これからも、よろしく(02)

 日がとっぷりと暮れた頃。
 夕食と入浴を済ませたヴァヴァロは薄暗い自室で鏡と向き合っていた。
 戦化粧の落とし忘れがないか念入りに確認すると、次いでいつになく丹念に髪を梳かす。髪に艶が出たのを確かめると、どうにかして普段と違う雰囲気を作り出そうと指で髪の先をくるくると巻いた。思い虚しく髪は指を離した途端に元通りになってしまい、髪型を変えることは諦めて溜息をついた。
 もう一度鏡を覗き込む。まだ少し季節外れな、薄手の寝間着。その一番上のボタンを外し、ぐいっと襟を開いて胸元まで露出させた。夜の空気が肌に触れてヒヤリとする。
「ち、ちょっとは色っぽいかなあ?」
 開いた胸元から肌着がちらりと覗いていた。他種族の女性のような大きく張り出した乳房はないが、これだけ素肌を晒していたら、少しは色気を出せるかもしれない。
「あ、でもこれだと傷が……」
 ヴァヴァロはまじまじと鏡を見た。よくよく目を凝らさないと分からないが、アラミゴで活動していた時に負った傷痕が、いまも胸元にうっすらと残っていた。
「や、やっぱり出し過ぎかな。はしたないだけかも」
 暗がりなら傷痕は目立たないだろうが、それよりもやはり露出しすぎているような気がして、ボタンはせずに襟だけを掻き合わせた。
 最後に化粧をするか迷い、引き出しから口紅を取り出しかけてやめた。ファロロに買ってもらった化粧品があれこれとあるが、慣れない化粧を土壇場でしても妖異じみた顔にしかならないだろう。
「よ、よし、行くよ」
 最後に鏡の前で前髪を整えると、意を決して部屋を出た。
 女性陣の居室がある廊下はしんと静まり返っていた。誰がいるわけでもないその廊下を忍足で抜け、そのまま図書室を通り過ぎる。ケイムゲイムが家中に飾った赤いバラが目の端に映った。
 ──なんとか今日という一日を凌いで、一つだけ確信したことがある。アルテュールは確実に告白に気づいていない。あれだけ勇気を振り絞って告白したのに、状況は一歩も前進していないのだ。
 このまま何事もなかったように振る舞うべきかとも悩んだ。そうすれば、少なくとも彼との関係を壊さずに済む。
 でも、無理だ。通じていなかったとしても、もう彼の前で口にしてしまったのだ。自分の心を。これから毎日、自分を誤魔化しながら過ごしていくなんて無理だ。
 彼に異性として意識されていないことなんて端から分かっていた。彼が自分に向けてくれる愛情は親愛なのだと。そんなことは百も承知で告白したのだ。
 それでもさすがに、告白だと気づいてすらもらえなかったのは想定外だ。受け入れてもらえるか、拒否されるか。そのスタートラインにすら立てなかった。
 だからもう、確実に女性だと意識してもらえる状況を作るしかない。
 何度も何度も階段の途中でしゃがみ込み、やはり無理だと何度も部屋に逃げ帰りそうになりながら、ヴァヴァロはやっとの思いで一階に辿り着いた。台所にも居間にも誰もいないことを確かめると、緊張でもつれそうな足取りでアルテュールの部屋に向かう。
 扉の前に立つと、震える手でノックをした。
 ──ヴァヴァロ、一世一代の色仕掛けの時である。

 ドアはほどなくして開いた。
「どうした、こんな時間に。なんかあった?」
 珍しい時間の訪問にアルテュールは首を傾げた。ヴァヴァロは俯いたままぎゅっと寝間着の裾を握る。
「話したいことがあるの。入ってもいい?」
「もちろん。どーぞ」
 アルテュールは快く招き入れてくれる。部屋の中にまだ明かりがあるところを見るに、就寝はしていなかったようだ。ヴァヴァロはアルテュールに不審がられぬよう、なるべく静かに扉を閉めた。
「話って?」
 言いながらアルテュールが椅子を勧めてくれる。ヴァヴァロはやんわりとそれを断ると、緊張を隠そうと自分の指を絡め合わせた。
「あ、あのね……」
「うん?」
「え、と……」
 言い淀んだまま話し出せずにいるヴァヴァロにアルテュールはおろおろし始める。
「ど、どうした? 何か深刻な悩みか? ま、まさか病気……」
 膝を折り、心配そうに顔を覗き込まれ、ヴァヴァロはようやく口を開く。
