死出の門、新生の門

「ねえ、そこの──そこのお姉さん!」
 夕暮れ時のサファイアアベニュー国際市場をとぼとぼと歩いていたファロロは、慌てたような呼び声に顔を上げた。
 聞き覚えのない声だった。自分のことだろうかと振り返ると、真っ直ぐに自分を見てくる人物と目が合った。
 ミコッテ族の娘だ。おそらく、自分と同じ年の頃の。誰だろうと困惑しかけたファロロは、すぐに小さく声を上げた。白い髪。褐色の肌。紺碧の瞳。なによりも、その手首に巻かれた組み紐──。
「ああ、やっぱり。あの時のお姉さんだよね」
 駆け寄ってきた娘をファロロは驚いて見上げる。
「あなた、この間の……」
 三ヶ月ほど前──あの霊災の直後、ナル大門の外で出会った娘だった。
 思いがけない再会なのは向こうも同じようだった。二人はしばし、見つめ合ったまま言葉に詰まった。
「ファロロさん、だったよね」
「イ・ノギヤさん、よね」
 声が重なる。娘は──イ・ノギヤは表情を緩めた。
「よかった。もう一度会えたらと思ってたんだ。ちゃんとお礼を言えてなかったから。……あの時は、助けてくれてありがとう」
 ファロロは目を伏せた。
「……お礼なんて。大したことはしていないもの」
 そう、本当に、礼を言われるようなことは何もしていない。
 霊災後、組織的な救助活動が開始されてしばらく経った頃。一人でウルダハに流れ着いたらしい彼女に、確かに声をかけた。自分と年の頃が近そうな娘が荒野にぽつねんと佇んでいるのを、どうしても見過ごすことができなかったのだ。
 それで簡単な怪我の治療と、懐が許すだけの水と食糧を彼女に分け与えた。だが、それだけ。たったそれだけだ。彼女のその後の暮らしまで助けてやれたわけではない。
「そんなことないよ。おかげで今日も生きてるし」
 さらに続けようとしたイ・ノギヤの言葉は、市場になだれ込んできた隊商の喧騒に遮られた。
 隊商の到着を受け、市場は一気に歓迎の雰囲気に沸き立った。霊災からしばらくはまともに荷が動かなかったから、近頃の市場は隊商が一つ到着するたびにぎらぎらとした盛り上がりを見せた。
 その熱気に圧倒されるように、二人は再び黙り込んでしまう。互いに口を噤み、次の言葉を探して視線を彷徨わせた。
 先に口を開いたのは、やはりイ・ノギヤだった。
「ねえ、よかったら少し歩かない?」
 それまで気まずげに組み紐をいじっていたイ・ノギヤは、喧騒の先を──ザル大門の方角を指した。
 思いがけない誘いにファロロは小さく息を飲む。
「ええ、かまわないわ」
 気後れするものを感じながらも頷くと、イ・ノギヤは「じゃあ、行こう」と笑った。
 二人は市場の熱気から遠ざかるように、日暮れも近い街中を並んで歩き出した。

 ──あれからどう過ごしているのか。怪我の具合はもういいのか。食事にはありつけているのか。寝床は確保できたのか。……家族は、見つかったのか。
 隣を歩くイ・ノギヤの様子をちらりと窺いながらも、ファロロは結局なにも尋ねられずにいた。
 この三ヶ月の間、彼女のことはふとした弾みに何度も思い出していた。もし再会できたら──「もう大丈夫だから」と弱々しい顔のまま行ってしまった彼女と再会できたら、聞きたいことが、話したいことが、たくさんあった。
 だというのに、いざ本人を前にすると言葉に詰まってしまう。赤の他人である自分が──なんの不便もなくいまも暮らしている自分が、踏み込んだことを尋ねてしまっていいのか。後ろ暗い気持ちが渦巻くばかりで、ファロロは重く口を噤んでしまう。
「ウルダハはすごいね。あんな大災害があったのに、もう市場に物があふれてる」
