森の呼び声

「アルテュール、どうかした?」
 夜闇に包まれた黒衣森。
 野営地で寝支度をしていたヴァヴァロは、立ち尽くしたまま森を見つめるアルテュールに首を傾げた。
「……ああ、うん……」
 漫然とした返事だった。仲間の呆けた声に、火のそばで歓談していたミックとエミリアも怪訝そうに振り返る。
「アルテュールさん?」
 さわ、と風が木々を揺らした。
 その風に誘われるようにアルテュールがふらりと歩き出す。暗闇に沈んだ、夜の森に向かって。
 ミックとエミリアはハッと顔を見合わせると血相を変えて立ち上がった。
「アルテュールさん!!」
 駆け寄ってきた二人に強く腕を掴まれ、アルテュールは我に返ったように目を瞬かせた。
「なになに、どうしたよ」
「それはこっちの台詞ですよっ。ほら、もう休みましょう」
「んなに心配しなくてもどこも行かねーって。なんか聞こえたような気がしただけで」
「だめです、我慢してください。エミリアさん、何かあったらすぐ起こしてください」
「分かった」
 その場に踏みとどまろうとするアルテュールを強引に火のそばまで連れ戻すと、夜番のエミリアと頷き合い、ミックは手早く二人分の寝床を整え始める。
「え、え?」
 何が起こっているのか分からず、ヴァヴァロはぽかんとしてしまう。
「ヴァヴァロは反対側で寝て。アルテュールさんが一人でどこか行こうとしたら絶対に止めて」
「う、うん」
 アルテュールを無理やり寝かそうとするミックに頼まれ、ヴァヴァロは戸惑いながらも自分の寝床をずりずりと二人のそばに寄せた。
「もっと寄って。ぴったりくっついて」
「わ、わかった」
「だー! 大丈夫だって!」
 大袈裟だと反発するアルテュールをぎゅうぎゅうと挟むように横になり、やがて観念した彼の寝息が聞こえ始めると、ようやくミックが肩の力を抜いた。その様子に困惑しながら、ヴァヴァロも次第に微睡んでいった。