「あの……あのね。アルテュールにお願いしたいことがあって」
「う、うん」
「こんなこと、アルテュールにしか言えなくて」
「だ、大丈夫。ちゃんと聞いてるよ」
 優しい声で言われ、ヴァヴァロは唇を震わせる。心臓はすでに破裂しそうだった。
「その……。……だ……」
「だ?」
 ごくり、と唾を飲み込んだ。
 大丈夫だ。言える。何も難しいことはない。ほんの短い言葉を口にすればよい。上目遣いで、少し瞳を潤ませながら。頬を赤らめ、恥じらいながらも甘えるように。いつもの自分とは違う、女性らしさを見せつけるように、しなを作りながら言うだけだ。
「だ……ダ……」
 どっと汗が噴き出す。頬は部屋に入る前から噴火しそうなほど熱かった。緊張のせいで口の中はカラカラだ。頭はいまにも倒れそうなほどくらくらしている。アルテュールの表情は目が霞んでしまってもう見えない。
 何度も舌を噛む。唇が歪み眉が引き攣る。可愛らしさとは対極の表情をしているのが鏡を見なくても分かった。心臓はもしかしたらすでに止まっているかもしれない。
「だ、だ、だ、だど、だ」
 それでも言う。これだけは言う。せめて言ってから気を失いたい。言えずに終わったらあんまりだ。
「だぅ、テ、どで、だダ抱ダ、イ、ダダだ抱イ、抱抱抱抱イて」
 パタン、と扉が閉まった。
「はっ、え!?」
 その音にヴァヴァロは意識を取り戻した。本当に一瞬気を失っていたらしい。気がついたら暗い廊下に押し出されていた。
「ち、ちょっと!! なんで追い出すの!? 開けて!! あーけーてーよ!!」
 慌てて扉を激しく叩く。アルテュールが小さく扉を開けた。
「いくら俺相手だからって言って良い冗談と悪い冗談があるだろうがっ。ほら、ばかなこと言ってないで、帰って寝た寝たっ」
 隙間から覗かせた顔にはさすがに動揺が滲んでいた。追い払うような口調にヴァヴァロは躍起になって扉を押し開けようとする。
「本気で言ってるんだけど!? 入れて!! 入れてってば!! ふぎゃっ」
「うわっ!?」
 部屋に押し入ろうとした身体を扉に挟まれ、ヴァヴァロは潰れたような悲鳴を上げた。アルテュールは慌てて扉を全開にする。
「ちょ、大丈夫かよ!? け、怪我は!?」
 部屋の中に倒れ込んできたヴァヴァロを急いで助け起こす。
「ううー……」
 痛みで涙目になったのも一瞬、ヴァヴァロはハッと顔を上げると、素早く扉を蹴り閉めてアルテュールの胸倉を掴んだ。
「捕まえた!! 抱いてくれるまで帰らないからね!!」
「だからそういう冗談はやめろって!! 笑えねーよ!?」
「冗談じゃないってば!! 私だってもう大人なんだよ!! そ、そういう経験をしてもいい年でしょ!?」
「えっ、や、そりゃ興味が湧いてくる年かもしんねーけど、だからって、ええ!?」
 アルテュールの胸板に張りついていたヴァヴァロは業を煮やしてベッドに駆け上がる。
「ほら見てよ!! これでも私、スタイル良いって褒めてもらうこと多いんだからー!!」
 ボタンが弾け飛ぶ勢いで寝間着の前を全開にする。肌着からへそまで露になり、部屋の明かりがヴァヴァロの健康的な腹部を艶々と照らした。
「わー!! ばか!! 脱ぐなって──」
 慌てて服を着せようとしたアルテュールの視線が胸元で縫い止められた。
「ああもう、ほら! ボタンかけるぞっ」
「は、はーなーしーてー!!」
 一瞬、眉を曇らせたアルテュールは、ヴァヴァロの抵抗を無視して強引にボタンを嵌めた。

「あのな、ヴァヴァロ。そりゃあヴァヴァロも年頃のお嬢さんだし、そういう経験をしてみたいって気持ちも、まあ、あるかもしれないけどさ」
 シーツにしがみついてベッドから離れようとしないヴァヴァロをなんとか宥め。
 ほかに向かい合って座れる場所もないため、やむを得ずベッドの上で膝を突き合わせながら。
 アルテュールは可能な限り穏便な表現を用いてヴァヴァロの説得を試みていた。
「でもダメだ。女の子なんだから、身体は大事にしないと。そういうのはちゃんと好きな人ができてからでも遅くないだろ。な?」
 それまでムスッと頬を膨らませていたヴァヴァロは、アルテュールの至極真っ当な言葉にいくらか気勢をそがれ、赤くなって俯いた。