 同じようにしばらく無言で歩いていたイ・ノギヤは、市場を眺めながら明るい調子で言った。彼女の言葉に、責められたわけでもないのにファロロの胸はじくりと痛んだ。
「あれからどうしてるの? ……ちゃんと食べられてる?」
 白々しいのは百も承知で尋ねる。彼女の出立ちを見れば、彼女のその後の生活が楽ではないことくらい一目瞭然だ。だが、ほかにどう尋ねればいいのかも分からなかった。
 ファロロの心中を知ってか知らずか、イ・ノギヤは気さくに笑いながら弓を掲げてみせた。
「どうにかね。焼け出された先が知らない土地じゃなくて助かったよ。弓も調達できたから、自分が食い繋ぐ分くらいなら、なんとかなってるし。あ、ちょっと待ってて」
 イ・ノギヤは手でファロロを制すると、目先にある果物の露店を覗きに行った。なにやら買い物を始めた彼女を大人しく待っていると、すぐに「ごめんごめん」と戻ってくる。
「はい、これ。お姉さんもどーぞ」
 買ってきたばかりのデーツを袋から一粒取り出すと、イ・ノギヤはファロロに差し出した。
 ファロロは驚いて目を瞬かせると、慌てて手を振った。
「わ、私はいいのよ! あなたが食べてちょうだい。だって──」
 ──だって、見るからに痩せてしまった。会うのはこれで二度目だけれど、それでも気がついてしまうほどに。身なりにしてもそうだ。最低限の手入れはしているようだが、衣服はあちこちが綻んでいて、汚れが染みついてしまっているのが見て取れた。それだけでも、彼女のその後の苦労が窺い知れようというものだ。──だからそれは、彼女が食べるべきものだ。
「いいのいいの。この間のお礼なんだから。これっぽっちでごめんだけど」
 遠慮するファロロに、イ・ノギヤは申し訳なさそうに眉尻を下げる。ファロロは散々迷った末にデーツを受け取った。
「……ありがとう」
 ぎこちないながらも笑みを作ると、イ・ノギヤはにっと笑う。そして袋からもう一粒デーツを取り出すと、自分の口にぽんと放り込んだ。
 その豪快な食べっぷりにファロロは目を丸くした。イ・ノギヤとデーツを見比べた末に、ええい、と彼女を真似て口に放り込む。
 噛み締めると、デーツのねっとりとした甘みが口の中に広がった。その甘さをせめてしっかり味わおうと、ファロロは丹念に咀嚼した。
「おいしいわね」
「うん」
 やがてごくんと飲み込むと、イ・ノギヤを見上げて微笑む。今度は、先ほどよりも自然に笑えたと思う。イ・ノギヤも嬉しそうに頷いた。
「寝泊りはどうしているの? どこか住む場所は見つかった?」
 再び並んで歩き出すと、ファロロはもう一歩だけ、踏み込んで尋ねてみる。
「ナル大門の外に避難民のキャンプができててさ。ほら、あのあたり、もともとアラミゴの難民が集まってたでしょ? あそこにくっつく形で、アタシもね」
「危なくはない……?」
 ファロロがイ・ノギヤと出会った当初は、避難民の数もそう多くはなかった。それが日を追うごとに増えていき、もとからあったアラミゴ難民のキャンプと合わさり、いまでは相当な規模に膨れ上がっている。イ・ノギヤと別れた後も何度か支援活動に参加したが、どこもひどく殺伐とした空気に満ちていたことは──無理もない話だ──記憶に新しい。
「ま、喧嘩は毎日起きてるかな。あんまり関わらないようにしてるから、巻き込まれたりはしてないよ」
 あっけらかんとした口調に感じるところがあり、ファロロはそっとイ・ノギヤの顔を見上げた。彼女はやはり笑んでいたが、その目元には疲れが滲み出ていた。
「もともとは、どこで暮らしていたの?」
 迷った末、言葉を選びながら尋ねると、イ・ノギヤは空を見上げた。