「ねえ、昨日のことなんだけど、聞いてもいい?」
 翌朝、小川の辺で朝の身支度をしていたヴァヴァロは、横で顔を洗っているミックに遠慮がちに尋ねた。
 ミックは顔を拭きながら、ああ、と苦笑する。
「アルテュールさんのこと?」
「う、うん。ミックとエミリアさん、何をあんなに警戒してたのかなって。アルテュールの様子も変だったし」
 ミックは川面に視線を落とした。
黒衣森ここだとさ、時々、森に呼ばれたまま帰ってこない人が出るんだ。昨日のアルテュールさん、ふらふら森の方に歩いて行こうとしてたから、危ないなと思って」
「森に……呼ばれ……?」
 耳慣れない表現にヴァヴァロは目を丸くする。
「せ、精霊に呼ばれたってこと?」
 黒衣森に宿ると言われる森の意思、精霊。
 ヴァヴァロには存在すら感じ取ることができないが、この森において、精霊の意思は何よりも優先されることは知っていた。
 その姿なき存在に呼ばれたということだろうか。わずかに背筋が寒くなるのを感じ、ヴァヴァロは首を竦めた。
 ミックは頷く。
「無事に戻ってきた人は皆そう言うんだ。森に呼ばれた、精霊の声が聞こえたって。そういう時は、後のことは道士様に任せておけば大丈夫なんだけどね。昨日みたいに夜の森に出て行こうとする人は蔵に閉じ込めてでも止めないと。他のことに気を取られたまま夜の森に踏み込んでいくなんて、わざわざ迷いにいくようなものだから」
「昨日のアルテュールにも精霊の声が聞こえた……?」
「そうじゃないかな。アルテュールさん、何も言おうとしないけど、時々そんな素ぶりを見せるからさ。だから聞こえてるんじゃないかなとは、まあ、前から思ってはいたんだよね」
 ヴァヴァロは背後の森を振り返った。朝露に濡れた森は陽射しを浴びて柔らかに明るい。神秘的にすら感じる森の景色のどこかに、あるいはそこかしこに宿る森の意思。
 ──思い返してみれば、とヴァヴァロは森にいる時のアルテュールを思い起こす。
 思えば森にいる時の彼は物静かだ。猫のように何もない方向を眺めていることがあり、かと思えばふと微笑んで「近くにモーグリがいる」と教えてくれることもあった。
 黒衣森の静謐さに合わせた振る舞いなのだろうと勝手に解釈していたが、もしかしたら自分には聞き取れない声に耳を傾けていたのかもしれないと、今になって思い至る。
 でも、とヴァヴァロは首を傾げた。
「それって隠さないといけないことなの? だって、えと、角尊つのみことだっけ。グリダニアの偉い人って、精霊の声をよく聞くために角が生えてるんでしょ? 道士だっているわけだし、精霊の声が聞こえるのって良いことじゃないの?」
 ミックの口ぶりではアルテュールが精霊の声を聞く才能を隠しているかのようだ。事実、彼自身の口からその話が出たことは一度もない。
「普通なら、まあね。道士の才能があったり、角尊として生まれるのはめでたいことなんだ。でもアルテュールさんは……。……アルテュールさんは、グリダニアの人じゃないから。だから本人も、何も言おうとしないんじゃないかなって」
「ええと……?」
 ミックが言わんとすることが分からずヴァヴァロは困惑する。
「つまりその、アルテュールさんは」
 ミックも言葉に迷っているようで、何度も口を開きかけては噤んだ。
 気まずそうなその様子に察するものがあった。
「シェーダー族だから問題があるってこと?」
 ヴァヴァロが慎重に尋ねると、ミックは一瞬、言葉に詰まる。やがて大きく息を吐くと肩を落とした。
「シェーダー族の道士がいないわけじゃないんだ。ムーンキーパー族の道士だって。でもこの森で、人里から離れて暮らしている人達に向けられる目って、どうしても厳しくなりがちだからさ。グリダニアに反発する人達の中から道士の才能を持つ人が生まれてきたら、双方にとって色々面倒なんじゃないかなって」
「そういうもの?」
「ま、ぜーんぶ俺の憶測なんだけどね」
 ミックが考え事を放棄するように地面に寝転んだ。
 ヴァヴァロは苦笑する。
「アルテュールはグリダニアのこと、別に嫌いじゃないと思うけどな」
「そうだね。それは俺も感じるよ。むしろ好きなんだろうなって話してて感じるし。ただ、精霊の声が聞こえるっていうのは、森だとすごく重要なことだからさ。迂闊なことを口走って厄介なことになりたくないんじゃないかな」
 頭の後ろで腕を組み、森の狭い空を見上げながらミックはため息混じり言う。
「黒衣森って、たまに難しいね」
「そう?」
 外つ国で生まれ育ったヴァヴァロにとって、黒衣森の教えは奇妙に映ることも多い。全ての根底に精霊の存在があると知識としては理解できても、どうしても実感に乏しかった。
「精霊って」
 ヴァヴァロは周囲を指差す。
「この辺にもいる?」
 ミックは上体を起こして頷いた。
「いると思うよ。精霊は、黒衣森のどこにでもいる」
 あっけらかんとした答えだった。ヴァヴァロはしげしげと朝の森を眺め回す。
「ミックは聞いたことある? 精霊の声」
「ないよ。一度くらい聞いてみたいとは思うけどね」
「アルテュールに聞いたら、どんなふうか教えてくれないかな」
 ヴァヴァロの呑気な言葉にミックは渋い顔をした。
「どうかな。あの人、自分のことは全然話してくれないんだもんな」
「だよねえ。いつもはあんなにお喋りなくせにさ」
 ぼやくミックの隣でヴァヴァロも唇を尖らせた。
「そーそー。しかも世話焼きなくせにさ」
「そのくせ不良ぶってる」
「ほんとは真面目なくせに」
「でも寝坊助だよ」
「甘えてるんだよ、俺たちに」
「寂しがり屋だもんね」
「いつも人恋しいんだ」
「そうかも」
 先輩についてひとしきり好き勝手に言い合って笑うと、ミックは森に目を戻した。
「実際、精霊の声を聞くのってどんな感じなのかなって最近思うんだ。俺が見てる森とアルテュールさんが見てる森は、もしかしたら全然違っているのかもしれないなって」