「あの、でも、だって、好きな人……」
 もじもじと指の先をつつき合わせながら、ちらりとアルテュールの顔を見る。いざ本人を前にしてしまうとやはり言葉に詰まってしまって、ヴァヴァロは自分の意気地なさにぎゅっと目を瞑った。
「だ、だって、死んじゃうかもしれないし」
「うん?」
 咄嗟に思いついた言い訳が口を突いて出た。
「冒険者、だから。いつ命を落としてもおかしくないでしょ。だ、だから経験できるうちにしておきたいって、そう思っちゃダメなの?」
 屁理屈を並べている自覚はある。それでもこのまま退散なんてできない。ここまできたら、もう意地だ。
「大丈夫だって。ヴァヴァロは独りじゃないんだし、もう一人前の冒険者じゃないか」
「で、でも! アラミゴでだって何度も死にかけたんだよ!? いつ死んじゃうかなんて全然分からないよ!!」
 アルテュールの顔が険しくなる。
「……死なない」
「どうして? 自分なら絶対に生き残れるなんて思える? アルテュールだって危なかったのに!」
 必死に言い重ねるヴァヴァロの肩をアルテュールは強く掴んだ。
「死なない! 俺が守ってやる!!」
「ひゃいっ!?」
 ──本当にずるいと思う。
 ヴァヴァロは目を回しそうになりながら口をぱくぱくさせた。どうしてアルテュールという男は、こういうときに限って恥ずかしげもなく、そんなずるい言葉を口にできるのだろう。
「そ、そんなの知ってるし……わ、私だってアルテュールのこと守るし……」
 ヴァヴァロは頬を赤らめて口篭った。
 アラミゴ市街地での激しい戦闘から生還できたのも、アルテュールが危険から身を挺して庇ってくれたからだ。それだけではない。これまでの冒険の日々の中で、アルテュールはいつだって自分を守ってくれた。ほかの誰でもない自分がそのことを一番よく──無力さを嘆きたくなるほどよく分かっている。
「だから自分を粗末にするようなことはしちゃダメだ。まだまだこれから女盛りじゃないか。焦らなくても、きっと良い人に出会えるから」
「あう、でも……このまま帰っても明日からどうしたらいいか分からないって言うか」
 ヴァヴァロは勢いをほとんど失った。やはりこんな迫り方は良くないと自分でさえ思う。それでも潔く引けず、もごもごと言い淀んでしまう。
 小さくなっているヴァヴァロの肩をアルテュールは軽く揺すった。
「いったいどうしたんだよ。最近ちょっと変だぞ。何か嫌なことでもあったのか?」
 誰のせいで、と叫びかけてヴァヴァロは言葉に詰まった。真剣に、心配そうに見つめてくる赤紅色の瞳。いま以って彼は、自分のことを微塵も異性として意識していない。
「──……っ!」
 それがよく分かるから、喉元まで出かかった言葉を声にできなかった。想いを再び口にしたらどうなってしまうのか、考えることが怖かった。
 ヴァヴァロは俯きかけ、そして彼の背後、枕元の棚に飾られた赤いバラに目を留めた。一輪だけ花瓶に生けられた、艶やかな赤いバラ。花冠が枕のほうを向いているのは、彼が寛ぎながらバラを愛でていたからだろうか。
 言葉にできない想いが胸を締めつけた。ヴァヴァロは膝の上で拳を握りしめる。
「あ、あのねっ。私、好きな人ができたのっ」
 ヴァヴァロの言葉にアルテュールは目を見開いた。
「お、おおっ?」
 心底驚いたような声だった。ヴァヴァロは真っ赤な顔を伏せたまま続ける。
「それで私、その人に告白、したんだけど」
「えっ、お、おお、それで?」
 ちらりとアルテュールを見上げ、すぐに目を逸らした。
「告白だって、気づいてもらえなくて……流されちゃって、それで……」
 ちらりちらりと何度も視線を向けた末、ぎゅっと目を瞑った。──言えない。どうしても。目の前にいるのに。こんなに真剣に耳を傾けてくれているのに。どうしても、言えないのだ。
「そ、そんな鈍い奴がこの世にいるのかよ……」
 アルテュールは呆気に取られた様子だった。いっそ暢気にさえ聞こえる言葉に恨めしさを覚えそうになる。
「……ははあ、それで……」
「え、なに……?」
 いったい何を納得したのか。しばらく黙り込んでいたアルテュールが呟いた。