「ザナラーンの東のほう。ええと、ゴールドバザーのあたりって言ったら伝わるかな」
 ファロロは小さく息を呑んだ。ザナラーン東方といえば、隣国グリダニアの領地、黒衣森に至る街道が敷かれている。霊災の影響で地域一帯が東西に分断されてしまい、橋の建造が急務だという話はファロロの耳にも届いていた。
「……あのあたりも酷い被害を受けたと聞いたわ」
「そうだね、崖はできちゃうし、見たことない結晶の山はできるし、ほんと参っちゃうよ。まあ、生きてるだけ儲けもんだと思ってやってくしかないね」
 イ・ノギヤは苦笑しながら、握るように組み紐に触れた。彼女の横顔をファロロは眩しい気持ちで見つめる。そこにはもう、あのとき痛ましく泣きじゃくっていた娘の面影はなかった──ないように思えた。
「たくましいのね。こんなときでも、ちゃんと自分の足で立って生きていて。……私も見習いたいわ」
これ・・しか知らないだけなんだけどね」
 そういって弓に目をやるイ・ノギヤから視線を逸らし、ファロロは我知らず俯く。
 本当に、見習いたいと思うのだ。こんなとき──戦禍や大災害に見舞われたとき必要になるのは、イ・ノギヤが持つような生きる力の強さだと。
 ファロロはこのウルダハで、商家の一人娘として生まれてきた。もともとリムサ・ロミンサで貿易商をしていた両親は、その目利きぶりをウルダハの大手商会の人間に買われ、一念発起して越してきたという。
 金持ちに媚びへつらい、取り入ることを厭わなかった両親は、いまでは独立していくつかの店舗を経営するほどには上手く世渡りをしている。
 そんな両親に蝶よ花よと溺愛されて育ち、もう十七になる。いずれ両親の跡を継ぐため──あるいは良家に嫁ぐため、それなりの教育もつけてもらった。すでに仕事の手伝いも始めていて、だんだんと目端も効くようにもなってきた。
 両親の跡を継ぐのは嫌ではない。ウルダハでの地盤を強固にするための嫁ぎ先を両親が熱心に探しているのも、まあそういうものだろうという思いがある。帳簿と睨み合って数字を扱うのも嫌いではないし、異国の品々を取り扱うのは純粋に楽しくて好きだ。──でも。
 世界は終わらない。──終わらなかった。だから今日も、明日も、皆が生きていかねばならない。これからも今までどおり、むしろ今までの暮らしを取り戻すために、より熱心に。日常を保ち、取り戻すためには、経済を回し続ける必要があるのだ。
 そう頭では分かっていても、ファロロの心はこの三月、まるで蟻地獄に嵌ってしまったかのように、同じ思考から抜け出せずにいた。
 両親に与えられたものを一枚一枚剥いでいった時、いったい自分にはなにが残るのだろう。彼女のように──イ・ノギヤのように、きっと自分は生きていけない。
 無力で、矮小で、なのに慈善家ぶって被災者の周りをうろついて。それで何人かの被災者を一時的に助けられたとして──でも、そこで終わりだ。両親に分け与えられた多少の資産では、少数の被災者を短期間しか支援できない。自分一人では、自分が食い繋ぐ分の食糧さえ獲ってくることができないのだ。
 すっかり考え込んでしまっていたファロロは、無意識に細いため息をついた。
「助けてもらったのはアタシのほうなのに、なんかお姉さんのほうが元気ないみたい」
 鬱々とした意識をイ・ノギヤの声に引っ張り上げられ、はっと我に返る。ファロロは曖昧に笑うと、違うことに意識を向けようと首を傾げた。
「たぶん、なんだけど。あなたと私、同じくらいの年じゃないかと思うの。……いくつ?」
 イ・ノギヤは意外そうに目を丸くした。
「あれ、本当? アタシ、十七」
 やっぱり、とファロロは頷いた。どうやら自分の見立ては間違っていなかったようだ。
