朝露

「エミリアさん? おはようございます」
 のろのろと支度をする先輩アルテュールを一人部屋に残し、先に宿の表に出たミックは、近くの茂みの前にしゃがみ込むエミリアを見つけ、首を傾げた。
「おはよう、ミック君」
 エミリアもミックに気がつくと、ローブの裾を払いながら立ち上がった。
 彼女の隣に立ち、ミックは茂みを見渡す。
「何を見てたんですか?」
 エミリアは柔らかく微笑んで茂みを──葉を濡らす朝露を指差した。
「朝露。綺麗だなと思って」
「ああ──
 確かに、そこかしこの草葉が朝露に濡れていた。陽射しを浴びて白く輝く露にミックは笑う。
「本当だ。今日は晴れそうですね」
「そうだね」
 黒衣森の朝だった。まだ肌寒さの残る早朝、じきに儚く消えてしまうであろう朝露は、緑深い森に清涼な煌めきを添えていた。
 あまりにも見慣れていて、言われなければ足早に通り過ぎていたであろう爽やかな景色に、ミックは自然と肩の力が抜けるのを感じた。目線を上げ、朝の森を眺めやりながら、瑞々しい空気をゆっくりと吸う。
 こうしてじっくりと森を眺めるのは、思えば久しぶりだった。広い世界に憧れて冒険者になったが、やはり故郷は無条件に心を落ち着けてくれるように思う。
「ミック君は、朝露集めってしたことある?」
 エミリアになんとはなしに尋ねられ、ミックは目を瞬かせた。
「朝露集め? いえ……魔法の修行、とかですか?」
 エミリアがそうであるように、幻術士は自然の力を駆使する。その力は森の調和を保つため、またときに癒しや戦いの力として使われ、修行も自然の中に身を置いて行われることが多いと聞く。ミックはグリダニアや森で出会う幻術士たちの姿を思い浮かべた。
「ううん、ただの遊び。子供の頃は朝露が降りるとなんだか嬉しくて、よくポット片手に遊びに出てたんだ」
 ミックの反応に、エミリアは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
 ああ、とミックは破顔する。そういう話かと気持ちを楽にした。
「ポットいっぱい集めようとして?」
「そう。朝露で淹れたお茶を飲むぞうって意気込んで家を出るんだけど、こうやって──一枚ずつ丁寧に集めようとしてるうちに、日が昇ってきて消えちゃったり」
 エミリアは朝露に濡れた葉の一枚に指先でそっと触れた。ほんのわずかな揺れに誘われ、大きな朝露がするりと葉の上を滑る。その朝露は周りの小さな露を巻き込みながら、やがて葉先に集うとそのまま地面に滴り落ちた。
「半分くらい集めたところで、うっかりポットをひっくり返しちゃったり。そういえば、ポットいっぱい集められたこと、実際にはなかったかも」
 首を捻るエミリアの横顔に、ずいぶんと可愛らしい遊びをするのだな、とミックは得も言われぬ気分になる。隣に立つ可憐な女性が──当時は少女か──真剣な眼差しで朝露を集める姿が、鮮明に想像できた。
「最後まで丁寧にやろうとするのが、なんかエミリアさんらしいです。俺だったら量優先で、大雑把にやってただろうな」
「集めるのが目的なら、本当は急いだほうがいいんだけどね」
 軽く笑い合い、ミックは森に視線を戻す。
「そうだな、俺は朝露集めはしませんでしたけど──
 黒衣森北部、グリダニアにもほど近い小村でミックは生まれ育った。水車の音が絶えない故郷の風景を思い起こし、ミックは少しだけ懐かしい気持ちになる。呆れながらも自分を送り出してくれた両親は元気だろうか。家業は自分たちが継ぐからと背中を押してくれた弟妹は、今頃どうしているだろう。
「こんな日の朝は、弟や妹と木を揺らして、雨だ雨だーって遊んだり」
「やったやった」
 木を揺する手振りをすると、エミリアも笑いながら頷いた。
 その朗らかな笑顔を少し意外に感じながらも、ミックは心が浮き立ってくるのを感じる。慕う相手に同じような経験があるというのは、やはり嬉しいものだ。
「こう、木の枝で露をバシバシ払って遊んだり──
 饒舌になりかけ、待てよ、とミックは言い淀んだ。
 彼女の可愛らしく繊細なエピソードに比べると、なんとも粗野な思い出話ではないだろうか。ましてやエミリアは幻術士。自然に対して乱暴な、と眉を顰められるかもしれない。まずいぞ、どうしよう──
