これからも、よろしく(08)

 帰宅翌日。朝を迎えた自室でヴァヴァロはぱっちりと目を覚ました。
 やっぱり自宅のベッドだとよく眠れるな、と起き上がって大きく伸びをする。
 自分が買ってきた大量のバラは留守中にかなり萎れたらしく、家の中からほとんど姿を消していた。正直なところ、ありがたい。バラを見るたびに忌々しい男の顔を思い出してしまいそうだったから。
(ふん、アルテュールなんてどうでもいいし)
 ヴァヴァロは身支度をしながら一人で顰めっ面になった。
 アルテュールに言いたいことだけ言い放ち、依頼を済ませると転移魔法で飛んで帰って──そんなことをしたら赤字なのだが──、そのまま帰宅していたファロロたちと合流してまた遠くへ飛んだ。
 家から遠く離れてしまうと意外と心は落ち着いた。落ち着くと今度はアルテュールに腹が立ってきて、あんなに大泣きした自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
 ヴァヴァロは鏡を覗き込む。目元の腫れはもうすっかり引いていた。
 泣き腫らした顔に気づかれてしまったのか、それともあれこれと思い出して一人で腹を立てていたのが表情に出てしまっていたのか。ファロロに「アルテュールと喧嘩でもしたのか」と尋ねられた時には、つっけんどんな返事をしてしまったが。
(ぜーんぶアルテュールが悪いんだから。アルテュールのばか)
 おかしなところがないのを確かめると、ヴァヴァロは少し呼吸を整えてから部屋を出た。すでにケイムゲイムが朝食の準備を始めているのだろう。階下からふわりと温かな香りが漂ってきていた。
(べつに告白の返事なんて……)
 ヴァヴァロはトントンと階段を下りていく。
 アルテュールにはあんなことを言ってしまったけれど。どうせ彼にとって自分は妹分に過ぎないのだと思うと、返事を待つのも馬鹿らしかった。
 あんなに勇気を出して告白したことも、恥晒しのような色仕掛けをしたことも、もはや消し去りたい過去でしかない。
(どうせ私のことなんてお子ちゃまとしか思ってないんだし)
 好きになる相手を間違えた。否、実は好きじゃなかったかも。命懸けで庇ってくれたから、一時的に彼にのぼせあがってしまっただけだったかもしれない。
(朝はいっつも起きないし。いい加減なことばっかり言うし。酔っ払うと絡んできてうるさいし。私の年もすぐ忘れちゃうし。そのくせ大事なことは何も話してくれないし)
 胸中でアルテュールをこてんこてんにしながら一階まで来ると、ヴァヴァロはそのまま居間に入ろうとし、
「おはよ」
 ──不意に背後からかけられた声に跳び上がりそうになった。
 数日前もこんなふうだったな、とヴァヴァロは目を瞑る。一つ息を整えると、平静を装って振り返った。
「お、おはよう」
 アルテュールだった。突然のことに目を合わせることができず、挨拶を返すとそのままそっぽを向く。
「ヴァヴァロ、いまから出られるか? 話があるんだ」
 何事もなかったように居間に向かおうとしたヴァヴァロはぎくりとする。途端に胸がざわめき始めて、彼の顔を見られない。
「な、なに? 私、ご飯の前にちょっと走ってきたいんだけど」
 走ってこようと思っていたのは本当だ。断じて彼から逃げるための言い訳ではない。そう、ただちょっと、せめて家中のバラが枯れてしまうまで、バラが目に入らない場所に出ていたいだけだ。
 心の中で言い訳を並べ立てるヴァヴァロの脇を通り過ぎ、アルテュールは軽く振り返った。
「この間の返事するからさ。少し外に出よう」

 穏やかな朝陽に包まれたラベンダーベッドの坂道を、ヴァヴァロはアルテュールと付かず離れずの距離で歩いた。
 家を出てからまだ一言も交わしていない。アルテュールはときおり立ち止まってはどちらへ進むか周囲を見渡して、そのたびにヴァヴァロを軽く振り返ってはついてくるように視線で促した。