「私も十七よ」
 二人は思わず立ち止まり、再び見つめ合った。やがてどちらからともなく肩の力を抜くと、可笑しそうに微笑みを交わす。
「そっか、同い年だったんだ。しっかりした人だから、てっきりアタシよりお姉さんだと思ってたよ。ね、ちょっと座らない?」
 イ・ノギヤは市場の端にベンチを見つけると、ファロロを手招きした。
 ザル大門にほど近いそのベンチに揃って腰を下ろすと、ほっと一息つく。いつの間にか隊商の喧騒も遠ざかっていた。
「今更だけど、ファロロさんってウルダハの人だよね?」
「ええ、そうよ」
 改まって聞かれ、不思議に思いながらもファロロは頷く。
「もしかして、けっこうお嬢様? ああ、だからどうってわけじゃないんだけど」
 何気ないふうに尋ねられ、ファロロは一瞬だけ身を硬くした。
「……そうね、裕福だわ」
 言い淀んだのは、彼女を警戒したからではない。
「ああ、やっぱり? そうじゃないかと思ったんだ。なんていうか、雰囲気が上品だなって」
「そうかしら。……実際はただの成金よ。家柄が良いわけではないの」
 言ってしまってから、ああ、とファロロは唇を噛んだ。こんなこと、会って間もない人に言うことではないのに、声に棘まで含ませて。イ・ノギヤに嫌味を言いたかったのではない。その棘は、自嘲の棘だった。
 事実、ファロロの家は成金だ。両親にとって大手商会の傘下に収まっていることは自慢で、十数年でそれなりの財を築けた自分たちの手腕に有頂天になっている。ファロロはそんな両親のことが──娘には甘く、上には媚び、下には気前の良い雇い主のふり・・をする両親のことが、本音では尊敬できなかった。
 ──霊災が起こったあの日。この時分なら自らが抱える骨董品店を視察している頃だろうと、混乱する街中を両親のもとまで駆け抜けたあの日。命の危機に直面し、なんとか我が身を守ろうとする従業員相手に「持ち場を離れるな」と金切り声を飛ばしていた両親の、あの醜悪な顔。
 当時の光景を思い出すたび、ファロロの心は冷え冷えとした虚無感にとらわれた。
「いいじゃない、成金でも。裕福なのはいいことだよ。ウルダハだと一代で伸し上がる人も珍しくないでしょ?」
「……ええ、そうね」
 イ・ノギヤのさっぱりした態度に、ファロロはぎこちなく笑う。彼女の言葉もまた事実だ。自分が何不自由なく暮らせているのも、曲がりなりにも多くの従業員を養っているのも、間違いなく両親の努力の積み重ねなのだから。
「助けてもらった時もね、ずいぶん綺麗な人が煤まみれになりながら働いてるなって、そう思ったんだ。……そっか、やっぱりお嬢様だったんだ。ファロロさん、立派な人なんだね」
 ファロロは緩く頭を振る。
「あの時はあれくらいしか出来ることがなかったから。……大したことはできなかったけど」
 両親をなんとか宥め、従業員たちを非難させて。ひとまず自分たちの身の安全を確保して、霊災の騒動が落ち着いた後は、助けを求める目の前の声に飛びついて回った。なんでもいいから、とにかく出来ることからしなければと思ったのだ。イ・ノギヤと出会ったのも、そうして動き回っているときだった。
 イ・ノギヤは笑う。
「おまけに真面目だ。大したことだよ。さっきも言ったでしょ。おかげで助かった人間が目の前にいるのに」
 ファロロも少しだけ口角を上げた。
「励まし上手ね」
 彼女に指摘されたとおりだ。彼女はこんなにも立派に生きているのに、何も失っていない自分のほうが落ち込んだ態度を見せてしまっているなんて。それこそ情けない話だ。
「……あの、さ」
 イ・ノギヤはふと口を噤むと、手首の組み紐に触れた。
