これからも、よろしく(06)

「……ひどい顔」
 ヴァヴァロは鏡の前で呟いた。
 朝陽が射し込む自室でのろのろと支度をし、戦化粧をしようと鏡を覗き込んだ途端に目元がぱんぱんに腫れ上がった滑稽な自分の顔が映った。
 最悪の気分だった。ずっとベッドに潜り込んでいたにも関わらず、ほとんど眠れていなかった。
 昨日の昼から何も口にしていなかったが、空腹感もない。喉の渇きだけは感じ、ヴァヴァロは水差しからコップに水を注ぐと一気に飲み干す。喉が潤っても、この世の終わりのような気分は癒されそうになかった。
 間抜けな顔をした鏡の中の自分と向き合いながら、ヴァヴァロはむっつりと戦化粧をする。いっそ何もかも放棄して遠くに飛んでしまいたい気もしたが、一度依頼を引き受けた以上、それはできない。
(やることがあって良かったって思おう)
 ずっしりと重い身体を引きずりながら支度を終えると、平時は額に上げているゴーグルを目にかけた。これなら泣き腫らした顔も少しは誤魔化せるだろう。こんな顔で依頼人を訪ねたら、不審がられてしまうだろうから。
(ケイムゲイムさん、もう起きてるかな。誰かいてもさっと出よう)
 ヴァヴァロは静かに自室を出た。昨日のうちに何人か帰宅したようだが、とても出迎えるような気にはなれなかったから、誰が家に滞在中なのかまったく分からなかった。
 誰にも見つかりたくなくて、ヴァヴァロは物音を立てぬよう気配を殺して階段を下りきり──そして廊下から飛び出してきた人影に息を呑んだ。
「お、おお。おはよう、ヴァヴァロ。もう出発か? 早いな」
 ──本当に最悪だ、とヴァヴァロは唇を結んだ。
「そう。仕事に行くの。どいてよ」
 挨拶を無視してヴァヴァロはアルテュールの脇を通り過ぎた。
「昨日話してた配達の仕事だろ? 俺も行くよ」
 そう言い出すだろうと思っていた。彼がすでに支度を調え、弓を手にしていたからだ。
 ヴァヴァロは眉間に皺を寄せる。腹立たしいことに、なぜか向こうの目元も暗い。笑顔を作ってはいるが、彼もまた眠れぬ夜を過ごしたことは明白だった。
 ──なんだというのだ。興味がないなら放っておいてほしい。
「いい。一人で行く」
「もともと誘う気でいてくれたんだろ? 俺も身体動かさないといけないし、手伝わせてくれよ。な?」
 苛立ちを覚え、ヴァヴァロは彼を無視して歩き出した。アルテュールはその後を慌てて追いかけてくる。
「一人のほうが楽だからついてこないで。アルテュールと一緒だと遅くなっちゃう」
 意地の悪い言葉が口を突いて出たが、謝る気にはなれなかった。
「足手纏いにならないようにするからさ。た、体力も冬の間に比べたらだいぶ戻ってきたんだぜ」
「あっそ。知らない。勝手にすれば」
「お、おお。勝手、勝手な。うん、勝手についてく」
 追い縋るアルテュールを振り払うようにヴァヴァロはずんずんと紫水桟橋に向かう。渡し船に乗り込み、なんとか会話の糸口を探し出そうとしているアルテュールから顔を逸らし続け、グリダニアに到着すると真っ直ぐに依頼人のもとに向かった。
 南部森林にある酒房に荷物を届けてほしいのだという依頼人から荷物を預かると、相変わらず自分の後ろをおろおろとついてくる男には無視を決め込み、ヴァヴァロはグリダニアを出発した。
 
「ヴァヴァロ、荷物重いだろ。俺が持つよ」
「べつに重くない」
「じゃあ交代しよう。せっかく二人で来てるんだし」
「一緒に来てなんて頼んでない」
「き、休憩! ちょっと休憩しようぜ! ほら、すごくいい天気だし」
「私は疲れてない」
「──腹! 腹減ってないか? ヴァヴァロ、昨日からなんにも食べてないだろ? 俺、ケイムゲイムさんのビスケット持ってきてるんだ。一枚いる?」
「お腹空いてない」
 冬と春の狭間の黒衣森。寒さが去りきらず、そこかしこに冬の面影を残している森は、しかし同時に春の気配をほのかに漂わせていた。
 その森の中、中央森林を街道沿いに南下しながら、アルテュールはヴァヴァロとの会話を試みていた。
 とはいえ、最前からこの調子である。素気無くあしらわれ続け、取り付く島もない。いよいよ会話のきっかけに困ってしまい、アルテュールは参ったな、と頭を掻いた。