「うんうん。私もやった」
 あれ、エミリアさんもやってたんだ。意外とやんちゃだな? と、焦りと混乱で鼓動を速めながらも、ミックはどうにか話の方向性を修正しようとする。
「ええと、露まみれの草むらを走りまわって、ズボンをびしょびしょにして親に怒られたり……
「けっこう濡れちゃうよね」
 ごにょごにょと口ごもりながら、なんとか無難な話に繋げると、エミリアはくすくすと笑う。
 ミックは自分に溜息をつきたくなる。ずっと大らかに構えている彼女に比べ、一人で浮かれ一人で焦る自分の情けなさよ。
 ぐっと溜息を呑み込んだミックの頬を、風が柔らかく撫でた。その風は木々を起こすように優しく揺らし、露をはらはらと朝の森に散らす。
 髪をぽつりと濡らす感触、そしてさっと森を明るくした輝きにミックとエミリアは顔を上げた。
 葉も、陽射しも、ゆらゆらと風に揺れていた。その穏やかな動きに身を委ねるように、白露もまたきらりきらりと瞬くように煌めいている。
 思わず言葉を失くして見入り、「綺麗ですね」とエミリアに話しかけようとしたミックは、再びはっとして口を噤む。
 白露に輝く森をじっと見つめる鳶色の瞳。陽射しを受けて艶めく濡羽色の髪。雪のように透き通った白い肌。なによりも、その楚々とした佇まい。
 ミックは慌てて目を逸らした。必死に意識を森に向け、エミリアに見惚れてしまいそうになるのを堪える。
 それでも心までは彼女から逸らせなかった。──ああ、素敵な人だな、と。
 木漏れ日の中に立つ彼女はまるでユリの花のようだ。嫋やかで、それでいて凜と顔を上げていて。佇まいから彼女の為人があふれ出ているかのようだ。
 ミックは密かに深呼吸をした。落ち着け、落ち着けと自分に念じる。さっきまで普通に話せていたじゃないかと。彼女の隣に堂々と並び立てる男になれるまで、この気持ちは封印しておくと誓ったじゃないか、と。この程度で動揺していたら、恋心なんて簡単に悟られてしまう。
 ミックはべつの話題を見つけようと忙しなく頭を回転させた。
 エミリアさんは北部森林の紅葉をじっくり見たことがありますか。晴れた日は川面に紅葉が反射して、息を呑むほど美しいんです。いつか機会があったら、貴女を案内したいです。
 雪の日は好きですか。冬の森って寒々しいですけど、雪が積もるとわくわくしませんでしたか。俺は弟妹と雪だるまを作ったり、木の枝に積もった雪を雪玉で落としたりして遊んでました。
 春の森もいいですよね。冬が終わって芽吹きの季節が来ると、それだけでほっとするというか。俺は花には詳しくないですけど、女性はやっぱり花が好きなんでしょうか。俺が花束を贈ったら、受け取ってくれますか。
 夏の森は伸び伸びしてますよね。日に日に緑が濃くなっていって、森中が元気になるというか。暑い日は弟妹や友人と川遊びもよくしてました。遊ぶついでに魚を獲って帰ったりもして。
 エミリアさんは森のどんなところが好きですか。お気に入りの季節はありますか。やっぱり朝露の降りた朝でしょうか。貴女ともっと話がしたいです。できれば二人で、ゆっくりと。散歩でもしながら。
 ミックは何度も口を開こうとし、そして閉じた。いま喋りだしたら、きっとこの美しい朝の空気を台無しに──なによりも、この景色を満喫する彼女の気持ちに水を差してしまう。
「あっ」
「は、はいっ!?」
 エミリアが突然声を上げ、ミックは盛大にぎくりとする。考えていたことが口から漏れ出ていただろうかと焦った。
 ミックの冷や汗には気がつかず、エミリアは申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんね、一緒にいるのに黙り込んじゃって。つい景色に見惚れちゃって」
 あ、よかった、そういうことか、とミックは胸を撫で下ろした。
「いえ、……リアさんとこうしてるの好きなんで、気にしないでください」
 うっかり想いが滲みでそうになり、中途半端に言い淀んでしまう。それがかえって情けない響きを生んで、ミックは自分を張り倒したくなった。男なら、言うなら言う、秘めるなら秘めるではっきりしろと。
「ありがとう。綺麗だね、本当に」