「……霊災の時は、ウルダハも大変だったんだよね。街中にも妖異が出たって聞いたよ」
 ファロロは膝の上で強く手を握った。
「……ええ。この世の終わりみたいだった」
 ダラガブがいまにも大地を押し潰そうだったあの頃。ウルダハを取り巻く脅威はガレマール帝国軍だけではなかった。おどろおどろしい妖異たちまでもが市街で暴れ、生きた心地のしない日々が続いた。
「そっか……そっかあ……」
 当時の様子をぽつぽつと語って聞かせると、イ・ノギヤはくしゃりと顔を歪ませた。笑っているような、泣きそうなようなその横顔にどう声をかけたものか迷っていると、視線に気がついたイ・ノギヤは組み紐を──泥汚れを丹念に落とし、色褪せてしまった組み紐をぎゅっと握る。
「アタシさ、妹が……いたんだけど」
 しばらく口を閉ざしていたイ・ノギヤがようやく、ぽつりと呟くように話し出した。
 ファロロは耳を傾けながら黙って頷く。彼女を助けたあの日、「妹が」「皆が」「集落が」と彼女が泣きながら漏らした断片的な言葉を思い返した。
「ウルダハの商人の息子さんとさ、縁談があったんだ。でも、妹のほうから断っちゃって」
 イ・ノギヤは努めて明るい調子を保とうとしていた。ファロロはやはり黙って頷きながらも、ちらりと彼女の左手首に視線を落とす。いまも彼女が触れ続けている組み紐は、一度切れてしまったものを無理に結びつけているからか、きつく手首に括りつけられていた。その強引な結び方が妙な不安を呼び起こして、ファロロは落ち着かない気分になる。そんなにふうに触れ続けていたら──傷んだ紐なんて簡単に擦り切れてしまうのではないだろうか。
「でも、こんなご時世でしょ。荒野のど真ん中にいるよりは、街のほうがまだ安全なんじゃないかと思って、考え直してみたらって妹にも話してたんだけど……」
 ファロロの視線には気がつかず、イ・ノギヤは寂しそうに笑った。言葉を切ると、なにかを堪えるように息を吐き、暮れゆく空を見上げる。
「……そうだよね。ウルダハみたいに大きな街でも、べつに安全じゃなかったよね……」
 寂寥とした声は、自分を納得させようとしているような、そんな響きを含んでいた。
 ファロロはかける言葉を見つけられず、目を伏せた。──ああ、せめて気の利いた言葉くらい言えればいいのに。そう思うが、何を言っても彼女の傷つけてしまう気がして、何も話すことができない。
 しばらく押し黙っていたイ・ノギヤは、ファロロの様子に気がつくと苦笑した。
「ごめんごめん、辛気臭い顔しちゃった。さあてと、そろそろ戻ろうかな」
 組み紐から手を離し、ひとつ膝を叩くと、イ・ノギヤは軽やかにベンチから立ち上がった。その言葉はなぜかひどく動揺を誘い、ファロロも慌ててベンチを降りた。
「も、もう行くの?」
「うん、日が落ち切る前に寝床に帰っとくよ。今日はありがとね、付き合ってくれて。自分で思ってるよりも寂しかったみたいで、気が晴れたよ」
「え?」
 イ・ノギヤは苦笑しながら頬を掻いた。
「最近、女の人とじっくり話す機会があんまりなかったからさ。いままで姉さんたちに囲まれて……ああ、サンシーカー族の集落ってほら、女ばっかりでさ。……だから、ファロロさんと話せてよかった」
「……私も、あなたと話せてよかったわ」
 ずっと安否を気にかけていた彼女と再会できてよかったと、心の底から思う。それなのに結局、自分からは碌に話すことができなかったことが、急激にファロロを焦らせた。
 このままザル大門から出るという彼女を送る短い道すがら、焦るファロロの視線はなおも彼女の組み紐に吸い寄せられた。その、不安な気持ちを駆り立てる組み紐に。