 街道を行く二人の左手には鏡池が広がっていた。このあたりまで来てしまうと、目的地である南部森林の酒房までもうそれほど遠くない。このままでは何も解決できないまま帰宅することになってしまいそうで、アルテュールは迷った末に口を開いた。
「あのさ、ヴァヴァロ。昨日のことなんだけど」
 前方を歩いていたヴァヴァロの肩がぴくりと震えた。アルテュールは慎重に言葉を選ぶ。
「昨日はごめん。急に距離を置くようなことを言って。ヴァヴァロのためにもそのほうがいいと思ったんだ。でも考えてみたら、失恋して落ち込んでる人間相手に、冷たい態度だった」
 ヴァヴァロが立ち止まった。振り向かないまま、自分の影を見つめている。
「……もういいよ、その話。聞きたくない。アルテュールせいじゃなくて、私の問題だし」
 ようやく足を止めてくれた相棒にアルテュールは少しだけほっとする。依然として背を向けたままの彼女に遠慮がちに歩み寄った。
「そうは言っても、放っておけないだろ。ええと、それで、さ。ヴァヴァロが好きな奴のことなんだけど。俺もちょっと考えてみてさ」
「えっ、う、うん……?」
 ヴァヴァロがどきりとする。彼女から放たれていた警戒の気配が緩まるのを感じ取ると、アルテュールはその隣にしゃがみこんだ。
「あー、もしかしてそいつってさ、エレゼン族……だったりする?」
「あっ……う……うん……」
 俯いたまま赤面するヴァヴァロを見てアルテュールは破顔した。
「やっぱり? ヴァヴァロのことだから、そうじゃないかなーと思ったんだ。それでそいつって、ヴァヴァロよりも年上?」
「……ぁぅ……そ……そう……」
「だよなっ? ヴァヴァロお父さんっ子だから、好きになるなら年上かもしれないなって思ったんだ。あー、でさ、そいつって俺も知ってる人かな?」
 赤面したのも束の間、ヴァヴァロの表情が凍りついた。
「……うん、アルテュールも知ってる」
 アルテュールは目を丸くした。
「マジか。俺も知ってる奴かあ。誰だろう……。あーでもきっと、ラベンダーベッドに住んでる誰かだよな!?」
「……うん……」
 ヴァヴァロの声に殺気が滲む。
「やっぱりな!? そうだよな。やっぱり恋って身近なところから始まったりするよなっ。そういうことならさ、俺にもヴァヴァロの恋を応援させてくれよ。なんだったら今度、俺がデートの取り持ちとか──!?」
 パァン、と乾いた音が鏡池に響いた。
 言い終えるよりも早く炸裂した張り手にアルテュールは堪らず尻餅をつく。何が起きたのか、理解するのに一拍を要した。
「いて──いって!? な、なんで怒るんだよ!?」
 肩で息をしているヴァヴァロにアルテュールは思わず裏返った声を上げる。
 ヴァヴァロは肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「だからあ!! アルテュールのことが好きだって言ってんの!!」
 木々を震わす声量でヴァヴァロが怒鳴る。その声に驚いたように、ひらり、と一枚の葉が鏡池に落ちた。凪いでいた水面に波紋が広がる。
「──そ」
 その波紋が収まるまでの、長いようで短い時間。
 尻餅をついたままぽかんとしていたアルテュールの唇がようやく動いた。
「それを最初に言えよ!!」
「はあああ!?」
 鬼の形相のヴァヴァロにアルテュールは叫ぶ。ヴァヴァロは怒りでますます眉を吊り上げた。
「え、いや、え!? 俺!?」
「言った!! 言ったよ!! 私、一番初めに言った!! 好きですって、アルテュールの前で言ったよ!!」
「はあ!? い──つ──」
 素っ頓狂な声を上げかけたアルテュールは言葉を呑んだ。目眩でも起こしそうな顔でじっと考え込んだかと思うと、錆びついた動きで恐る恐るヴァヴァロを見る。
「お、おお、まさかアレか? バラの花をくれた時の……」
 ヴァヴァロは赤面しながらも腕を組んでそっぽを向く。
「そ、そうだけど? いまさら気がついたの?」
「だっ、あ、あれは花言葉の話だっただろ!?」
 ヴァヴァロはぐっと言葉に詰まる。
「そ、それはっ! 確かにちょっと紛らわしかったと思うけど……。で、でも! あんなコッテコテな告白も滅多にないでしょ!? アルテュールそれでも吟遊詩人なの!? ミックとエミリアさんの恋路にはあんなに喜んで首つっこんでたくせにさあ!! いくらなんでも鈍すぎるよ!!」