 目を細めるエミリアに、ミックはぎゅっと拳を握る。
「あの……
「うん?」
 告白、ではないけれど。ほんの少し、好意を示すくらいなら。未熟者にも、許してもらえないだろうか。
「その……朝露集め……俺も手伝うんで……
 顔がかっかと熱かった。視界の端に映る彼女は、首を傾げて言葉の続きを待っている。
「今日はその、もう出発ですけど……ええと、いつかポットいっぱい……一緒に……
 ──ああ、もう、まったく。情けないにもほどがある。
 ミックはきつく目を瞑った。たったこれだけ。たったこれだけ伝えるので精一杯だなんて。
 そもそも朝露集めは子供の頃の話だ。再挑戦したいと聞いたわけでもないのに、自分は何を言っているのだろう。これでは彼女を子供扱いしたようなものではないか。もしかしたら彼女を怒らせてしまったかもしれない。あるいは子供っぽい男だと呆れられたかも。
 また余計なことを口走った。なんでいつもこうなんだ。せっかく二人きりになれたのに、そういうときに限って言わなくていいことを言ってしまう。
 ミックの懊悩をよそに、目を瞬かせたエミリアは、やがて屈託なく笑った。
「ふふ、二人でやったら、きっとたくさん集まるね。そのときはお願いしようかな」
 林檎の花のように可憐な──白露よりもはるかに眩しいその笑顔に、ミックは雷に打たれたような衝撃を受ける。「好きです」と反射的に叫びかけ、すんでのところで声を呑み込んだ。
「そそそういえばまだですかね!? アルテュールさんとヴァヴァロは!?」
 思い切り挙動不審になりながら、大仰に宿を振り返る。
 実際、二人とも遅い。とっくの昔に支度を終えていてもおかしくない程度の時間は過ぎているはずだ。
「ヴァヴァロちゃんはお化粧にもう少し時間がって──あれ?」
 同じように振り返ろうとしたエミリアの視線が、宿とはまったく別の方角へ向けられる。慌てて彼女の視線を辿ると、宿のほど近く、ベンチ代わりの切り株にアルテュールとヴァヴァロが仲良く腰を下ろしていた。
 暢気に日光浴をしていた二人は、ミックたちに気がつくとひらひらと手を振ってくる。
「あれ、え、二人ともいつの間に!?」
「おはよーさん。やー、話し込んでたみたいだからさ。邪魔しちゃ悪いと思って」
「そうそう。声もかけずにごめんね?」
 にこにこと微笑ましそうに見てくる二人に、ミックはそわそわと目を泳がせてしまう。
「え、いや、べつに、邪魔とかそんな」
「いいよいいよー、二人はもう少し話してて。俺たちここでのんびりしてるからさー」
 アルテュールはミックに目配せする。その隣でヴァヴァロもうんうんと頷いた。
「今日は急ぐ行程じゃないしね。いやあ、良い天気だなあ。ひなたぼっこ気持ち良いなあ」
 妙な気遣いはいらないのにと言いかけ、ミックは隣のエミリアをちらりと見る。途端にエミリアと目が合ってどきりとした。
 二人きりの時間を、彼女はどう感じたのだろう。終わってしまったことを残念に思ってくれているなら──
「気を遣わせちゃってごめんね。私が思い出話にミック君を付き合わせてただけなんだ。皆揃ったし、出発しよ」
 あっさりとしたエミリアの態度に三人はがっくりと肩を落とした。アルテュールは苦笑しながら立ち上がると、ミックの背中を励ますように叩く。
……なんすか、もう……
「次はもっと粘れよ」
「べつになんもないですって。行きますよ」
 ミックは咳払いすると、歩き出した皆の先頭についた。盾を手に、何があっても仲間を守れるように立ち回るのがミックの役目だ。
「わっ、つめたっ。なになに、雨?」
 さわさわと優しい風が森の木々を揺らした。その風に攫われた朝露がぽつぽつと落ちてきて、ヴァヴァロが驚いたように顔を拭う。
 エミリアは柔和に笑みながら近くの草むらを指した。
「朝露だよ。ほら」
「あ、そっか、びっくりしたあ。わあ、きらきらしてて綺麗だねっ」
 二人の会話に微苦笑し、ミックは静かに呼吸を整える。朝露がくれた幸運は、もう胸にしまう時間だ。女々しい気持ちを抱えたままでは、守れるものも守れないのだから。
 よし、と気持ちを切り替えてミックは顔を上げる。
 行く手には、晴れやかな緑の景色が広がっていた。


戻る