 ──せめて彼女に持たせられるだけの食糧と水を。せめて清潔な衣類の提供だけでも。せめて今夜だけでも我が家に。施しは彼女の矜持を傷つけるだろうか。ならばせめて仕事の斡旋はできないか。
 考えは次から次へと浮かんでくるのに、なぜかそれを口にすることができない。わずかに喉を震わせ、口を開きかけ、声は喉元まで出かかっているのに。会って間もない人間相手に踏み込んでしまっていいのか、その迷いが全ての言葉を掻き消した。
 いよいよザル大門の前まで来てしまうと、ファロロは半ば呆然とした気持ちでイ・ノギヤを見上げた。
「じゃあ……元気でね」
 この広い広い大都市で、約束もなく再会を果たすのは稀なことだ。だから必然、別れの言葉はこうなるだろう。
「……ええ、あなたも」
 イ・ノギヤは微笑むと、踵を返して荒野へと帰っていく。すでに薄暗さが忍び寄り、肌寒さが漂いはじめた荒野へ、ザル大門死を司る神の門を通り抜けて。
「──七日後!」
 居ても立ってもいられず、ファロロは声を張った。
 ザル大門の半ばでノギヤが驚いたように振り返る。表情はすでによく見えないが、彼女の猫のような耳がピンと立ったのだけはよく分かった。
「七日後にまた会いましょう! 今度はナル大門の下で──日が昇り切る頃に! 私、あなたともっと話がしたいわ──!」
 腹の底から湧き出た気持ちを、ファロロは衆目も憚らずに声に乗せる。
 イ・ノギヤは勢いよく尻尾を持ち上げ──そしてにっと大きく笑う。ファロロに向かってひとしきり元気に手を振ると、そのまま軽い足取りで門を抜けていった。

 その背が完全に見えなくなるまで見送ると、ファロロも来た道を引き返す。
(七日なんて言わず、三日にしておけばよかったわ)
 あれはきっと、了承の返事と受け取っても構わないだろう。約束を取り付けたからには、今度こそ彼女とゆっくり話がしたい。世情が大きく変わろうとしているこの時代に出会った、同じ年に生まれた彼女と。
(そうだわ。たとえば飾りを足して補修するとか──)
 傷んだ組み紐を思い浮かべながら、ファロロは急速に頭を回転させる。あの組み紐は、きっと彼女の大事なものだ。もし彼女が気を悪くしないなら、不意に切れて失くしてしまわないよう、自分に思いつく補修方法を提案してみよう。
 思いつくとすぐにでも実行してみたくなってしまって、ファロロは知らず知らずのうちに足早になる。今日はお供もつけずに留守にしてしまったから、帰宅すれば両親の小言が待っているだろう。だが、そんなものは聞き流してしまえばいい。それよりも両親には、商会から回ってきている義援金の件で重い腰を上げてもらわないといけない。〝自分たちも被害に遭ったのに〟と渋っている両親の尻を叩き、最低限、商会に顔向けできる程度の額は出さなければ。ああそれに、霊災で疲弊している従業員たちともよく話し合わないと。
(そうよ。うじうじしていても仕方ないわ。やれることからコツコツと)
 なぜ自分は生き残ったのか。自分にできることは何かあるのか。自分のしていることに、意味はあるのか。どうしても、いろいろなことに焦りや気落ちは付き纏うけれど、何もしないよりは、マシなはずだ。
(ああ、そうだ。小さい頃に取り上げられちゃった杖、まだどこかにあるかしら)
 護身のために習いたいと親にねだり、危ないからと取り合ってもらえなかった呪術を、いまこそ学んでみるべきかもしれない。
(帰ったら、ばあやに聞いてみないと。それから──)
 街灯がともったウルダハの街中を、ファロロは軽やかに駆けていく──。


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