いつもの夜に彩りを

「アンタ、この間の兄ちゃんだろ? どうだい、今日も歌っていかないか」
 夜の帷が下りはじめた砂都ウルダハの一角。
 宿に戻る前に食事を済まそうと入った手近な酒場で、四人は腰を落ち着けたところだった。
 アルテュールの姿を認めるなりいそいそとテーブルにやってきた初老の店主は、注文を取るよりも早く、待ち侘びていたように尋ねてくる。
「先日はどうも。覚えていてくださったんですか」
 慣れた様子で応えるアルテュールに、店主はにこにこと人懐こい笑みを浮かべた。
「あんなに上手く歌われちゃ忘れようがないさ。またあの兄ちゃんが来ないかって、店の者とも話してたんだよ。ほら、この間のあの曲、グリダニアの……なんと言ったか、あれをまた聞かせとくれよ」
「それは光栄だな。そういうことなら、喜んで」
 アルテュールは破顔すると、ヴァヴァロたちに目配せをして席を立った。〝先に食べていてくれ〟の合図だ。
 こういうことは珍しくない。今日のように店側から頼まれることもあれば、楽器に気がついた客が〝酒の席を盛り上げてくれ〟と囃し立ててくることもある。気分がいい日には、アルテュール自ら歌っていいか店主に尋ねることもあった。
 我らが吟遊詩人を送り出すと、ヴァヴァロたちは遠慮なく給仕に食事を注文する。出会った当初こそ彼の戻りを待ったものだが、どうやらそうした気遣いは本当に不要らしいと分かって以来、自分たちも彼の歌を肴に食事を楽しむことにしていた。
 それに──、
「これ、店の奢りです。すみませんね、お仲間さんを引っ張っていっちゃって」
 頼んだ食事よりも先に、給仕はナッツとドライフルーツを盛った皿をテーブルに運んでくる。
 ──それに、自分たちもこうしておこぼれに与れたりする。気前よく盛られたツマミを前に、ヴァヴァロとミックは密かに喜びの視線を交わした。
「いいんですか、こんなに」
 恐縮するエミリアに給仕は屈託なく笑う。
「いいんです。もっかいあの歌声が聞けるなら安いもんですよ。ゆっくりしていってくださいね」
 なるべく長居をして、その分歌っていってほしいということなのだろう。アルテュールはここの店主によほど気に入られたようだった。
 給仕に礼を述べると、ヴァヴァロはさっそくナッツをいただいた。
「アルテュールのおかげで得しちゃったね」
「ほんとだね」
 三人で笑い合いながら、ヴァヴァロは店の隅に設置されたごく小さな舞台に目をやる。アルテュールは店主となにやら談笑しながら着々と準備を進めていた。舞台脇の小さなサイドテーブルには、酒が注がれたらしきコップ──これもまた店の奢りか──と、裏返しのシャポーが置かれている。そのシャポーに硬貨を数枚入れると、アルテュールは舞台上の椅子に腰を下ろした。
「始まるみたいだよ」
 アルテュールが竪琴を抱えるのを見て、ヴァヴァロは声を潜めた。ミックとエミリアの視線も舞台に向かう。
 ──不思議だな、とヴァヴァロは思う。
 何度目の当たりにしても不思議だ。彼は──アルテュールは舞台に立つと、ふっと蝋燭の火が揺らぐような刹那の間に、纏う空気を変えてしまう。
 竪琴の澄んだ旋律に、店内のざわめきがわずかに静まった。手を止めて舞台を見る者、一瞥をくれて団欒に戻る者、端から興味がない者。小波のように押し寄せる視線の数々を艶やかに笑って受け止めると、アルテュールはゆっくり唇を開く。
 深みのある声で歌われるのはグリダニアのものだ。移り変わる森の季節と、慈しみ合う恋人たちの平穏な日々を穏やかに、しかしどこか切なげに歌った曲──。
「いい歌ですよね」
 ああ、この愛おしい日々がいつまでも続きますように、と。祈り、願い、噛み締めるような歌に聞き入っていたミックがこぼすように呟く。
「古い歌なんだっけ」
 グリダニアでは有名な歌らしいが、あいにくウルダハ領生まれのヴァヴァロはそのあたりの事情に詳しくない。
 エミリアは歌に耳を傾けながら頷いた。
「うん。少し昔の曲だけど、音楽堂で演奏会をやるときなんかは、いまでも定番なんだよ」
「へえ」
 グリダニアといえば精霊信仰と奇祭の印象が強いから、真っ当な演奏会というものが逆に想像しにくいけれど。こうした歌がたくさん聞けるのなら、冒険の合間にいつか行き合ってみたいものだ。
 そんなことを思いながら、ヴァヴァロは周囲の様子が変わっていることにふと気がつく。
 歌に対してまばらだった関心が、いまは一体感を持って小さな舞台に向けられている。打ち寄せた波がやがて返っていくように、アルテュールに注がれた視線は、沁み渡る歌声として人々の間を広がっていく。
 飲食の手を止めて、あるいは囁き合って歌に聞き入る人々の端に、腕を組んで熱心に傾聴する店主の姿を見つけ、ヴァヴァロは微笑んだ。
 衆目のある中で歌うのがどんな気分か、緊張や不安はないのか、ヴァヴァロには分からないことだらけだが。これほど熱くなってもらえるのは、歌手冥利に尽きるに違いない。
 やがてアルテュールがしっとりと歌い終えると、心地良い拍手が店内に満ちた。その拍手にアルテュールはにっこりと笑んで応える。
「アルテュール君が歌うとやっぱり格別な感じがするな」
 感じ入っているエミリアに、ミックもしみじみと頷いた。
「そうですね、惹き込まれるっていうか、胸を打つものがあるっていうか」
「ほんとに。……いい夜だな」
 エミリアは余韻に浸るように目を瞑る。その横顔に一瞬、はっと心を奪われた様子のミックが慌てて目を逸らすのを目撃して、ヴァヴァロは苦笑を噛み殺した。同じ歌を聞いても、抱く感情はきっと人それぞれなのだろう。
「私たち、もしかして贅沢かな? アルテュールの歌、いつもタダでたくさん聞けて」
 客からリクエストでもあったのか、アルテュールはさっそく次の曲を歌い始めていた。先ほどよりも明るい曲調に、酒場はにわかに活気づいてくる。その様子をぐるりと眺めてから、ヴァヴァロは二人を振り返った。
「そうかも」
 なにしろ身近な存在だから、彼の歌声はヴァヴァロたちにとってすでに日常の一部だ。だからついつい気安く考えてしまうが、アルテュールの歌は本来、こうして大勢の心を虜にするものなのだ。
 改めてそれを思うと、なんとも贅沢な日々を享受している気がしてきて、三人は顔を見合わせて笑う。
 ようやく食事が運ばれてくると、三人は他の客と共に歌に身を浸しながら、一日の疲れを癒すのだった。


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