう」
カウンター越しに身を乗り出し、エマは女将に食ってかかる。
その発想は盲点だったのか、女将はアルテュールをちらりと見やった。
「ふむ、たまにはそれも悪くないかもねえ?」
「あの、いえ、ほんとに、大丈夫なんで」
その視線にぞっとするものを感じ、アルテュールは慌てて手を振った。
「おいおいお前、俺がいるのにそれはあんまりじゃないかい」
女将の言葉を本気にしたのか、旦那は女将の腕を引いた。
「やだね、冗談だよ、お前さんより良い男がこの世にいるわけないじゃないか」
女将は可愛らしく自分に縋る旦那に口付けた。
「まーた始まった」
「おえー」
人目も憚らずに睦み合い始めた二人に、娼婦と下男たちは呆れたように肩を落とした。白百合の館では度々繰り広げられるお馴染みの光景に、アルテュールはつい苦笑してしまう。
銀髪の娼婦は悪戯な瞳でエマとアルテュールを交互に見やった。
「アルテュールも遠慮しないで乗っとけばいいのに」
「ほんとですよ、もったいない」
下男もぼそりと呟く。
途端にエマの鋭い睨みが飛んできて、三人は縮こまった。
「お金払わないのは気が引けるし……。あの、じゃあ、はい」
なんやかんやと店を出るタイミングを逃してしまったアルテュールは、遠慮がちに手を挙げた。
「……部屋が埋まらなさそうなら、泊まらせてもらっていいですか」
用意された湯桶で旅の汚れを綺麗に落とすと、アルテュールは安堵とも疲労ともつかぬ息を深々とついた。
泊まるつもりまではなかったが、結果的には館に滞在して正解だったかもしれないと思う。
なにしろ街がこの状況だ。冒険者ギルド併設の定宿が空いている保証もなく、謂れのない嫌味や小言を警戒しながら別の宿を探すのも億劫だった。
館ならば大きめの湯桶も貸してもらえるし、下手な宿よりもよほど部屋が整っている。なにより同族の誼である程度の融通も利かせてもらえるから、こういう時にはありがたかった。無論、ただの宿よりは高くついてしまうが。
アルテュールは借り物のタオルで髪の水気を拭きながら、階下の気配に耳を澄ませた。どうやら客が入り始めたらしく、酒場は賑わい始めているようだった。
店も客も、こんな時でもたくましいな、と思う。それとも、こんな時だからこそ、と思うべきなのだろうか。
部屋の窓を開けると、涼しい夜風に乗り、寂しげな虫の音が届いた。その虫の音に比べ──森の声はなんとか細いことだろう。
アルテュールは目を伏せかけ、すぐに暗い思いを振り払うように頭を振った。気を紛らわせようと鞄から一着の服を引っ張り出し、袖の長さを体に当てて確かめた。
霊災の混乱の只中で、共に避難したルガディン族の女性に譲られた、男物の服だった。
エレゼン族の成長期は二十歳前後に訪れる。他の者がそうであるように、ようやく成長期を迎えたアルテュールの体は急激に身長を伸ばし始め、すぐに手持ちの衣類では丈が足りなくなってしまった。
どうにか誤魔化しながら、衣類よりも防具類の調達を優先して過ごしていたが、霊災の影響で着るものに気を配る余裕もなくなってしまった。そんなある日にルガディン族の女性と再会し、譲ってもらった服だった。
──夫のものなのだ、と女性は寂しそうに笑った。
船乗りの夫はあの日漁に出ていて──まだ戻らないから、と。そう言ってアルテュールに服を譲ると、女性は雑踏に消えていってしまった。
アルテュールは俯く。たくさんの小さな親切に生かされて、なんとか森まで帰り着くことができた。──でも。
不意にノックの音が部屋に響いた。アルテュールは驚いて顔を上げる。
「はい?」
なんだろう、と思う。宿の者だとは思うが、要件は一体。客入りが良いからやはり別の宿を探せ、とでも言いにきたのだろうか。すでに支払いも済んでいるし、さすがにそれは勘弁してほしいが。
アルテュールは訝しみながら扉を開け、そして来訪者の姿にぎょっと目を見開いた。
「エ、エマ姐!?」
酒場の喧騒と明かりが扉から暗い部屋に流れ込んできた。その賑わいを背に、エマはいかにも不機嫌そうに立っていた。
「え、なに、なんで、どうしたの」
エマは腕を組み、耳の先を赤くしながら上擦った声を出すアルテュールを忌々しそうに見上げた。
「下の連中がお前の相手をしてやれってうるさいんだよ。ほら、ボサッとしてないでとっととどきな」
すっかり固まってしまったアルテュールの体を無遠慮に押し退けると、エマはずかずかとベッドに向かっていく。
「おおお俺、今夜は本当に泊まるだけのつもりで」
慌てて扉を閉め、自分を引き留めるように追いかけてきた男をエマはぎろりと睨んだ。
「当たり前さ。まさか期待してるんじゃないだろうね」
「いえっ、まさかそんなっ」
エマの言葉にアルテュールは大仰な身振りで手を振る。混乱と早とちりとで顔が一気に熱くなった。
エマは一人動転しているアルテュールをよそにベッドの端に横たわると、面倒くさそうに空いたスペースを叩いた。