 ──何を言われてしまうのだろう、と。
 鉛のように重い足で彼の後ろを歩きながら、ヴァヴァロは泣き出したい気分だった。
 前言撤回。彼のことがどうでもいいなんて、やっぱり嘘だ。これから彼に告白の返事を聞かされるのかと思うと、逃げ出したい心地しかしなかった。
「このあたりでいいか。座ろう」
 やがて二人は樹冠商店街に辿り着いた。まだ朝方ということもあり、商店街の周囲に人影はない。
 その商店街を西に少し通り過ぎ、ラベンダーベッドを見渡せる小広場まで来ると、アルテュールはようやく足を止めた。木陰に腰を下ろすとヴァヴァロにも座るように促す。ヴァヴァロは渋々、彼と近過ぎない位置に座った。
「それで、この間の返事なんだけど」
「う、うん」
 アルテュールの平坦な声にヴァヴァロはぎくりとする。とても彼の顔を見られず俯いてしまう。震えを隠そうと両手を強く握り込んだ。
 アルテュールは呼吸を整えるように小さく息をついた。
「まずは、ごめん。告白してくれたのに気がつかなくて。勇気を出して言ってくれただろうに、ヴァヴァロのこと、ひどく傷つけたと思う」
 ヴァヴァロはちらりとアルテュールの顔を見て、すぐに目を逸らした。
「そ、それはもういいってば。やっぱりちょっと、紛らわしい言い方だったなって、私も思ってるし」
 想像とは違うところから会話が始まって、ヴァヴァロはわずかに困惑した。続く言葉がどうなるのか──できれば聞きたくない。
「それと、どうしても先に言っておかないといけないことがあって」
 ヴァヴァロはびくりと身体を震わせる。
「う、うん」
「こんなことを言ったら、またヴァヴァロを傷つけると思うんだけど」
「……うん……」
 ヴァヴァロはぎゅっと目を瞑る。──聞きたくない。逃げ出したい。
 怯えを隠しきれていないヴァヴァロに目を伏せ、アルテュールは静かに続ける。
「俺はやっぱり、どうしてもまだ、ヴァヴァロのことを女性として見られないんだ。でも」
「わ、分かった。考えてくれてありがとう。変なこと言ってごめんね。もう言わないから。私、先に帰ってるね」
 ヴァヴァロは顔を伏せたまま立ち上がった。もつれそうな足で駆け出そうとしたヴァヴァロの手をアルテュールが掴む。
「待て待て。まだ話は終わってねーよ」
「だって、女として見られないって……っ」
「続きがあるんだって。せめて最後まで聞いてくれよ。これでも一応、ちゃんと考えてきたつもりなんだぞ」
「……ん」
 いまにも泣きそうなヴァヴァロをアルテュールは無理やり座らせた。
「ええと、だから……ああ、何から話そうとしたんだったかな」
 アルテュールはくしゃくしゃと前髪を掻いた。しばらく考えるように目を閉ざすと、ヴァヴァロに向き直る。
「俺のこと、苦楽を共にできる相手だって、そう言ってくれただろ。……それは俺も一緒だよ。ヴァヴァロが隣にいてくれて、どれだけ助けられてきたか」
「そ、そうなの?」
 いまいち話の流れを掴めず、ヴァヴァロは首を竦めたまま続く言葉を待った。
「そうだよ。俺にとってもヴァヴァロは大事で……代わりになる人なんてどこにもいない。だからもし……」
 アルテュールは目を伏せ、そしてすぐに上げた。美しく青い、宝石のような瞳を真っ直ぐに見つめる。
「──もしヴァヴァロが俺のことを必要だって言ってくれるなら、その気持ちに応えたいと思う」
「──……」
 ヴァヴァロはしばし、ぽかんとする。彼の言葉をすぐに飲み込めず、上手く回らない頭で何度も反芻した。
「え、え? でも、女性として……」
 彼の言葉が頭の中で繋がらなかった。喜んでもいいことを言われたような気がするが、それよりも戸惑いが先立った。
 アルテュールは気まずそうに肩を落とした。
「いきなり異性として意識するのは無理だよ。ヴァヴァロだって俺のこと、男として意識しだしたのは最近なんだろ? だったら俺にも時間をくれよ。ヴァヴァロのことを女性として意識できるようになる時間をさ」