「ちなみにそれって俺も知ってる奴……や、言わなくていい。詮索されるのは嫌だよな、ごめん」
 咄嗟に口を開きかけたヴァヴァロをアルテュールは制止する。ヴァヴァロは堪らずベッドに突っ伏した。
「で、でもほら! 断られたわけじゃないんだろ? それならまだ可能性はあるじゃないか。もう一度なんとか機会を作って……」
 アルテュールは慌ててヴァヴァロの身体を起こそうとした。ヴァヴァロはガバッと顔を上げる。
「い、言えないよっ! 一回言うだけでもすごく勇気が必要だったんだよ? それなのに二回も三回もなんて無理だよっ!」
 ──だってこんなに脈がない。真正面からの告白も、ヤケクソじみた色仕掛けも効かないのに、これ以上どうしろというのだろう。
「ア、アルテュールならできる? 脈がないって分かってる人相手に、何度も何度も、振り向いてもらえるまで告白できる?」
 アルテュールは言葉に詰まった。深い溜息をつき、額を押さえる。
「……ごめん。無神経だったな」
「もう、いい。戻る。こんな時間に押しかけてごめん」
「ヴァヴァロ」
 アルテュールはベッドから降りようとするヴァヴァロの手首を掴んだ。
「ヴァヴァロはそのままでも素敵なお嬢さんだからな?」
「ん……」
 ヴァヴァロの肩がぴくりと震えた。肩越しに振り返り、緊張した面持ちで続く言葉を待つ。
「ヴァヴァロが好きな奴ってのがどんな男かは知らねーけど、そいつのことで悩んで投げやりになったり、自分を曲げたりする必要はないんだからな。ヴァヴァロはヴァヴァロのままで魅力的なんだから」
 真心からの言葉なのだろう。彼は本気で言ってくれているのだ。だからこそ、いまはヴァヴァロの心を抉るだけだ。
「でも私のこと、抱けないんでしょ」
 八つ当たりのような口調になった。子供じみた態度だという自覚はあるが、ささくれ立つ心を抑えられない。
「だからそうやって不貞腐れるなって。ヴァヴァロは可愛いから」
 ヴァヴァロはきゅっと唇を結ぶ。
「……じゃあぎゅってして」
「んえ?」
「前みたいにぎゅってしてよ。そしたら帰る」
 ──何かをやり遂げた時。お互いの無事に安堵した時。しばしの別れから戻った時。そして心が弱っている時。アルテュールと抱擁を交わすのは日常茶飯事だ。何も珍しいことではない。自分が成人したのを境にアルテュールは遠慮がちになってしまったが、何も完全にしなくなったわけではない。
 ヴァヴァロの唐突な要求にアルテュールは肩の力を抜いて微苦笑した。
「子供扱いするなって、いつも言うくせに」
「い、いいでしょっ。今日は落ち込んでるのっ」
 確かにそう言って反発することも多いけれど。
 ムキになって言い返すヴァヴァロにアルテュールは両腕を差し伸べた。
「ほら、ちょっとだけな」
「ん……」
 ヴァヴァロはもぞもぞと腕の中に進んだ。長く逞しい腕が優しく身体を包んでくれる。広く温かい胸の中にすっぽりと収まった。
 久方ぶりの感触にヴァヴァロは少し泣きそうになった。額と鼻先を彼の胸元に擦り当てると、背中をトントンと優しく叩いてくれる。
 女性らしさをアピールしようと突撃してきたのに、これでは台無しだ。そう思うのに、一度彼の腕に抱かれるとすべてがどうでもいいような気がしてきてしまって、身体から力が抜けていく。
「おでこにちゅーもして」
 小さな声で要求する。アルテュールは呆れたような、困惑したような笑みを浮かべた。
「ヴァヴァロさん?」
「き、今日だけっ。たまにはいいでしょっ」
「はいはい」
 唇をとがらせているヴァヴァロの前髪を軽く上げると、アルテュールはその額に軽く口づけた。柔らかな唇の感触にヴァヴァロは胸が温かくなる。
 我ながら単純だな、と思う。たったこれだけで、今日はもう十分、報われたような気がした。
「落ち着いた?」
 ヴァヴァロは名残惜しく身体を離した。優しく尋ねられ、小さくはにかんだ。
「うん、落ち着いた。……えへへ」
 ヴァヴァロはぴょんとベッドから飛び降りた。軽くなった足取りで扉の前まで戻ると、アルテュールを振り返った。
「じゃあ、おやすみ」
 すっかり機嫌が上向いたらしいヴァヴァロにアルテュールは微苦笑する。
「あい、おやすみ」


01へ 戻る 03へ