 身支度を終え野営地へと戻る道すがら、ヴァヴァロは興味深く周囲の様子をうかがった。やはりヴァヴァロには何も感じ取ることができないが、すぐそばで精霊が囁いているのかもしれないと思うと奇妙な気分だった。横を歩くミックも同じようなことを考えているのか、神妙な面持ちで森を眺めている。
「え」
 ふと前方に視線を戻したミックが引き攣った声を上げた。
「え──ふ、二人は!?」
 その声に釣られて前方を見やったヴァヴァロも思わず声を裏返す。野営地で待機しているはずのアルテュールとエミリアの姿がなかった。
 ヴァヴァロはぞっとして焚き火跡に駆け寄る。四人の荷物は昨夜のまま。森の中にぽっかりと穴が空いたような野営地はしんと静まり返っていた。
「アルテュールさん! エミリアさん!?」
 ミックが声を張って二人を呼ぶと、すぐに遠くから応答があった。森の奥から何事もなかったようにアルテュールとエミリアが姿を現すと、ミックはその場にへたり込んだ。
「焦らせないでくださいよ、もう……」
「ごめんね。アルテュール君がどうしても気になるっていうから」
 エミリアが申し訳なさそうに笑う。
「二人とも荷物はもう纏められるか? 良かったら街に戻る前に、少し付き合ってほしいんだ。探したいものがあって」
 後輩たちの心配が通じた様子もなく。一夜明けて落ち着いたかと思いきや、依然として森の様子が気になるらしいアルテュールが二人をせっつく。
「何を探すの?」
 ヴァヴァロが恐る恐る尋ねると、アルテュールも困ったように頬を掻く。
「それは、見つけてみねえと分かんねえんだけど」
「昨日の夜に何か聞こえたって言ってたアレ?」
「まあ、そんなところ」
 ──それは精霊の声なのか。
 はっきりと尋ねてしまうか迷い、ヴァヴァロはミックとエミリアの顔色をうかがったが、二人も言い淀んでいる様子なのを見て取り、口を噤んだ。
「なんて聞こえたの? それって言葉にできるような声?」
 せめてもの思いで婉曲に尋ねる。
 ヴァヴァロの問いかけにアルテュールは腕を組んで考え込んだ。
「……こっちにいるよ・・・・・・・
「え?」
 緊張した面持ちで返答を待っていた三人の表情が凍る。
こっちにいるよ・・・・・・・こっちにいるよ・・・・・・・って、ずっと何かを探して欲しそうに繰り返してる……ような気がする」
 全身から血の気が引くのを感じ、ヴァヴァロはアルテュールの足にしがみついた。
「それ悪霊か何かだよ! やめなよ! もう帰ろうよ!!」
「そんな怪しげな感じじゃねえから大丈夫だって! や、でも曖昧なまま連れ回すのも悪いしな。やっぱ一人で行ってくるわ。皆は先に──」
「それはダメー!!」

 結局、一人で森の深部へ踏み込んでいこうとするアルテュールを誰も止めることができず。
 姿なき声を追って沢を越え、岩場を越え、咽せ返るような緑の中を時折、周りの存在など忘れてしまったかのように進むアルテュールが探し出したのは。
 森に抱かれるように遺されていた、幼い人の子供の白骨だった。

「ねえ、アルテュールが聞いたのって、精霊の声だったの?」
 最寄りの集落に引き返し、駐在している鬼哭隊士に一連の出来事を報告した一行は、一路グリダニアに向かっていた。
 〝俺が発見者だと話が厄介になるかもしれないから〟と、ヴァヴァロたちに報告を任せたアルテュールは、集落を発って以来、口を閉ざしたままだった。
「……さあ、どうだかね。見つけてほしかったあの子供の声だったのかも」
 何度も迷った末、ようやくヴァヴァロが口にした疑問にアルテュールは肩を竦めた。事ここに至っても曖昧な物言いしかしないアルテュールにヴァヴァロはもどかしくなる。
「アルテュール君。もし精霊の声が聞こえているなら、一度幻術士ギルドに相談してみたほうが良いと思う」
 ヴァヴァロの追及よりもエミリアのほうが早かった。
 エミリアの言葉にアルテュールは無言で振り返る。
「昨日みたいに森に呼ばれることは、きっとこれからもあるはずだから。取り返しがつかない事故が起こる前に、声との向き合い方をちゃんと学んだほうが良いと思う。幻術士ギルドなら私にも伝手があるから、良い人を紹介してもらうよう頼むこともできるし」
 控え目に、それでもはっきりと提案するエミリアにミックも同調する。
「俺もそうしたほうが良いと思います。昨日のアルテュールさん、大丈夫だって自分では言ってましたけど、すごく危うい感じだったんですよ。今日だって」
 アルテュールは笑う。
「聞こえないよ、精霊の声なんて」
 ミックは一瞬、言葉を失った。
「で、でも! だったら、なんであんな必死に……」
「俺は精霊の声なんて聞きたくないし、これからも聞かない。──聞こえないほうがマシなことだってあるだろ」
 なおも言い連ねようとするミックとエミリアに苦笑し、アルテュールは荷を背負い直す。
「行こうぜ。付き合わせちまったからなー、グリダニアに着いたらなんか奢るよ。ほら、難しい顔はやめやめ」
 陽気な調子で手招きするアルテュールに、三人は困惑して顔を見合わせるしかなかった。

 後日、ヴァヴァロが冒険者ギルド経由で受けた報告によると。
 アルテュールが発見した白骨は、最後に立ち寄った集落の子供のものであろうこと。
 精霊の声を聞く才能に恵まれた幼子は、将来道士になるであろうと目されていたこと。
 大人の目が離れた一瞬の隙で森に呼ばれてしまったこと。
 子供の足では到達できないと考えられていた場所まで足を伸ばしてしまっていたこと。
 そのせいで発見が遅れてしまったこと。
 子供の両親が「これでようやく気持ちに区切りをつけられる」と涙ぐんでいたこと。
 そして発見者と精霊に感謝していたこと──。

 ヴァヴァロから事の顛末を聞いたアルテュールは、「弔えたのなら良かった」と目を伏せるばかりだった。


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