 ヴァヴァロはますます困惑して身体を小さくした。
「えと、つまり、私のことを女性として見られるようになるまで、この話はなしってこと……?」
「ああいや、そうじゃなくて、つまり」
 アルテュールは言葉を切ると、一度息を整える。
「つまり俺たち、恋人同士としてお付き合いしましょうかってこと」
 ヴァヴァロはゆっくり目を瞬かせた。
 アルテュールの言葉を受け止めるための、少しばかりの空白の時間。
「──……!」
 ようやく言葉の意味を飲み込むと、ヴァヴァロはぱっと顔を輝かせて立ち上がり、そしてすぐにその笑みを引っ込めた。 
「で、でも! アルテュールは私のこと、女の人として好きってわけじゃないでしょ。だ、だったらいいよ、無理に合わせてくれなくても。ちゃんと考えてくれたなら、それで……」
 ヴァヴァロはぎゅっと拳を握る。頭が回り始めると、今度は素直に彼の言葉を受け取ることができなかった。
「無理なんてしてねえよ。でもそのつもりで向き合ってないと、ヴァヴァロのこと、そういうふうに意識できないだろうから」
「じゃあいいってばっ。アルテュール、いつも私に合わせてくれるのに、こんなことにまで無理やり付き合わせられないよっ」
 妙なところで意地を張るヴァヴァロにアルテュールもムッとする。
「だから合わせてないってっ。ヴァヴァロだって、俺にその気がないって分かってて告白してくれたんじゃないのかよ」
「そ、れは、そうだけど……」
 ヴァヴァロはしだいに声を小さくする。
 喜んでもいいはずなのに、素直に喜ぶことができない。理由は分かっている。彼に告白してからの数日間で、彼の自分に対する愛情が異性に向けるそれではないと改めて強く思い知ってしまったからだ。これでは自分のわがままに彼を付き合わせるだけだと、どうしてもそう思ってしまう。
「なにもヴァヴァロのこと、可愛く思ってないわけじゃないんだ。年の離れたお嬢さんをそんな目で見ちゃいけないと思ってただけで。だから、時間さえもらえたら」
 ──これではまるで、泣く子を黙らせるために彼が折れているようではないか。
「~~~っい、いつまでも好きになれなかったら!? 一生かけても好きになれなかったらどうするの!?」
 アルテュールのことが好きだ。大好きだ。だからこそ、彼の足枷になんてなりたくない。矛盾甚だしい自分の心をまるきり制御できず、ヴァヴァロは堪らず声を大きくした。
 半ば怒鳴るような調子で言い放たれたアルテュールは驚いたように一瞬首を竦め、
「それならどのみち一生一緒だからダメか!?」
「ひゃい!?」
 そして咄嗟に言い返した。
 迷いなく投げ返された言葉にヴァヴァロは一瞬で真っ赤になる。
「あ、いや、よくないか。そういう話じゃないよな。でも俺としては、ヴァヴァロとこの先も一緒にいられるなら、それは本当に嬉しいと思ってて」
 アルテュールが慌てて言い重ねる。ヴァヴァロは頬を赤く染めたまま指先をつつき合わせた。
「い、い、一生一緒にいてくれるの……?」
 一気に勢いをそがれた様子のヴァヴァロにアルテュールは呆れた顔をする。
「これでも真剣に返事を考えてきたつもりなんだぞ。ここまで来てひっくり返したりしないって。それに」
 アルテュールは苦笑した。
「……守ってやるって、大見得切っちまったしな。ほら」
 依然として混乱しているヴァヴァロにアルテュールは手を差し伸べた。ヴァヴァロは戸惑いながら、おっかなびっくりその手を握る。
「わわっ」
 そのまま膝の上まで引かれ、優しく抱きしめられる。すっぽりと腕の中に抱き込まれ、ヴァヴァロは小さく唸った。腕の温かさに甘えてしまっていいのか分からず、おずおずとアルテュールの服の胸元を握る。
「……私のこと、大事なの?」
 アルテュールはヴァヴァロを抱く腕に力を込めた。
「……大事だよ。どうしようもなくね」