 ヴァヴァロは勢いよく外したゴーグルでアルテュールの肩をバシバシ叩いた。
「ちょ、いてっ、いたいって! え、や、いつ、好きって、いつから!?」
 ヴァヴァロの手が止まる。
「そ、れは……アラミゴから帰ってきた後くらい……から……」
「お、おお。結構、最近……じゃなくて! ヴ、ヴァヴァロから見たら俺なんておっさんだろ!? 年も離れてるし、種族だって」
 十一、いや十五、否、確か九つも離れているはずだとアルテュールは狼狽する。
「なんで? 人を好きになるのに年や種族って関係ある!?」
 ヴァヴァロはムキになって一歩踏み込んだ。その勢いにアルテュールは思わずたじろぐ。
「えっ!? そ、そりゃまあ世の中色々だろうけどっ。だ、だからってなんで俺なんだよお!? 良い男ならもっとほかに──」
 ヴァヴァロはぐっと唇を結んだ。ゴーグルのバンドを強く握りしめる。
「あ、あのねっ。おじいちゃんが前に言ってたの。苦楽を共にできる相手とはそうそう出会えるものじゃないって。楽しい時間を一緒に過ごせる人とは、きっとこれからもたくさん出会えるけど、辛い時に寄り添ってくれる人とはなかなか出会えるものじゃないって」
 アルテュールは目を瞬かせた。
「お、おお──?」
「私にとってアルテュールはそういう人なのっ。ずっと一緒にやってきて、良い時だけじゃなくて、悪い時もいつも、気がついたら隣にいてくれて……」
 ヴァヴァロを──ヴァヴァロやミックを、ずっと兄貴分として見守ってくれていたアルテュール。ひよっこだ新米だと侮らず、無茶をしがちな二人にアルテュールはずいぶんと根気よく付き合ってくれたものだ。
 一つ上手くいけば共に喜び、旅の合間には笑い合い、失敗をすれば励ましや慰めの心を寄せてくれる先輩を、ヴァヴァロもミックも慕っていた。
 気のないような顔をしておきながら、良く聞こえる耳で仲間たちの些細な変化を敏感に感じ取るアルテュールに、これまでの旅の中で何度助けられたことか。
 彼を慕う気持ちはずいぶんと長い間、恋という形をしていなかったのだけれど。
「アルテュールのこと男の人として好きになるなんて、自分でも思ってなかったんだよっ。でもアラミゴで私のこと庇ってくれた時……」
 ヴァヴァロは唇を噛んだ。
「……アルテュール死んじゃうかもって怖くなって、それで初めて、この人を失くしたくないって……ずっと一緒にいたいって思って……。……そしたらいつの間にか……」
「──……」
 ヴァヴァロの声がしだいに小さくなる。
 死別への恐怖と恋慕の間で揺れる表情を前に、アルテュールは只々圧倒される。
 すっかり言葉を失くされ、居た堪れなくなったヴァヴァロはさらに一歩、顔を赤らめながらアルテュールに向かって踏み込んだ。
「知ってるよ! アルテュールが私のこと、女性として意識してないなんてこと! だいたいアルテュール、むちむちでぼいんぼいんな、年上のお姉さんが好きだもんね!?」
「お、おおっ!? そりゃっ、そうだけどっ、ヴァヴァロだって可愛い」
「でも私のこと、すごく大事に思ってくれてるのも知ってるの! いつも私が嫌な目に遭わないように守ってくれてたこと、分かってるよ! だから──」
 ぎくりとしたアルテュールの言葉を遮り、ヴァヴァロはぎゅっと目を瞑る。
「私のこと、そんなふうに見られないなら、それでもいいからっ! 告白したの、なかったことにしないで……受け取るだけ受け取ってよっ。それでも断られたら──そしたら私、納得するから!」
 半ば叫ぶように言い放ち、ヴァヴァロはアルテュールの返事を待たずに背を向けた。
「~~~っ。じゃあ私、配達に行ってくる!!」
「えっ!? まっ、俺も一緒に」
 脱兎の如く駆け出したヴァヴァロを追おうとしたアルテュールは、しかし立ち上がることができずその場にへたり込んだ。
「こ、腰抜けた……」
 凪いだ鏡池のほとり。
 昼時の長閑な陽射しが射し始めた森の片隅で、アルテュールはぽかんと呟いた。


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