「ほら、さっさと横になんな。アンタが寝たら私も下に戻る。それまでここで休ませてもらうよ」
そういうことか、とアルテュールはようやく肩の力を抜いた。
「ええと、じゃあ、失礼します……」
「いいかい、指一本でも触れたら承知しないからね」
「ハイッ」
ベッドに頬杖をついているエマに触れないよう、慎重に体を横たえると、少しずつ位置を微調整しながら仰臥した。アルテュールがベッドに落ち着いたのを見届けると、エマはそのまま目を閉ざした。
しばらく天井を眺めていたアルテュールは少しだけ顔を傾け、窓から差し込む月光に照らされたエマの顔に目をやった。扉を閉してしまうと酒場の喧騒もどこか遠くの出来事のようで、部屋には虫と風の音が微かに響くばかりだった。
「なに」
視線に気がついたエマは目を閉したまま尋ねてくる。
「……無事でよかった」
アルテュールの静かな声にエマはちらりと片目を開け、やがてため息をついた。
「何回同じことを言わせたら気が済むんだい。……娼婦に情を寄せるのはやめな」
その言葉にアルテュールは小さく笑う。
「今度はなに」
エマは怪訝そうに眉を寄せた。
「相変わらず律儀だなと思って。不愉快だからやめろとか、迷惑だからやめろとか、そういうふうには言わないからさ、エマ姐は」
同じことを述べているようでいて、両者は全く違う──と、アルテュールは思う。
自分などに想いを寄せられても迷惑なのは事実だろう。自分は数いる客の一人に過ぎないのだから。ただエマの言葉は、いつでも若造に対する幾分かの忠告を含んでいた。搾り取れるだけ搾り取って捨ててしまえばよいものを、彼女は決して、そうはしないのだ。
エマは嘲るような笑みを浮かべた。
「こんな密室で客の神経を逆撫でするようなこと、言うわけないだろう」
「言うでしょ、エマ姐は。それを言ったら、最初だけの優しいのだって恨まれやすいんじゃないの」
無垢な男を甘美な態度で堕落に引き摺り込むのはエマの常套手段だ。遊び慣れていない男を初めだけは甘やかし、そしてすっかり貞操観念をなくした頃を見計らって、普段の素気無い態度に戻っていく。後には遊び人になった男が残るだけという寸法だ。
それに、とアルテュールは目を伏せた。
「……ここの人たちまで居なくなったら、俺、森に知り合いがいなくなっちゃうからさ。……本当に、無事でよかった。エマ姐も、皆も」
エマは白けたようにため息をついた。
「分かったから、お喋りしてないで寝な。アンタが寝ないとこっちは仕事に戻れないんだよ」
「うん」
その言葉にアルテュールは大人しく目を瞑る──瞑ろうとした。
体も、心も、どうしようもなく疲れ果てているはずなのに、眠りの気配は少しも訪れなかった。何度瞑ろうとしても瞼は勝手に開いてしまって、それで仕方なく、暗い天井を見つめ続けた。
何も考えていないつもりなのに、暗闇の静寂に身を浸していると、ここまでの旅路で見聞きした光景が、声が、ひとりでに浮かんでは消えていった。
不意に視界が塞がれた。アルテュールはびくりと体を震わせる。エマの掌だった。無理やりに瞼を下され、アルテュールは困惑してわずかに身じろいだ。
「いいから寝な。……くたばりかけの犬みたいな顔色だよ」
人肌の温もりに安堵したのか、それとも動揺したのか。自分でも分からなかったが、なぜか無性に息が乱れて、止める間もなく涙があふれ出た。
──見慣れた海岸線が消えたのを見た。浜に打ち上げれた無数の遺体を見た。生気なく屯す数多の避難民を見た。割れた大地を見た。天高く吹き出した異様な結晶を見た。たくさんの瓦礫を取り除いた。多くの遺体を引き揚げた。数えきれないほどの穴を掘った。喧嘩を仲裁した。求められれば一時の慰めに歌った。群れをなして移動する人々に混じり森を目指した。橋を架けるのを手伝った。あまりにも多くの出来事が、瞬く間に過ぎていった。
それでもまだ、立っていられた。自分はまだ、生きている。あの霊災を幸運にも、五体満足で生き延びることができた。だからいまは、辛くとも大丈夫だと。──でも。
森の西の方は壊滅的な状態だと、森都から砂都を目指す一団に聞かされた。確かめずにはいられなかった。森都を目指す道中、強引に木に登って──そして潰れた森を見た。
なぜつまらない意地を張っていたのだろう。帰る機会はいくらでもあったのに、何度も何度も故郷の様子を気にかけておきながら、たったの一度も顔を出さずに。
気まずいのなら気まずい顔のまま会いに行けばよかったのだ。たったそれだけのことの、いったい何が難しかったというのだろう。
そうして皆の顔を、声を、懐かしい集落の姿を、鍾乳洞を、またねと別れた友の顔を、美しい果樹園を、もう一度だけでも目に焼きつけておけばよかったのに。
「……ごめん……」
涙がエマの掌を濡らした。泣きたくなんてないのに、涙はとめどなくあふれ続けた。
奥歯を噛み締め、なんとか震える声を抑えようとするアルテュールの目を、エマは黙って塞ぎ続けた。