「そ、そっかあ」
 静かな、しかし重い声だった。ヴァヴァロは遠慮がちにその胸に頬を押しつける。
「あれ、アルテュール、どきどきしてる」
 胸に触れた耳にいつになく速い鼓動が伝わってきた。とくんとくんと聞き慣れない速度で彼の心が揺れている。
「俺だって緊張することくらいあるの」
 ぶっきらぼうに言われ、ヴァヴァロは少し、身体の力を抜く。
「うん……、──うん」
 胸に温かいものが広がる。彼なりに悩んで答えを出してくれたのだと、やっと、そう思えた。
 ──こういうとき、自分も背が高ければいいのにと思う。どうしたって彼の背中に腕を回せないのだから。ヴァヴァロは彼の服を掴む手に力を込めた。
「じゃあ、今日から恋人同士ってことで?」 
 ヴァヴァロが落ち着いたのをみて、アルテュールは軽く身体を離す。
 顔を赤くしたままヴァヴァロは唇をとがらせた。
「アルテュールはべつに恋してないのに……」
「これからするからいーの」
 ぐりぐりと頭を撫でられ、ヴァヴァロは少し泣きそうになる。彼の胸に顔を埋めた。心の底から喜びたいのに、彼の腕はこんなにも温かいのに、どうしても申し訳なさが一緒に込み上げてきてしまう。
「……本当に? 本当にいいの? 私、アルテュールの好みと全然違うのに」
 腕の中でぐずぐずと繰り返すヴァヴァロにアルテュールは意地悪く目を細めた。
「ヴァヴァロこそいいのかな。後からほかの奴のこと好きになっても、その頃には俺、ヴァヴァロのこと離さなくなってるかも。後から嫌になってもしらねーぞ」
 ヴァヴァロは途端にぷくんと頬を膨らませる。
「ほかの男の人なんてどうでもいいもんっ。アルテュールだから好きなのっ」
「んっ」
 真っ直ぐな好意にアルテュールはわずかに耳を赤くした。
 それには気がつかず、ヴァヴァロはアルテュールの胸に鼻先を押しつける。
「……アルテュールに早く好きになってもらえるように努力するもん」
 アルテュールは苦笑した。
「いつものヴァヴァロでいてくれたほうが俺は嬉しいよ。最近妙によそよそしくされてたの、正直ちょっと寂しかったし」
「あう、だって……意識したらどう話してたか分からなくなっちゃって……ごめん」
 いいさ、と笑うアルテュールをヴァヴァロはおずおずと見上げる。
「じゃあ、あの、今日からよろしくお願いします……?」
「うん。これからも、よろしく」
 アルテュールは腕の中で丸まっているヴァヴァロの額に口づけた。その口づけにヴァヴァロは唇を噛み締めた。ようやく嬉しさが込み上げてきて、油断をするとあっという間に口元が緩んでしまいそうだった。
「それじゃ、戻ろうか」
 必死に神妙な顔を保とうとしているヴァヴァロに微笑み、アルテュールはその肩を軽く叩く。
「うん。あっ、あのねっ。今日のこと、皆には内緒にしておいてほしくて。からかわれたら恥ずかしいし」
 彼の膝からぴょんと降り、ヴァヴァロはそわそわと指を絡め合わせた。ああ、とアルテュールは苦笑いしながら頷く。
「そうだな。しばらくは伏せておこうか」
「う、うん。……あ、待って待ってっ」
「うん? ──ぶっ!?」
 ヴァヴァロは立ち上がろうとしたアルテュールの胸元を掴み──そして思い切り引いた。がつん、と痛々しい音がその場に響く。
「いでっ!? な、なに怒ってんすかヴァヴァロさん!?」
 突如顔面に頭突きをかまされアルテュールは悲鳴を上げる。ヴァヴァロの硬い頭が思い切り鼻にぶつかり、あまりの痛みに地面に蹲った。
 ヴァヴァロは顔を真っ青にしておろおろする。
「わー!? ご、ごめんねごめんね!? 帰る前にキ、キ、キスしたいなと思って」
「それならそう言って……げ、鼻血出てきた」
「あわわ、ごめんってば~~~」
 まだ人気のない朝のラベンダーベッドに賑やかな声が響く。

 ──二人の恋路は、まだ始まったばかり。

これから、よろしく(完)


07へ 戻る